白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー8

2019年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ぶらりと映画館に立ち寄るジュネ。スクリーンにはフランス軍兵士とドイツ軍に協力した対独協力義勇兵との過酷な戦闘シーンが映し出されている。生前のジャンに似たフランス軍兵士が対独協力義勇兵に射殺される場面。ジャンはこうおもう。

「ジャンを殺(や)ったのは、たぶん、この男だ。私はこの男がほしかった。ジャンの死を嘆き悲しむあまり、その憶い出を払いのけるためなら私はいかなる手段をも辞さぬ覚悟だった」(ジュネ「葬儀・P.61~62」河出文庫)

理由はジュネが自分の手で精細に叙述している。

「その手先として若者を差しむけた、運命という名で呼ばれる兇悪な輩を相手に私が用いうる最良の策略、またこの若者にたいする最良の策略は、その犠牲者にたいして寄せる愛を彼に託すること以外にないだろう。その若衆の映像に向かって私は訴えるのだった。『彼を殺(や)ったのはきみであってほしい!』ーーー『彼を殺してくれ、リトン、ジャンをきみにやる』」(ジュネ「葬儀・P.62」河出文庫)

ジャンの敵である対独協力義勇兵リトンに向けてジュネの性的リビドー備給は急旋回する。美少年でありなおかつフランスレジスタンス運動の闘士であるジャンを射殺したのは対独協力義勇兵リトンでなければならない。なぜなら、リトンはとても美しい美少年だったから。銃撃戦のさなか、ほかにも多数の兵士たちがいたはずだが、とりわけジュネの身体において、ジャンとリトンとは等価性を得ている。ジュネ固有の倫理的基準で計測されるかぎり、ジャンはリトンによってのみ射殺されるに値し、リトンのみがジャンを射殺するに値する。そしてもしさらなる美少年が登場してきたとするなら、それぞれがどれも等価関係にある美少年の系列が出現することになる。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ところが、その均衡状態にジュネ固有の「裏切りへの意志」が加わる。すると天秤はフランスにとって裏切り者であるリトンの側、ナチスドイツを支持するフランスの対独協力義勇兵の側を支援する方向へ傾く。神の天秤はことのほか「裏切り者」を愛するように出来上がっているらしい。聖書にもある。

「わたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈(いの)れ」(「新約聖書・マタイ福音書・第五章・P.81」岩波文庫)

「あなた達に言う、敵(てき)を愛(あい)せよ。自分を憎む者に親切(しんせつ)をつくし、呪(のろ)う者に神の祝福(しゅくふく)を求め、いじめる者のために祈れ。あなたの頬(ほお)を打つ者には、ほかの頬をも差し出し、上着(うわぎ)を奪(うば)おうとする者には、下着(したぎ)をこばむな」(「新約聖書・ルカ福音書・第六章・P.194」岩波文庫)

なお誤解のないよう注釈しておこう。「上着(うわぎ)を奪(うば)おうとする者には、下着(したぎ)をこばむな」、とある箇所。上着を必要としている人々には上着を与えることを拒否してはいけないが、もし相手が下着にも困っていた場合にかぎり、下着をも与えることを拒否してはいけない、ということを意味する。だから、あたかも性暴力加害者の主張のように、「上着を奪おうとしたら拒否されたので仕方なく下着を奪った」、という論理は通用しない。

ところで、ジャンはリトンが有する「裏切りへの意志」によって射殺されることでなおのこと力能を増す。これらの一部始終を「ジュネは生きる」ということも可能だ。

「ジャンが嫌いになったわけではない。リトンを愛したいのだ。(どうしてかは自分でも分らないが、《いつの間にか》、私はその見知らぬ若い対独協力義勇兵をリトンという名前で呼んでいる)床の上にひざまずいてにじり寄らんばかりに、私はかさねて嘆願する。『彼を殺してくれ!』」(ジュネ「葬儀・P.62~63」河出文庫)

この映画のワンシーンの描写はジュネ作品でしばしば見られる特徴として著しく長い。スローモーション的手法が用いられている。ジュネは残酷なシーンを事細かに述べる。だがジュネの場合、そうすること自体に「手応え」という「力への意志」を感じ取り、小説を書く力へ変換しているかのようだ。この作業はしかし、映画を見る側として、ジュネの「意識の流れ」をたいへん冷静沈着に映し出してくれる。ジュネはスクリーンの平面を縦横無尽に運動する「映像の全体じたい」に《なる》。

さて、アルトー。宗教的儀式化されたものへの抵抗としての「解体への意志」。凝固し固定化されたステレオタイプな社会への「抵抗としての微粒子化」。「人間《という》鋳型(いがた)」からの解放としての「流動性への意志」。

「そこには血だけが存在し 骸骨の鉄くずだけが存在し かちとるべき存在などはなく 生を失うだけでよかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

しかしなぜ宗教はこんなにも血を欲するのか。血を象徴化したがるのか。聖書にもこうある。

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美(さんび)して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取って食べなさい、これはわたしの体(からだ)である』。また杯(さかずき)を取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、彼らに渡して言われた、『皆この杯から飲みなさい。これは多くの人の罪を赦(ゆる)されるために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十六章・P.155~156」岩波文庫)

