蔵のまち、喜多方から、
先日の勝福寺の続編です。国重要文化財である観音堂と十一面観音について先日記しましたが、勝福寺の縁起・伝説について改めて記しておきます、
何れも10月24日の関柴公民館・講演会、 山中 雄志氏の講演からです。
勝福寺の在る関柴町三津井、上勝は。勝 すぐれ は「勝の前」から来ています、
伝説・伝承でしょうか、
昔、「勝の前」という高貴な女性が京より松島(宮城県)に向う旅の途中、この地に宿したが、旅の疲れで病にかかってしまった。いよいよ助からない状態になってしまい、心に違えて松島で和歌を詠む願いも果たさなくなった勝の前は非常に悲しんだ、悲嘆にくれる勝の前を村の人が哀れみ、松島の景勝をこの地に模して見せたことろ、勝の前は大変喜び、安らかに亡くなった、このため、周囲を松島と呼ぶようになった、その後、勝の前の父(または夫)の中将が勝の前の足どりをおってこの地を訪れ、その死を悲しんでお堂や社を建てた、そして村の名前も原村から勝村と改められた。
現在の観音堂の在る場所は堂の下ですが、松島を模したであろう所が現地名の松島です。
観音堂からかなり西側に広い地域で字名が松島ですが、集落は時代によって変化して行ったであろうと言うことです。
松島を模したその名残であろうか、観音堂の前に水を満たした掘りを囲んで宗像神社が在ります。寛文の頃は弁天堂であった可能性もあるそうです。
いずれにしても勝前を祀ったのが縁起です。それが平安時代であったか、天文の頃であったかと言う事ですが、先日画像挿入した毘沙門像胎内墨書に「弘安二年」(1279)の記録があるそうです。
道路向い側に刻字が全く消えた古い墓石が在ります、勝前の墓と伝えられていますが、勝御前墓と新しい案内板が建っています。
往時の会津地方が北陸道から、あるいは海路越後から松島へ向う・・(既に松島は景勝地として知られていたのでしょうか)・・主要路であった事を意味します。
当時はまだ多賀城が奥州の要であったのでしょうか?
勝福寺には仁王門が在り、ご覧の様に仁王様が睨みを利かせています。
どうぞ勝福寺観音堂へ巡ってみてください。内部の拝顔は予約が必要です。
喜多方観光協会へお問い合わせください。