生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Bunge哲学辞典:model モデル〔模型〕

2012年08月27日 22時54分59秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年8月27日-3
Bunge哲学辞典:model モデル〔模型〕

model モデル〔模型〕 [BungeDic1, p.39]
 【a 視覚的】観察できない物または過程の図像的モデル〔模型〕は、それの視覚的類似 analogyである。例:電磁場の力線諸モデル、ボーアの原子模型、電磁力学過程のファインマン ダイアグラム〔ファインマン線図〕。19世紀には、著名な物理学者たちは、このようなモデルの役割についての活発な論争に深く関わった。典型的には、実在論者はそれらの模型を擁護したが、実証主義者と規約主義者は攻撃した。このようないくつかのモデル(たとえばボーア模型)は実在物の粗い表象であるが、他は(たとえばファインマンのものは)まさしく類似か単なる記憶を助ける工夫であると、今日では一般的に認められている。
 【b モデル-理論的】一つの_モデル_は、言葉のモデル-理論的な意味では、一つの抽象的理論(または形式化された言語)の一例(または、よく言われるように『現実化』)である。たとえば、命題計算はブール代数の一つのモデルまたは例である。↑【解釈 interpretation】、↑【モデル理論】。
 【c 科学的と科学技術的】〔原文はbとなっている間違いだろう。→増補版と照合せよ。〕科学または科学技術における理論的モデルは、或る事実的領域の特殊理論である。例:ヘリウム原子のモデル〔模型〕、細胞増殖のモデル、製造会社の模型。このようなモデルは、モデル理論で研究されるモデルとは無関係であるが、科学についての或る全体哲学はこれらの混同にもとづいている。つまり、↑【モデル混同〔混乱〕 models muddle】。二つの種類の理論モデルが区別されなければならない。つまり、拘束モデルと自由モデルである。_拘束モデル_は、(たとえば古典力学や一般均衡理論といった)一般理論を特殊諸仮定で充実する〔強化する〕 enrich ことの結果である。例:単振り子模型と資本市場のモデル。対照的に、_自由モデル_は、ゼロから〔from scratch〕作られる。例:或る事業会社〔商社 business firm〕についての諸モデル、発明の普及についてのモデル。生物学、社会諸科学、そして科学技術における理論的(または数学的)モデルは、たいていは自由モデルである。このことは、これらの専門分野がいまだ理論的に遅れているか、あるいは一般性を手に入れるのは困難だということのどちらかを、示している。


Bunge哲学辞典:classification 分類[と関連事項]

2012年08月27日 15時29分10秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年8月27日-2
Bunge哲学辞典:classification 分類[と関連事項]

クラス、分類、生命、自然類、種、分類学、類型学

class クラス [BungeDic1, p.39]
 一つの(単純なまたは複雑な)述語によって定義された収集体 collection(とりわけ、集合 set)。【同義語】類 kind、型 type、種類 sort。クラスの代数学とは、集合を全体として扱い、それらの合併〔和集合〕、共通部分〔積集合〕、そして補集合を研究する論理学の分野である。
 〔訳注。マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』では、二つ以上の述語によって定義された収集体を、類 kindとしている。なお、この哲学辞典には、kindという項目は無い。〕

 
classification 分類 [BungeDic1, p.39]
 一つの収集体を、互いに素な部分集合(種 species)に、 網羅的に分割することと、部分集合を、属といった、より高位のクラス(タクソン)にグループ化〔群化〕すること。分類には、二つの論理的関係が含まれる。すなわち、クラスにおける個体という属員性 membership(∈)と、より高位階のクラスにおけるクラスという包含 inclusion である。よって、あらゆる分類は、集合理論の↑【モデル model〔模型〕】(例)である。↑【分類学 taxonomy】

 
生命 life (p.163)
 諸生命科学の中心的概念.生きものまたは有機体の本性〔=本質的性質〕に関して四つの主要な見解がある.つまり,生気論,機械論〔mechanism〕(または物理化学主義),マシン〔機械〕主義〔machinism〕,そして有機体論(または生物システム主義)である.↑【生気論】は,『生命』を,たとえば『生命衝動』といった,何らかの非物質的な存在者と目標へと努力する傾向なるものによって定義する.↑【機械論】は,『生きている』という述語は物理化学の用語によって定義可能であると主張する.つまり,有機体は大変複雑な物理化学的システムにすぎない.↑【マシン主義】は,有機体を機械に似たもの,つまり設計され,プログラムされ,そして目標指向的〔goal-directed〕なものとして考える.有機体論(または生物システム主義)は,生命を何らかの極度に複雑なシステムの創発的性質とみなす.このシステムの遠い先祖は,約40億年前には生命のない〔abiotic〕ものであった.生気論は,まったく信用されなくなった.不毛であり,非物質的なエンテレキーなるものは,観察と計算をしようにも不可能だからである.機械論はいまだに流布しており,分子生物学の誕生以来は特にそうであるが,生きものの特有性のいくつかを説明することには失敗している.とりわけ,それは,なぜ有機体における代謝過程が,概して,中性的または自己に仕えるのではなく,有機体に『仕える』のかを,説明しない.機械論はまた,自己洗浄と自己修復のメカニズムの創発も,説明しない.つまり,生きていない化学系は,ついには反応のいくつか,あるいはすべてさえも停止させるような,反応を抑制する化学物質を蓄積するかもしれない.機械論は,デカルトによって創始され,それ以来広まったが,今日ではコンピュータ科学の連中に人気がある.その連中は,生命プロセスの特定の特徴をコンピュータシミュレーションしたものを,↑【人工生命】と呼んでいる.皮肉にも,マシン主義は,設計と計算という概念に含まれる目的論を,生気論と共有している.生物システム主義だけが,化学的前躯体からの生命システムの自己集成についての分子生物学的説明と,遺伝子変化と自然淘汰による進化の理論を認めるだけでなく,生命を化学レベルに根をおろした一つの創発レベルとして認めもする.↑【創発】,↑【創発主義的唯物論】,↑【システム主義】.