「いつものように杯(さかずき)を受け取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、弟子たちに言われた、『これを取って、みなで回(まわ)して飲みなさい。わたしは言う、今からのち神の国が来るまで、わたしは決して葡萄(ぶどう)の木から出来たものを飲まないのだから』。またパンを手に取り、感謝して裂(さ)き、彼らに渡して言われた、『これはわたしの体(からだ)である』」「新約聖書・ルカ福音書・第二十二章・P.261」岩波文庫)

人間が人間になるためには自然との新陳代謝を通して《獣性》を獲得しなければならない。とすれば宗教的儀式としての食事とはなんのことを言うのか。

「そこで人間は退却し逃亡したのだ。だから獣たちが人間を食べてしまった。それは蛮行ではなかった、人間が猥雑な食事に身を委ねたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.22」河出文庫)

「獣あるいは自然」は人間を食べる。自然の力はつねに人間を追いつめ飲み込み消化する脅威である。その過程を通して「獣あるいは自然」は人間と一体化する。解体があり新陳代謝があり流動する。人間は「自然の力」に対して暴力的に一体化されるほかない。だから、人間は全自然あるいは全宇宙と共演しているということができる。

「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)

そしてグローバル資本主義の成立は、主に多国籍企業と流動するマイノリティのさらなる差異化=微分化というリゾーム的運動形態の実現でもある。資本主義は全世界をいつも交通=流通の坩堝(るつぼ)に叩き込みつつ流動している。ニーチェのいう世界的交通の実現は、以前には個々別々に存在していた国家・国民という壁を超克し、つねに開かれた世界的共同体建設を可能にした。

「交通の自由が保証されていれば、《同種の》人間たちの《集団》が連合して、共同体を建設することができる。《国民を超克すること》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一九四・P.638」ちくま学芸文庫)

したがって国境線はますます不透明になり抹消されていく。ところがマイノリティの安易なマジョリティ化(政治的白人化)には注意しなければならない。マイノリティは国家の側からマジョリティ(支配者層)の一部として公理系化されると、逆にマジョリティ(政治的白人)の側に立ってマジョリティ(政治的白人)の資本主義的倫理的法則を支援し、他のマイノリティ(非白人)を社会から排除する暴力的権力者集団と化してしまう恐れがあるからだ。

先進国の中でいえば日本ではしつこく残っている男社会。だがそれはよりいっそう資本主義が加速することでいずれ崩壊する。資本主義本来の均質化、平板化、記号化作用の貫徹によって、そんなことはもはや自明の理となった。とはいえ、これまでマイノリティ(非白人)だった女性であっても、マジョリティ(政治的白人)としてモル化してしまうと、それはもうこれまでのマジョリティ(政治的支配者層)と違わなくなってしまう。ドゥルーズとガタリはいう。

「一つのマイノリティは、多数でもあれば無数でもありうる。これはマジョリティに関しても同様である。マイノリティとマジョリティの区別とは、マジョリティの場合、数との内的関係は、無限であれ有限であれ、数えられる集合をなすのに対し、マイノリティの場合は、その要素の数にかかわらず、数えられない集合として定義されることだ。そして数えられないものを特徴づけるのは、集合でも要素でもなく、むしろ《連結》つまり『と』であり、要素と要素のあいだ、集合と集合のあいだに発生し、両者のいずれにも属すことなく、それらを逃れ、逃走線を形成するものなのだ。ところで公理系が扱うのは、たとえ無限であっても、要素が数えられる集合でしかないが、マイノリティが構成するのは、数えられず公理系化できない『ファジー』集合、要するに、逃走または流れからなる『大衆』であり、多様体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.238~239」河出文庫)

ところで人間は人間になるため実際に様々な動物を食べる。動物の「肉」を食べる。動物を捕獲し、捕獲した動物を食べ、動物と一体化し、動物に《なる》。

「彼はそれに味をしめ、動物になること 巧妙に 鼠を食べることを 自分で覚えた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.22~23」河出文庫)

動物を食べること。動物と一体化すること。そうして動物に顕著な《獣性》を獲得し、代わりに「血の報酬」を持ってきて《獣性》を正当化した人間は、人間自身、「獣として《も》」生きていくことを欲望し選択した。人間は、ただ単なる欲望を更新した。欲望を加工=変造して絶え間なく「欲望を生産する諸機械」へと転化させ、肉化、地層化、領土化、脱領土化、再領土化に、成功した。いついかなる時も、肉として糞として地層として領土として貨幣として商品として流動するようになった。したがって人間は、時として「アメリカ人」であり、時として「スターリンのロシア人」であり、時として「沖縄」であり、ーーー等々でもある。再生産された労働力商品としては時として「野菜」の部分であり、時として「原子力潜水艦」の部分であり、時として「排水ポンプ」の部分であり、時として「テレビ画面」の部分であり、ーーー等々でもある。しかしそれらはどれも或る強度として常に既に流動している。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー7

