今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

不老山 春秋院 長生寺(広島県竹原市本町)

2015年01月16日 | 神社・仏閣
不老山 春秋院 長生寺
安芸の小京都「竹原町並み保存地区」を散策していたときに訪れた寺である。



石段を上ると山門が見えてくる






山号である「不老山」と書かれた鮮やかな額が掲げられている



小早川隆景の人物像を大河ドラマの「軍師軍師官兵衛」で学んだが、その人柄がこの説明文にもあらわれている



伊予国の豪族・河野通直が羽柴秀吉との戦いに敗れ、竹原に逃れていたが、24歳で病没し、その家臣たち42名も殉死
これを哀れんだ小早川隆景が、天正16年(1588)寺領200石を寄進して創建したもの



寺の境内にあった金比羅神社






撮影 平成26年10月26日
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安芸の小京都・竹原 その2(広島県竹原市本町)

2015年01月15日 | 名所・旧跡
竹原町並み保存地区
「町並み竹灯り ‐たけはら憧憬の路‐」というイベントの日に偶然ぶつかり、ふだんとは違った雰囲気を味あうことができた

 

「たけはら」という地名からか、「竹」がふんだんに使われている









お寺の石段にも竹が置かれている



少し離れてみると「マッサン」の文字になっている



竹の中に「ろうそく」を入れている人に話しを聞くと、この竹は商工会議所から配られているらしい



町中を歩くと店の前も美しく飾られている



もちろん店内も。竹と花の相性が美しい






 





この後、近くのホテル内の温泉に
入浴後、案内してくれた朋友に10分間だけ「竹灯り」見たいのでとお願いし車から降ろしてもらった



 


マッサンの生家前は夜も賑わっていた
朝ドラは地域の活性化につながることがよくわかる









「竹灯り」の光は心を和ませる力がある






道の駅で待ち合わせをしていたが、満車で駐車場に入れず道路に並んでいた彼の車に乗り込んだ



今晩、道の駅の駐車場で車中泊の予定だったが、無理と判断し彼の職場の敷地内で彼のキャンピングカーと2台で車中泊、いい思い出となった



夕食は彼の馴染みの焼き肉屋で食べたが、昨日からの人出で肉が無くなるほどだという
突然の訪問で彼には多額の出費をさせてしまったが、彼が北海道に来たときには恩返しをしようと思う

竹原出身の偉人「頼 山陽」






撮影 平成26年10月26日
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安芸の小京都・竹原 その1(広島県竹原市本町)

2015年01月14日 | 名所・旧跡
竹原町並み保存地区
防府市で大学時代の同期と酒を酌み交わしていたときに、その彼が広島県呉市に住む同期に私が広島に行くので頼むと電話をしてくれた
広島は帰り道でもあり、移動途中に電話をすると「竹原の道の駅」で会おうということになった



移動途中に電話が入り道の駅が混んで車を駐めることができないため、彼が勤務している職場で再会することに
この日は「町並み竹灯り‐たけはら憧憬の路‐」というイベントの最終日だという
最近よく見かける写真だが、この竹原と深い関係があるということを知った



「お好み焼き」をご馳走になり「町並み保存地区」を散策
写真では人が入り込まないように苦労しているが、若者を中心にかなりの人出である



 


地蔵堂
慶長7年(1602)、下市村の大火により焼失したが、その後再建され、塩浜の守護として信仰された



上市にある胡堂とともに、近世の町づくりの境界神としても貴重な遺構



現在の建物は昭和2年に建築



正面はイベントのための飾り付けがされている。竹の模様に注目してほしい



「ニッカウヰスキー」が描かれている



マッサンの生家
竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創始者)の生家。この周辺は特に人が多い
この旅に出る前、北海道の余市工場を訪ねているだけに何かしらの縁を感じた


















行列のできる「お好み焼き」店
今は休業時間のため人はいないが若者が並んでいる



「たまゆら」というアニメが人気で、この竹原の実在する町並みを忠実に表現して物語が展開しているそうだ



寺の境内で隣に座った若い女性の持っているカメラに興味を持ち話しかけた
「写真好きの女子高校生」がたまゆらの主人公だということを、大分後になって知り妙に納得したことを思い出した