 
自然類 natural kind (p.191)
 恣意的からはほど遠い,一つの性質または一つの法則によって定義される収集体.例:すべての生きものは,生物体というクラス(自然類)を構成する;社会的関係によって結ばれる人々から成るすべての存在者は,社会システムというクラス(自然類)を構成する.唯名論者,規約主義者,そして主観主義者(とりわけ現象論者)は,自然類という観念そのものを拒否する.よって彼らは,周期律表,化学元素の変換〔transmutation〕,あるいは生物学的種形成を説明できない.

 
種 species (p.274)
 いくつかの基本的性質を共有する物の収集体〔集まり〕.例:化学的種と生物学的種.分類における最初の段階.より包含的な概念として,属,科,王国がある.属とその種の間の関係は,次の通り.一つの属はその種の和集合である.つまり,これらのどの一つもその属に包含される(⊆).そして,あらゆる個物は一つの種の属員〔成員〕である(∈).種は具体的個物であるという見解は,属員関係を部分-全体関係と間違えているために,この分析を無視している.↑【自然類】,↑【分類学】

 
分類学 taxonomy (p.289)
 ↑【体系学】の方法論:↑【分類】,特に生物学における分類の原理の探求.これらは:(1) 当初の収集体〔collection集まり〕のあらゆる属員は何らかのクラスに割り当てられる;(2) 二つの型のクラスがある.つまり単純なクラス(種)と複成的〔composite〕クラス(たとえば属)である.後者は二つ以上の単純クラスの和集合である;(3) 各々の単純クラスは当初の集まりの属員のいくつかから構成される;(4) 各クラスはその属員が一つの述語か,述語の連言によって決定される集合である;(5) 各クラスは明確〔definite〕である.つまり境界線上の例は無い;(6) 二つのクラスはいかなるものも,互いに素であるか,あるいはどちらかが他方に含まれる.つまり,前者の場合は同一の階級〔ランク〕に属すると言われ,そうでなければ異なる階級に属すると言われる;(7) 二つの論理的関係だけが,分類に関与する.個物とクラスの間に保持される属員関係∈と,異なる階級のクラスを関係づける包含関係⊆である;(8) あらゆる複成的クラスは,直前の階級でのそれの下位クラスの和集合に等しい;(9) 所与の階級のすべての複成的クラスは,対ごとに互いに素である(共通部分が無い);(10) 所与の階級のあらゆる分割は網羅的である.つまり,所与の階級におけるすべての和集合は,当初の収集体に等しい.もし条件(9)が満たされないならば,本来の分類ではなく,↑【類型学】で満足しなければならない.↑【種】.

 
typology 類型学 [BungeDic1, p.301]
 或る類の対象を↑【理想型 ideal types】にグループ化すること。例:進化と混血を無視して、人類を純粋な人種〔種族 races〕に分割すること。↑【分類】と混同されてはならない。類型的思考は、進化理論と集団遺伝学の出現とともに生物学では信用を落とした。社会的諸研究では、いまだに強い。

 
〔訳者の主張。
 互いに素であるようなタクソンたち(タクサ taxa)は、類型的思考として扱える。それは種というタクソン的階層に属する構築体である、個々の種[という分類カテゴリー]である。
 種というタクソンは、属員関係 membership relation と包含関係 inclusion relation という二つの関係を他(片や生物体という実在物、他方は構築体)と持っている。包含関係は構築体どうしの論理的関係である。
 包含関係は、分類学的階層 taxonomic hierarchy と呼ばれるものを構築するときの関係である。種階級 species rank を越えるタクサの関係や、それへの帰属は、しばしば生物分類学的営為において変更される。
 種タクサだけを設定するのがよい。属以上は、お遊びに近い。体系化のための構築体だからである。それらが実在的に感じられる場合もあるが、現実に生物体を産み出しているのは、種システムであって、属システムというようなものは実在しないであろう。(在るとして)観念世界には存在するかもしれない。(ここで実在性 reality の相対性については触れない。実在性についても、その種類と程度が考えられる。ここでは、どの世界から、その世界またはそれ以外の実在性を測定するかが問題であって、要は、実在性や実在感(の種類と程度)は、相対的である。