2019年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ポーロの特徴を列挙するジュネ。ポーロあるいはポーロに類似したカテゴリーに含まれる人間はどれほど魅力的か。それらについて述べたいという気持ちがジュネにはある。ところがしかし、ここで注目したいのはポーロの個別的魅力ではなく、その語彙の中に含まれる「不良少年のなかでも、いちばん悪質な男」とある部分だ。

「顔はめったに笑顔を浮かべない。髪はつややかだが、房になって重なり合っていた。手っとり早くいえば、いちいども櫛目を入れたためしがなく、濡れた手で撫でつけておくだけのように思われた。私が自分の作品の中に好んで持ち込む不良少年のなかでも、いちばん悪質な男」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)

この種の人間。「不良少年のなかでも、いちばん悪質な」としか言いようがないタイプの人間。なおかつ「冷淡で残酷な」人間。この種の人間は魅力的であるかどうかにかかわらず、しばしば或る特性を発揮することがある。変則者、境界線、極限、といったボーダーの役割を果たす。その時その時で支配的な社会的規範というものに関し、社会の欄外から冷静に事態を眺めてみることができる。

「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)

さらに。

「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)

だからといって、どこにでもいる不良少年や冷淡で残酷な人間はすべてそうだとはまったく限らない、と断っておかねばならない。むしろニーチェのいうような例外的な人々は普段どこにいるか。それは芸術家に多い。音楽や絵画や映画や文学研究に取り組んでいる。だから国家はただ単なる不良少年やごろつきどものことはさっさと警察に任せて、社会的規模で強力な発信力を持つ研究者や芸術家の作品あるいは発言にいつも目を光らせることにしている。

ところでジュネは様々に変容するポーロの仕草に官能を感じ取らざるを得ない。この官能性を通してポーロの「邪険さ」はただちに「充分な責道具の一種に、《やっとこ》に」《なる》。といっても「《やっとこ》に《なる》」のは、そのような妄想に浸りきっているジュネの身体である。この変身がジュネの身体において生じる生成変化であるかぎり、ポーロの「邪険さ」はさらに「飛び出す匕首(あいくち)に化ける」。ジュネは匕首(あいくち)だ。

「私の寝台に身を投げ出し、この男はそのすべすべした裸体で、いつなんどきでも機能を果たす、邪険さというその在り方だけでも効き目は充分な責道具の一種に、《やっとこ》に、私の悲しみから、蒼ざめ歯を食いしばって、飛び出す匕首(あいくち)に化けるだろう」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)

しかしこのような生成変化を加速的に可能にしたのは、そもそも戦争である。フランスとドイツの指導者層は帝国主義的資本主義を存分に利用しようと考えた。ところがすでに資本主義のダイナミックな諸運動は人間の手によって操作できうる範囲をはるかに越えて絶え間なく発展していた。フランスの指導者層もドイツの指導者層もお互いにほとんど同じ程度に資本主義を侮っていた。ちなみにジュネは死ぬことなく戦争の難を逃れることができた。とともに戦後生き残った人々に降りかかった負い目(良心の疚(やま)しさ)がもたらした悲喜劇を見届けることを不可避にした。その理由は何か。戦時中、ほとんどのあいだ刑務所に叩き込まれていたということがあげられる。ジュネに対する憎めなさはそういうほんのちょっとした細かな事情から発生している部分が多々あると言わねばならない。ジュネにとっては戦争よりもポーロの肉体美とその「邪険さ」の方がはるかに重要だった。ジュネは戦争の悲惨さを自分の欲望達成のため巧妙に活用する。そしていう。

「これは私の悲しみの化身だ。彼のおかげで私はこの作品が書けるのである、追憶のすべての儀式に参列する気力を彼から授けられたように」(ジュネ「葬儀・P.59~60」河出文庫)

さて、アルトー。「骨の大地や森しかなかった」人間。人間はそれを惨めに感じた。なぜだろうか。器官なき身体として脱領土化の運動をどんどん進行させようというのならわかりもするが、そうではなく、逆に「肉」を欲した人間。「肉」は「地層」であり「領土」である。人間は「領土」を欲しがった。

「つまり骨の大地や森しかなかったので、人間は肉を手にいれなければならなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

だがしかし、「肉」は「糞」だ。「肉《への》意志」は「糞《への》意志」でもある。そして「糞」の堆積は徐々に加速する「地層」の堆積過程であり、資本の堆積過程でもある。そのために「肉」を「糞」を「貨幣」を、欲望した。結果的に「血を代償に」する宗教をみずから欲することになる。

「鉄と炎しかなく 糞がなかったので 人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

人間の「糞」と「貨幣」の関係。フロイトはいう。

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

だからこそ、「糞《への》意志」はますます増殖することを欲する。同時に「肉」を手に入れどんどん肉食しなければならない。でないと「糞」を蓄積することができなくなってしまう。「もっと《糞》」を。それが人間の合言葉と化していく。すなわち「もっと肉」を、「もっと地層」を、「もっと領土」を、「もっと貨幣を」、等々の系列が出現する。