 





この竹原は偉人も輩出している。元総理大臣の池田勇人も竹原出身
マッサンと同じ旧制中学で一緒に写っている写真も展示されている




 

 


表札には竹鶴の名が



隣にはマッサンの生家がある。旅の記念に日本酒「竹鶴」を購入



撮影 平成26年10月26日
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角島灯台(山口県下関市豊北町大字角島)

2015年01月13日 | 名所・旧跡
角島灯台
明治9年(1876)3月1日に点灯
海抜約19mと低地に築造されているため、当時としては数少ない高塔形式で建てられている



この灯台は内部が一般公開されている



当然ではあるが螺旋階段になっている



階段の幅が狭いため、降りてくる人をこのようにして待つことになる



灯台から見える景色



灯塔までの高さは30m。高所恐怖症の私には辛い環境である



この日は快晴で遠くまで眺めることができた



狭い空間に、次から次と人が来るため5分程度で降りることに
写真の男性が私をここまで案内してくれた大学時代の朋友である



狭くて急階段のため安全ロープのお世話になる



「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による最後の灯台で、日本海では初めての洋式灯台



歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれている



 


パンフレットに掲載されている写真と同じアングルから撮ってみた






角島灯台記念館
灯台の近くに資料展示室がある



建設監督を務めたジョセフ・ディック
灯台が完成してからも3年間角島にとどまり、日本人に技術指導を行った







 

フレネルレンズの一部も復元され展示されている



そして、一番驚いたのはこの模型。人力でレンガを積み上げている



灯台周辺は下関市立の角島灯台公園となっている



公園内から見える灯台






鳥居からの風景






灯塔は総御影石造りで、日本に2基しかない無塗装の灯台



青海島・角島観光は私の車旅に新たな分野を拓くきっかけをつくってくれた
忙しい中、案内してくれた朋友に心から感謝したい

撮影 平成26年10月25日
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角島大橋(山口県下関市豊北町神田 - 豊北町角島間)

2015年01月12日 | 名所・旧跡
角島大橋
大学時代の朋友に案内された次の場所は「角島(つのしま)」という所だが、突然、目の前に現れたのは海に架かる橋



運転をしていて、太ももがガタガタ震えるほどの衝撃が
鳥肌ものというが、まさにそんな感じだ
近くあったコンパクトカメラを取り出し数枚撮す



映画のワンシーンのような感動と美しさがある



本土側に大きな駐車場あり、車を駐めた



2000年(平成12年)11月3日に開通



北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを押さえ、周囲の景観に配慮した構造となっている



横断歩道を渡り反対側の展望台へ移動する



2003年(平成15年)に「土木学会デザイン賞2003」の優秀賞を受賞



完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。九州ナンバーの車が圧倒的に多い



テレビCM、特に自動車のCMのロケ地として多く採用され視聴しているのだが、日本にこのような場所があるとは知らなかった



山口県は「花燃ゆ」で注目されている地域だが、次回訪れる機会があったら「角島大橋」の夕景など撮ってみたいと思った



撮影 平成26年10月25日
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青海島(山口県長門市)

2015年01月11日 | 名所・旧跡
名勝・天然記念物 青海島
津和野から大学時代の同期と再会するために山口県防府市に
前夜は酒を酌み交わし楽しい一時を過ごし、久し振りにホテルのベッドで爆睡した
偶然だが春高バレーの決勝が本日行われていたが、彼は第1回大会で準優勝、指導者としても優秀な人物である