 
 1. 種[という分類カテゴリー]は、生物体という具体的存在者(つまり実在する物体)とは属員関係にある。
 2. (実在的な realistic、あるいは実在する real かもしれない存在者 entity としての)種システムは、その種に属すると同定される生物体を生成するまたは産み出す。
 3. 2に規定される種システムが実在するかどうかは、かなり未来の研究課題であろう。検出手段が揃わない。しかし伺い知ることならば、或る程度は可能である。
 4. 現今では、各種の発生システムを図解することが急務である。とりわけ、発生なら発生に必要かつ十分な諸メカニズムをシステム的に図示することが重要である。
 5.



Bunge哲学辞典:time 時間〔時〕

2012年08月27日 12時45分16秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年8月27日-1
Bunge哲学辞典:time 時間〔時〕

time 時間〔時〕 [BungeDic1, p.297-298]
 数学と新古典派ミクロ経済学を除けば、すべての専門分野によって共有される、基本的な存在論的カテゴリー〔部類、範疇〕である。時間という概念は、つかみどころが無くて、それゆえ大変無意味な論題でありつづけた。たとえば、ハイデッカーは『時間とは一時性が成熟することである』と書いた。別の例は、時間は流れるという隠喩である。それが無意味なのは、時間は物ではないからである。↑【時間の矢 arrow of time】。『流れる』(変化する)ものとは、実在する物である。きわめて大ざっぱに言えば、時間は実在する物が変化する歩み〔歩調 pace〕である。(すなわち、時間は絶対的ではなくて、相対的である。)しかし時間は、いかなる特定の実在物の性質でもない。つまり、空間と同様に、時間は『公的 public』、すなわち、すべての物によって共有される。(より精確には、任意の所与の参照枠に対して相対的な relative to 時間は、電磁的信号を通してその枠と結ばれ得るすべての物によって共有される。二つの時間概念が区別される。すなわち、物理的(または存在論的)時間と知覚的(または心理的)時間である。物理的時間は通常客観的だとみなされているが、心理的時間は、定義によって、或る主体によって知覚される時間(むしろ期間〔経過期間〕 duration)である。物理的時間は客観的であるが、他のあらゆるものから離れてそれ自体で存在するのではない。そういうわけで、時間はなんらかの過程かそこら、たとえば揺れる振り子か放射性物質の崩壊という過程を観測することによって測られる。そして厳密に言えば、時間は知覚不可能である。われわれは、或る過程を知覚するか感じることができるだけである。そしてこのような知覚は、そのような過程におけるわれわれの参加〔関与 participation〕に決定的に依存する。よって、感覚遮断についての実験の対象者は、すぐに時間を数えそこなう。物理的時間の本性について、主に三つの見解がある。すなわち、時間は存在しないという見解(無時間論 achronism)、それ自体で存在するという見解(絶対的捉え方)、そして生成の歩調だという見解(関係的理論 relational theory)である。無時間論は、時代錯誤となった。絶対的見解によれば、時間は変化する物とは独立的であるので、何物も変化しない場合でさえ、そして宇宙が空ろであっても、時間は在る。時間を捉えるにあたっての最初の重要な変化は、特殊相対性理論(1905)とともにやってきた。それは、時間を空間に(それらの区別は保ったまま)溶接し、時空間という概念を構築した。またそれは、あらゆる物理的状況において、二つの時間変数を区別した。すなわち、参照枠に付属する相対的時間と、着目する物理的な物に付属する固有時間である。一般相対性(1914)の始まりに先立って、物理学者は絶対的捉え方を前提とした。物理的な物または着目する過程を表象するに際して、剛直な rigid 空間-時間格子(または参照系)を選んだという事実に示されるように、である。それ以来、物質が高濃度である領域では(よって、強度の重力場では)、空間-時間測度の相関係数の値は物質の分布に依存し、したがって実験的に決定されなければならない、と一般的に合意されている。絶対的時間についての理論(仮説演繹的システム)は無い。他方、関係的時間についての一般的(哲学的)理論は少しある。いくつかは主観主義〔主観論〕的で、他は実在論的である。実在論的な最も簡単なものは、写像すべき或る物における時間順序を、その物の状態の連鎖 sequence とし、経過期間 duration をその同じ物における事象〔出来事〕の連鎖とする。その公理は次の通りである。所与の参照枠に相対的な任意の三つの点事象である e、e'、そしてe'〔→e"?、増補版を見よ〕に対して、
  T(e, e') = -T(e, e')、かつ、
  T(e, e') + T(e', e") = T(e, e")。
↑【時間の矢 arrow of time】、↑【空間 space】。