「糞を手にいれ、つまり肉を手にいれようとしたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

肉の堆積と貨幣の堆積。再生産される「肉」と「貨幣」。さらに地層化され再地層化され拡大される領土。労働力商品としての人間とその生産物としての諸商品の系列には当然「軍事力」が入っている。「戦争《への》意志」は人間の欲望とともに生まれたのだ。ゆえに人間は「器官なき身体」ではなく「欲望する戦争機械」として生きていくことに同意したのである。ただ、かつて国家は戦争機械としての人間を所有していた。今や事態は転倒し、国家は戦争機械の部分へと組み込まれた。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)

資本主義は「欲望する生産」を加速的に押し進めることで、様々な支流を巻き込み、もっと巨大な流れとなって世界を何度でも繰り返し生産し支配することを意志する。世界中で実行に移してもいる。一方で人間の均質化作用を押し進め、他方で社会的格差を増産する。資本主義の諸運動は強迫神経症的な反復衝動をもっと大きな次元で打ち重ねていくことになる。

もっとも、加速する資本主義はあちこちで打撃を受ける。が、その修復に当てられる資金はどこからやってくるのだろう。連日連夜資本によって酷使され、痛烈な痛みと苦悩に打ちひしがれ疲労しきっている諸国民に課せられた税金からである。にもかかわらず、今後ますます疲労し疲弊しきっていく諸国民は、自分を酷使させている資本のためにますます資本へ奉仕するという倒錯した状況の中へ突き進み、のめり込んでいく。しかしなぜ人間はこうも資本主義に奉仕したがるのか。奉仕すればするほど自分を苦しめる資本に忠誠を誓って止まないのか。解雇が怖いならなぜ労組を裏切ったのか。そして労組はなぜほとんどが資本のための御用組合でしかなくなったのか。おそらく人間は一刻も早く死にたがっているとしかおもえない。

「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)

ところが資本としては、労働者にそう簡単に死なれてしまっては困るという事情がある。利子を生む力としてできるかぎり有効に生かしておかなくてはならない。だがどうして、よりによって「反復」ばかりなのか。そもそも「反復」はいかにして可能となったか。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)

さらに。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

こうして慣習は自動的に何度も反復されて制度化する。同時に資本は労働者に対して或る程度の報酬を与える。労賃は労働者に快楽を与える。ぼろぼろになった労働者の傷口にとってさえ労賃は薬になる。しかしこの薬は「パルマコン」=「医薬/毒薬」という両義性を持つ。資本は労賃というパルマコンの両義性を最大限利用する。ぼろぼろになった最底辺労働者やその仲間あるいは家族たちを自殺、他殺、家庭内暴力に追いやるところまで持っていく一方、自殺、他殺、家庭内暴力の寸前で引き返す習慣を身に付けることにも習熟させる。それはぼろぼろになった労働者の傷口が他者の眼の前で自慢できるような傷口であることが条件になる。凄惨な傷口を見せつけるという或る種の快感にともなう権力感情を与える。

「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)

ところが昨今、資本の側も労働者の側も、とりわけ家庭内暴力の阻止については実にしばしば失敗するケースが増えてきた。それは資本家というより資本主義の特性がますます発揮されることによって起こる。資本主義は一方で人間を均質化、平板化、記号化する。けれども他方で社会的格差を増大させる。格差増大を再生産する脱領土化と再領土化の流れ。同時に公理系によるその整理整頓。この二重の相反傾向によって発生する多少なりとも暴力的な色彩を帯びた諸問題に対して資本主義は、さらに様々な公理系(調整器、調整者)を付け加えることで限界を押しのけ置き換えてよりいっそう生き延びる。しかしこの極めて狡猾な公理系の調整を担っているのは一体何ものなのか。

「《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.304」河出書房新社)

また、自己目的としての資本主義の運動は「超越論的探究」の特性と一致する。「超越論的探究」というのは、言い換えれば、ヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)

重要なのは、このような特性を持つ資本主義は「好きなときにやめることができないという点にある」。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー6

2019年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
喪の作業を続けるジュネ。当分つづく。というよりラストまで続けられる。というのも、作品「葬儀」はジュネにとっての喪の作業だからである。

「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)

ジュネは「正式な喪服」だけでなく、むしろその象徴的なものとの区別を重点化する。「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々、である。象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。

「寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)

象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。どの商品も特権的でない等価的なフェチ商品の系列として生産されうる。ジュネはそれら種々のフェチの中に「神聖な想い出」を見る。

それはそうと、今の日本。昨今、女性のパンプス着用が問題とされてきた。なるほどハイヒールは以前ほどには見かけなくなった。パンプスも減った感じはする。だが今度はスニーカーが増えた。そしてスニーカーはどんな労働にも向いているのかもしれない。ところが主に「まなざし」によるセクハラは無くならないだろう。というのは、異性愛者の男性が女性に向ける性的リビドー備給は、今度はパンプスからスニーカーへ転移するにちがいないからである。フェチ商品の系列がどこまでも延々と延長可能なことと事情は同じである。フェチ商品に注ぎ込まれる性的リビドーの強度は目に見えない流動するエネルギーの諸運動であって、言い換えれば、ジュネが「神聖な想い出」という言語に込めている強度と一致する。