案内したい場所があると、最初に連れて行ってくれた所が「青海島」である
仙崎港から観光遊覧船が発着しているが、運良く待つこともなくすぐ乗船することができた



海上保安庁巡視船「おおみ」を見ながら、観光船「どりいむ」も出港



本土との間は青海大橋で連絡されている



北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ



日本百景に選定



国の名勝および天然記念物に指定されている



島の周囲は40Km。奇岩の並び立つ様子は壮観である






奇岩にはそれぞれ名称があるようだが、船内放送の説明だけでは覚えることはできない









大きな洞穴に近づいたり、時には洞穴内を通過したり、結構楽しむことができる
























これまで観光船でいい思いをしたことはないが、青海島観光は実に楽しい



運賃は2,200円、約1時間30分の所要時間を考えると納得できる金額






時折、漁船や釣り人の姿も見かけることがあり、風景に変化を与えてくれる









昨年も山口県の青海島の近くにきてはいるが、このような素晴らしい場所があるとは知らなかった



やはり、地元の人が案内してくれる場所というのはどこか違う






これまで北海道に住んでいるということもあり、自然にはあまり関心はなかったが、興味の幅が少し広がったような気がする



天気にも恵まれ最高の観光であった



撮影 平成26年10月25日
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乙女峠マリア聖堂(島根県鹿足郡津和野町後田)

2015年01月10日 | 教会
乙女峠マリア聖堂
昭和26年(1948)津和野カトリック教会神父、岡崎祐次郎が殉教者の霊を慰めるために乙女山の中腹、光淋寺跡に建立された聖堂



津和野で最後に選んだ場所は森鴎外の菩提寺である永明寺(ようめいじ)から、近い場所にある「マリア堂」
途中、道がわからなくなり地元人に尋ねると「乙女峠ね」と言って親切に道順を教えてくれた



「乙女峠」という響きはよいが細く長く続く道は、膝や心臓に負担がかかる



右側に教会らしき建物が見える



予備知識も全くなく訪れた教会であるが、この後、歴史的背景を知ることになる



明治政府がキリスト教を改宗させるために、長崎県浦上の切支丹信徒総員163名を津和野にあずけた



この人達は乙女山の光淋寺境内の納谷に預けられ、日夜残酷苛烈な拷問にかけられて改宗を迫られたという



聖堂内の様子









聖堂内のステンドグラスに当時の様子が書かれていると言われたのでもう一度入り直す

左:「明治元年、長崎浦上キりシタン流罪」 右:「津和野乙女峠で入牢」



左:「守山甚三郎、高木仙右衛門ほか同志氷責め」 右:「安太郎三尺牢で聖母マリアのまぼろしをみる」



左:「祐次郎、雀の親子をみて神の愛をさとる」  右:「5才のもりちゃん、お菓子の誘惑に、天国の味はもっとおいしいと答える」



左:「転び者のつぐない」 右:「殉教者の血はキリスト教の種である」



殉教者安太郎が伝えた言葉



「私は此三尺牢屋の内にて淋しゅうはございません……サンタマリア様の御影の顔立ちににておりますご婦人がお現れくださる…



けれども、このことは私の生きておるまでは人に話してはくださるな」



明治2年1月7日より19日までの間、聖母マリアが殉教者安太郎に毎晩出現した



古井戸と水洗い場
この古井戸と水洗い場は自分たちで食事を作る大事な場
減食の拷問が始まると飢えに苦しむ日々が続いた



左手の池では氷点下が続く真冬、裸にされたキリシタンが何度も入れられ、生死をさまようような拷問が行われていた



明治23年(1890)にビリオン神父が「信仰の光」と刻んだ石碑を建て、殉教した人達の霊を慰めた



乙女峠の聖母とその殉教者



拷問により改宗を迫られ、殉教した者 36名



殉教者記念碑案内



受難と復活






赤い色が染みこんだ十字架



十字架上で苦しみを受けながら流れた血を表している



記念聖堂(マリア堂)周辺の地に芝を植え桜やつつじを植えて美しい聖地「乙女峠」をつくった



毎年5月3日に行われる乙女峠祭りには、大勢の信徒が集まり、聖堂前の広場で荘厳な屋外ミサが行われる



予備知識も信仰心もなく、観光気分で訪れた私にとっては辛い時間となった



撮影 平成26年10月24日
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覚皇山 永明寺(島根県鹿足郡津和野町後田ロ)