ちなみにいうと、たまたま家には車がないので、ときどき電車(JR、私鉄とも)を利用することがある。時間帯によるが、席を探そうと車内を見渡してみると、明らかにそわそわしている男性は複数いる。それは少なくとも制服姿の女性と同じ数だけいるだろう。制服というのは特定の制服だけを指すわけではなく、ずっと広い意味での制服をいう。たとえばファッション雑誌で紹介されただけでなく一定期間流行するような性質を獲得しステレオタイプ化した(社会的規模で何度も反復され凝固し固定観念化し形式化した)服装のすべてである。諸商品の系列でいえば「貨幣商品」としての社会的地位を勝ち取った特権的服装のことだ。通勤時はこれ、通学時はこれ、平日の普段着はこれ、休日のお出かけはこれ、というふうに。そのような意味でステレオタイプ化した服装に合わせたソックスのフェチ化が進行している。むしろすでに「ソックス-フェチ」は増加している、と言わねばならない。もっとも、主にスカート着用の場合、その服装全体を構成する諸要素の集合が、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》という条件つきではあるのだが。

したがってソックスとはいっても、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことがないようなソックスの場合、逆に男性の欲望は裏切られたと感じ憎悪を爆発させることさえある。そのようなとき、期待を裏切られ自制心を失った男性のルサンチマン(復讐感情)は限度を知らず、女性に対して殴る蹴るといった生々しい直接的暴力をそのまま相手に対してぶちまける行為に出ることが実は少なくない。さらに暴力は方向を置き換えられ、たとえば他の女性(妻)や子どもたちに向け換えられることはよくある。特に多いのは家庭内暴力である。幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックスの場合などは要注意である。それは個人差はあるものの、性的欲望対象としての美に反しているからだ。なかでも「乳臭さ」は致命的といえる。性欲の発散を阻止された男性の暴力はとりわけ幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックス姿に向けられやすい。なぜなら、薄汚れた乳臭いイメージの漂うソックス姿は性欲をもてあましているときの男性の裡(うち)に、自分自身の幼少期の無力で未熟な姿を思い浮かべさせて自己嫌悪に陥れさせてしまうからというだけではない。自分に対する女性の服装を構成する諸要素の組み合わせという点で、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことをのっけから否応なく拒絶されたと感じるからである。そして暴力的憎悪と化した性的リビドーは内部に蓄積し、外部へ向けて放出できなかったぶん方向を転換して内向し、帰宅と同時に主に妻や子どもたちに向けて殴る蹴るの暴力や罵詈雑言となって爆発することが少なくない。

話を戻そう。バルトのいうように、「エロティックなのは《あいだ》でちらちらする」ということと、その《縁》(ふち)が問題にされるということである。そして多くは《縁》(ふち)に位置するものがフェチ商品化され流通する。

「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房)

ただしバルトはエロティシズムについて述べているわけではない。そうではなく、エロティックとされる商品、たとえば、かつての「ストリップ」、今でいえば「アダルトDVD」に当たるだろうけれども、どれを取ってもなぜ形式化されているのか?と問うているのである。その「価値部分=内容」について、短縮しようとすればできる。観客は先を急がせる。企業であれば時短化可能だ。時短化して残った時間を別の労働へ振り分けてもっと酷使することもできる。もし仮にそうするとしてもしかし、あらかじめ《形式化された(ステレオタイプ化された)順序》に《したがって》、でしか許されないのはなぜなのかと問う。もっとほかの方法でアプローチしてはいけないのかと言いたがっているのである。文学作品の場合もそうだ。なぜ《別の仕方》で読んではいけないのか。そういうことを宙吊りにして攪乱するために書かれたアフォリズム集が「テクストの快楽」なのだ、と言える。逆にエロスかポルノかなどという議論は甚だしい誤解というべきだろう。

ところでしかし、この種のフェチ系列は一体どこまで行くだろうか。たとえば「下駄」はどうだろう。下駄を履いた女性の脚フェチは今のところ少ないとおもわれるが、もし他に何らの選択肢もなくなればおそらく必ずといっていいほど下駄フェチの増加傾向が見られることだろう。いっとき流行した「戦艦むすめ」のことを思い出せば容易にわかるとおもわれる。人間は何かをフェチ化するとき、同時にモンタージュ(奇妙な合成物)化するのだ。その瞬間、それはもはやただ単なる「物品」ではなくなるとともに「神聖なもの」への転化は済んでいる。

「それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)

喪服は黒い。そして「黒」とのアナロジー(類似、類推)において「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々の象徴的フェチ商品の系列が出現するが、それらはどれも「黒」とのアナロジー(類似、類推)においてただちに同一化された葬儀のための集団を形成する。死と暗黒とその象徴的フェチ商品の連結によって形成された葬儀参列者は、一つの集団として世間一般の埒外へ置かれることになる。そして葬儀参列者自身、一つの集団としていったん特権的な場に置かれることを承知している。なお葬儀の場面ではないが、プルーストの場合を参照しよう。少女たちが一つの集団となってファシズムを形成するシーン。この場面でアルベルチーヌは集団の中に溶け込んでしまっていて個別的には区別できない。「独自の一団」でしかなくなる。

「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)

ところでジャンには兄がいる。ポーロ。残酷というか冷淡というか、フランス側にもドイツ側にも知り合いを持つだけでなく、どちらにも同じ話を持ちかけたりする根っからの裏切り者である。だからポーロはジュネの前で、生前の弟ジャンのことをあまり話さない。ジャンが生きていた頃もそうだった。ジャンの母がナチス党員を情夫にしていることも知っていたが、見た目だけでなく親族としても軽蔑して振る舞っているニヒリストのようにおもえる。自分のことは棚に上げている。というより家族とは鼻からこれといった関わりを持とうとしない。その冷淡さあるいは残酷さが、ジャンの死後、ジュネにはだんだん美しく映って見えてきた。ジュネの情動はジャンからポーロへ移動する。

「ジャンの死に直面しての私の悲嘆、それが一人の残酷な若者に変身するのだ。それがポーロだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)

ジュネはポーロの身体について語る。肉体美にこだわる。その「肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていた」と述べる。けれども読んでいると、そう書き刻み込むこと自体に快感を覚えているのでは、と思わせるような語り口ではある。

「詩人が彼のことを語るとき、その肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていたと言いだしたところで驚くにはあたらない。ポーロの現身(うつせみ)は危険な液体の色をそなえていた。腕と脚の筋肉はのびのびと艶やかだった。この上なくしなやかな節々が想像された。このしなやかさ、筋肉ののびやかさ、色艶は、彼の邪険さのしるしだった。しるしという意味は、彼の邪険さとこれら目に見える特徴とのあいだに、関連があるということだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)

ジュネ好みの肉体美の特徴を列挙するとともに、それら目に見える特徴と「邪険さ」とのあいだには「関連がある」という。この「関連」はここでもまたアナロジー(類似、類推)が活用されている。

さて、アルトー。「流れ」へと意志する。有機体の解体へと向かう。

「実在するためには自分を存在するがままにしておくだけでいい、しかし生きるには、誰かでなくてはならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)

というのは、「実在する」ことと「生きる」こととはまた違うからだ。ただ単に「実在する」だけならニーチェのいうようにつねに流動し生成変化する強度として全宇宙と共演するだけでよい。それは他の何ものにでも成り得る。可能性は無限に開かれている。次のように。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

ところが特定の「誰か」として「生きる」ということは、社会的なステレオタイプ(固定観念)として、あらかじめ設定された人間という鋳型(いがた)として、凝固し固定された生きものとしての身体を選択しなければならないということだ。しかし「肉」とは何か。「身体=地層」として有機体化されたありとあらゆるもののことだ。だからアルトーは「肉=地層」を「失うことを恐れてはならぬ」と警告する。「身体化=肉化」することはただちに領土化することだからだ。それは同時に、わざわざファシズムのための地層を自分の「身体=地層」から始めることであり準備することでもある。

「誰かであるためには、一つの『骨』をもたなくてはならぬ 骨をあらわにすること、同時に肉を失うことを恐れてはならぬ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)

にもかかわらず。

「人間はいつも骨の大地よりも 肉の方を好んできた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

というふうに、人間は「糞《への》意志」へ近づく。あえて肉を欲し肉を食べることはただちに「糞を欲する」ことと違わないからである。「糞」は地層化した身体のことだ。とすれば「糞」の「生産、蓄積、再生産」とはなんなのか。戦争機械のための地層を準備することだ。冒頭部分で「アメリカ」と「スターリンのロシア」とが例示されたのはただ単なる隠喩ではない。ドゥルーズとガタリはこういっている。

「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能するからだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)

ただ単に「糞」といってもそれはまた「貨幣」という名の身体を持っている。アルトーは「糞」という言葉で貨幣とその蓄積された資本をも攻撃する。フロイト参照。

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

しかしそれは、なぜ強迫神経症的に何度も繰り返し反復されるのか。

「反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的生命における惰性の表明であるとも言えよう」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院)

では資本が再生産するとは何のことか。再生産を繰り返し反復するとはどういうことか。それは慣習の自然法則化と暴力的強制とによってなされる。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)

ところで「骨の大地」とはなんなのだろう。スピノザのいう或る種の「様態」であり、強度ゼロというに等しい。

「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)

地層化あるいは領土化のカテゴリーには「貨幣」だけでなく、もちろん「言語」も入ってくる。そして言語もまた流通する諸力の運動として解体され再生産され生成変化していくかぎりで、「脱地層化=脱領土化」へ、無限の可能性へと開かれている。とはいえ、資本主義的公理系が調整器として次々に付加される以上、脱領土化と再領土化とは同時である。資本主義は一方で脱領土化するものを同時にもう一方で再領土化する。ところでこの器用な「資本主義的公理系《としての》調整器あるいは調整者」とは何か。

「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)