2015年01月09日 | 神社・仏閣
覚皇山 永明寺
旅の途中で津和野行きを決めたときに、「赤い屋根」と「鴎外の遺言と墓」のことが頭に浮かんだ



道の駅で入手した案内から、鴎外の墓が「永明寺(ようめいじ)」にあるということを知った



私の車では道が狭すぎて行くことができないと判断し徒歩で向かうことにした



山門
小さな山門であるが、この先にある素晴らしさを予感できるほどの雰囲気をもっている



山門には「覚皇山」と刻まれた山号



説明文によると、森鴎外の他にも津和野藩藩主の坂崎出羽守の墓所 <大坂夏の陣で手柄を立てたが、のちに千姫事件で秀忠の怒りを買い切腹>がある



森林太郎墓
先に墓地を訪れる。案内板もあり容易に場所を発見することができた



この寺は森家の菩提寺であり、親族の墓石の中央に鴎外の墓がある






「森林太郎として死せんと欲す」の遺言通り墓石には「森林太郎墓」と刻まれている



調べてみると、三鷹市の「禅林寺」にも墓がある



森鴎外の遺言
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
 一切秘密無ク交際シタル友ハ
 賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
 臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
 件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
 雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
 余ハ石見人 森 林太郎トシテ
 死セント欲ス
宮内省陸軍皆
 縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
 アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
 森 林太郎トシテ死セントス
 墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
 字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
 依託シ
宮内省陸軍ノ榮典
 ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
 ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
 ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
 サス  大正十一年七月六日
       森 林太郎 言(拇印)



鴎外の遺言により、中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なもの
中村不折は洋画家・書家として活躍。漱石の「我が輩は猫である」の挿絵を描いた



中雀門
この門の先には入ることができなかったので、門から撮すことにした



鐘楼堂



屋根には「石州瓦」が使われている



大講堂



本堂



1420年(応永27年)に津和野城主吉見頼弘によって創建



この本堂は存在感があり驚いた。これほど規模の大きい茅葺き屋根を見たのは「阿岸本誓寺」以来である









この日は予定があり時間がなかったが、また来てみたい寺である



最後はコンパクトカメラでローアングルから一枚。津和野での目的は果たせた



撮影 平成26年10月24日
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森鴎外旧宅(島根県鹿足郡津和野町町田)

2015年01月08日 | 名所・旧跡
史跡 森鴎外旧宅 
森鴎外記念館横に鴎外の旧宅があり、国の史跡に指定されている。記念館側からの入口



森家は代々津和野藩の藩医



 


「鴎外先生詩碑」






 
こちらが正門になるのか



観光バスの団体客のガイドの説明が面白く、その時は参考になって写真を撮ったと思うがすでに記憶にはない



鴎外は文久2年、この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごした。



鴎外の勉強部屋



鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはなかった



遺書「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を見ると、この家での幼き日々の生活がいかに重要な意味をもっていたか明らかである



森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元



遠くの山の上に津和野城の石垣がかすかに見える



あの山の上から見えた赤色の屋根



鴎外旧宅にも「石州瓦」が使われている



津和野の地名の由来となった「ツワブキ」の花が咲いていた



撮影 平成26年10月24日
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森鴎外記念館(島根県鹿足郡津和野町町田)

2015年01月07日 | 博物館・美術館・記念館
森鴎外記念館
「森鴎外之像」
森鴎外は文久2年1月19日、現在の津和野町町田に生まれた



森鴎外記念館は、独立した鴎外の専門的な記念館としては世界で初めてのもの



近代的建築物でここが出入口になる



入口の長い廊下の先に受付、展示室がある



展示室入り口



展示室には時代背景も含めて鴎外という人物を知るための映像や資料が並べられている












記念館から従甥の鴎外に強い影響を与えたという「西周(にし あまね)」宅が見える



死に及んで「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残して、大正11年7月9日に永眠した。 享年60歳



 


撮影 平成26年10月24日
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津和野城跡(島根県鹿足郡津和野町後田)

2015年01月05日 | 
津和野城跡(史跡)
津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの山上にある山城である

津和野城には自然道を徒歩で行く方法もあるが、私は違う道を選んだ



「観光リフト」を利用するという楽な方法だ
多少の恐怖感はあるが、待ち時間もなく目的地の近くまで運んでくれる



堀切
尾根の方向に尾根続きを直交に遮断して敵の侵入や攻撃を防止することを目的として掘削した



中世の山城でよく用いられる手法で、吉見氏時代のもの



緑の木々に囲まれた遊歩道はとても気持ちがいい



先に進んでいくと「出丸か本丸か」の選択になる



ほんの少し上りがあるが、2~3分の我慢だ



出丸跡(別名:織部丸)
慶長5年(1600)吉見氏に代わり津和野へ入城した坂崎直盛が改築の時に築いた
弟で家老浮田織部指揮をとったことから「織部丸」ともいわれている