が、抵抗しながら逃走する線として「放浪の線」というジュネ的アプローチもないではない。

「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)

ジュネでいえば、とりわけ「泥棒日記」の叙述はそうだ。そしてアルトー自身、言語の必要性について完全に撲滅するわけではなく、一定の条件つきで留保あるいは一時的領土化を許している。

「無限とは何か われわれはそれをよく知らない!それは われわれの意識が 法外な、果てしない、法外な 可能性にむけて 《開かれる》のを 示すため われわれが使う 一つの言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.28」河出文庫)

「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)

というふうに。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー5

2019年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ジャンのための喪の作業は続いている。だがジュネの愛人でありナチス党員であるエリックと向かい合ってみて、ジュネはおもう。エリックの肉体美を眼前にしてジュネは湧き溢れる欲望を抑えきれない。だがエリックはあくまでジャンを射殺した側である事実も動かせない。欲望と倫理とのあいだでダブルバインド(板ばさみ)になるジュネ。しかしこの「苦しみ」「痛み」は「ねじくれた」「苦しみ」「痛み」であり、いわば「愛撫」のようだと快感を覚える。

「だけど、ジャンを見捨てるというのか、その仇敵にこれほど好意を示すということは、後悔が忍び込んだ私の心を微妙に苦しめ、痛めつけるのだった、それもごくやんわりと、いうなればねじくれた、愛撫に近い仕ぐさで」(ジュネ「葬儀・P.44」河出文庫)

「泥棒日記」の前半でも重要な意義を込めて言及されている「虱」(しらみ)が登場する。ジャンが「どこかの淫売婦からもらってきた」であろう虱がジュネの身体にはまだ巣食っている。それをジャンの貴重な思い出として自分の身体の中でたいせつに育てていこうと気を配るジュネ。

「その魂がまだ安息を見出していない若者を見捨てるべきでないことはわかっていた。彼のちからになるべきだった。形見としては、彼がたぶんどこかの淫売婦からもらってきた毛虱が何匹か私のなかに残っていた。その虫けらどもは、全部とまではいわないがすくなくともそのうちの一匹くらいは彼の身体(からだ)の上で生きていたことは確かであり、そしてそれが産みつけた卵は、私の毛のなかに忍び込んで群落をつくり、ますます増えて、睾丸の皮膚のひだの中で死んでいくのだ。それらがその個所とその周囲にとどまるよう私は気を配っていた」(ジュネ「葬儀・P.44~45」河出文庫)

虱はジャンの肉体から血を吸ったことのあるまぎれもない生きものだ。だからジュネにとってそれら虱たちは「まさしくわが友の生ける形見」であるといえる。

「以前その血を吸ったジャンの肉体の同じ個所をそれらがおぼろげに記憶していると考えるのは私にとって楽しいことだった。小さな人目につかぬ修験者(しゅげんじゃ)として、彼らはその森の奥で若くして死んだ男の想い出を保ちつづける任務を負わされているのだ。彼らはまさしくわが友の生ける形見だった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)

ジュネの性的リビドー備給は今後これら虱たちを自分の身体の中で「興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやる」ことになる。

「できるだけ私は、彼らに気を配り、身体を洗うことすら、引っ掻くことすらさしひかえるのだった。ときにはそのなかの一匹をむしり取り、爪と皮膚のあいだに挟んでつまみ出してみることもあった。興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやるのだった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)

ちなみに「泥棒日記」で大変重要な意義を与えられていた虱。なぜ重要だったのか。そしてなぜ、ほかでもない「虱」で「なければならなかった」のか。少しばかり引いておこう。

「虱どもは我々を棲家(すみか)としていた。この一族は我々の衣服に活気と賑わいとを与えていて、もしそれが無くなると、我々の衣服はたちまち死んだものに感じられるのだった。ーーー虱は我々の繁栄の唯一の表徴だったのだーーーむろんそれは繁栄のまさに正反対のものの表徴ではあったが、しかし、我々の境涯に対してそれを是(ぜ)とする復権の操作を加えた以上、それと同時にその表徴をも是としたことは、論理上当然のことだろう。成功とよばれるものを味わうための宝石と同じように、我々の零落を確(しか)と味わうために役だつものとなって以来、虱は貴重な存在であった」(ジュネ「泥棒日記・P.29~30」新潮文庫)

というように、たった一匹の虱でさえも有効に活用するジュネ。虱はジュネたちにとってその「繁栄」の証明として貴重な「象徴」と化していた。「虱ども」は「我々の衣服に活気と賑わいとを与えてい」た。同時に虱が繁栄すればするほど、それは蓄積される「宝石」と同様の役割を果たす。要するに「我々の零落を確(しか)と味わうために役だつ」。言語構造が極めて柔軟かつ活きいきと活用されているといえる。

さて、アルトー。「存在」というのはステレオタイプ(固定観念)化され凝固することを宿命づけられた人間、という或る種の窮屈な身体に過ぎない。だからアルトーは当然次のようにいう。

「糞の臭うところには 存在が臭う」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)