出丸が本城を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった






東西約18m、南北約45m 石垣に沿って堀が巡らされていた。本丸東門までの距離244m



出丸から本丸を目指す



「史跡 津和野城址」と刻まれた石柱
城址とは石垣だけが残っているということ



案内板には「中世山城 津和野三本松城跡」と書かれている



文永11年(1274)、弘安4年(1281)の蒙古来襲を受け、鎌倉幕府は吉見頼行に海岸防備を命じた
頼行は家来とともに能登から地頭として入り築城を始めた



その後、この山城は天文23年(1554)の「三本松の役」では、大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に包囲されながらも100日の籠城戦に耐えた

東門跡
石垣が三段になっているが、三段櫓跡となる



かつては三層の天守閣があった



馬立跡・台所跡
馬立は乗馬をつなぎとめておくところ



台所跡には石列による排水機能が見て取れる



西櫓門跡






天守台



三十間台



山の上から自分の目で見て確認したかったことがある。それは、屋根の色である



リフトの係の人に聞くと「石州瓦」独特の赤い色で、津和野が産地になっているそうだ

 

太鼓丸









津和野という地名の由来となっている「黄色のツワブキの花」



下りのリフトは初体験になるが、高所恐怖症の私には厳しい試練となった



撮影 平成26年10月24日
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太皷谷稲成神社(島根県鹿足郡津和野町後田)

2015年01月01日 | 神社・仏閣
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします
今年度、最初は「津和野」にある神社から



太皷谷稲成神社
津和野を訪れたのは初めてで、道の駅で入手した資料でその存在を知った
太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)といい人気スポットになっている
参拝者専用駐車場に車を置きしばらく歩いていくと朱色の鳥居が見える



この日は天気も良く反対側の山裾に霧がかかっていてとても綺麗だった



緩い坂道を上がっていくと、朱色の社殿が見えてくる



早い時間だったこともあり、巫女さんが「手水舎」の清掃をしていた
私が汚すわけにいかないのでそのまま通過することにした



神社の全景。予備知識もなく訪れたが規模の大きさと鮮やかな朱色に驚いた
私は遠く離れた所に車を駐めたが、この附近が駐車場になっている



階段を上がっていく



反対側の山の風景も美しい



新殿
この神社の歴史であるが
安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け



三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したのに始まる



現在は「日本五大稲荷」を称している



願望成就・大願成就の神様






 


この日は、天気が良すぎて撮った画像をモニターで確認できずに今日までパソコン内に放置されていたが



今日、改めて見ると自分でも気に入った写真になっていた






元宮
室町中期(15世紀中期)、津和野城主吉見氏により、元宮の創始となる熊野権現社を津和野の乙女山に建立






神門
中央の門は、新年や祭事以外には閉ざされている



表参道への道



稲荷神社独特の鳥居。ここでは「いなり」を「稲成」と表記されている



石段 263段、鳥居 約1,000本



命婦社
命婦社は、「元宮」の背後に鎮座している
稲成大神様のお供え物として、「油揚げ・ローソク」をお供えする



命婦社での祈りは、京都の伏見稲荷大社に通じるとの伝説が残り、霊験顕著な神域として崇敬されている






神門から見た境内



神社のHPによると、参る場所が四か所あり、お参りの順序があるようだが、すでに遅い



お参りの順序として、「元宮」→「命婦社」→「新殿」→「新殿裏奉拝所」の順となっているようだ



津和野の地には事情があって半日しか滞在できなかったので悔いが残っている
北海道からは少し遠い気もするが次回訪れ、「四か所まいり」を順序通り行いたい



昨夜は久し振りに「紅白歌合戦」を視た。中島みゆきと「麦の歌」を聴きたかったからだが、歌詞・歌唱力とも抜群
明日は「箱根駅伝」で母校の応援。プリンターの故障もあり、年賀状を出せずにいる

撮影 平成26年10月24日
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