ステレオタイプ(固定観念)として凝固した有機体として「存在」するとは、あらかじめ恣意的に決定づけられた身体としてのみ生きていくことが許可されている状態だ。そこはいつも「糞の臭うところ」である。

「人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、肛門の袋を開かぬこともできた、しかし彼は糞をすることを選んだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)

そもそも人間がもっと能率的な方法を選択する生きものだったとすればバロウズのいうような身体を選択することもできたであろう。

「人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べる《とともに》排出するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ?鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ」(バロウズ「裸のランチ・P.183~184」河出書房新社)

しかしなぜ人間はそうしなかったのだろう。

「死んだまま生きることには同意せず 生きることを選んだからであろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)

常に既に流動している身体ではなく逆に固定した有機体として存在することを選んだということだ。人間は倒錯することを選択したわけだ。あるいは倒錯することを「神」〔慣習によってステレオタイプ化した社会的規範〕によって押し付けられたといえる。

「つまり糞をしないためには、存在しないことに 同意しなければならなかったのだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)

人間は糞をしない浮遊状態でいるよりは確実に糞をする存在になりたいと欲した。しかし人間の身体は「固定した存在」としては存在しない。いつもすでに流動する強度としてしか存在しない。ニーチェはいう。

「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)

さらに人間の身体の可変性についてこうもいう。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

ニーチェにとって身体は、けっしてステレオタイプ(固定観念)へと凝固した死物などではまったくない。いつも全宇宙と共演し流動する強度の多様性だ。

「けれど彼は存在を 失ってもいいとは思わなかった、つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19~20」河出文庫)

人間は「臭い」。無味無臭の人間などどこにもいない。しかしなぜ人間はそもそも「臭い」ものでなければならないと欲したのか。強烈なまでに「臭いに《気を配る》」のか。あくなき「臭さ《への》意志」であろうと加速するのか。

「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)

フロイトから。

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

「臭い」だけではない。「吐き気」にも異様なまでの執着を見せる。そしてそれを物事の判断基準にまで用いている。

「悪は、それが低劣で吐きけを催させるものと取り違えられるときに初めて、不評を招く。そのときまでは悪は心をひきつけて、模倣するよう刺激する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六七・P.276〜277」ちくま学芸文庫」)

さらに、人間は多少なりとも醜悪なものに惹きつけられるという傾向を持つ。年齢性別国籍問わず、覗き見したり、陰部を舐めあったり、性行為に耽ったり。人間は醜悪な行為がとにかく好きだ。なぜなのか。

「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)

ゾラから。

「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)

ちなみに、個人的には、ゾラ作品はなかなか面白いし興味深くもあると言っておきたい。さて前回、刑務所の看守と囚人との関係を民主主義に喩えたニーチェのエピソードを紹介した。では今回は、そもそも刑務所の中の「囚人《という》比喩」は、社会的なステレオタイプ(固定観念)との関係において、どういう状態を指すのかという部分を引いておこう。

「《刑務所の中で》。ーーー私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこの地平線に《従って》、われわれは今や世界を《測定する》。われわれは、これは近くあれは遠い、これは大きくあれは小さい、これは堅くあれは柔らかい、と叫ぶ。この《測定》をわれわれは感覚と呼ぶ。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいとか富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そして平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を測定する。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれが近いところに対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見えることであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が狭まり、絞めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられるような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうるであろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と『認識』の基礎である。ーーー《現実の世界》への逃走も、すりぬける道も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、われわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、まさしく《われわれの》網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえることができない」(ニーチェ「曙光・一一七・P.139~140」ちくま学芸文庫)

とはいえ、資本主義は社会的規模で状況が変わると「社会=刑務所」の様相は現実的な変更を受ける。「囚人《という》比喩」はなるほど有効だが、有効であるがゆえ、「《われわれの》網でつかまえられるもの」もまた変化する。マルクス参照。

「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー4

2019年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
変身する棺桶の系列。ジュネの想像力は疲れ知らずだ。というべきだろうか。むしろ逆に世間一般の側が自分でもやっているのに気づいていないだけのことに過ぎないのではなかろうか。宗教的形式的な「形見分け」などはその変種でしかない。ジュネの側がよりいっそう事実に近い。

「ポケットのなかに私は彼の柩を持ち歩いていた。その棺桶の雛型は真物(ほんもの)である必要はなかった。厳粛な葬いの柩がそのちっぽけな品物の上に威力をおしつけていた」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

姿形のアナロジー(類似、類推)は、たとえば素人名人芸で、どれほど歌が上手くても、歌が上手いだけでなく声まで似ている人には勝てないという状況に似ている。さらにジュネの場合、ポケットの中で棺に見立てたマッチ箱を持っておくだけでなく、いつも性愛を込めて全力で愛撫するという「真心という名の強度」が込もっている。他の友人知人の葬儀の方法とは桁が違う、少なくともキリスト教の「彌撒(ミサ)にもひけをとらず有効で、道理にかなったものだった」。

「ポケットの中の、私の手が愛撫するその小箱の上で、私は葬儀の雛型を執り行なっていた。それは奥まった礼拝堂の祭壇の向こうで、黒布をかぶせた偽物の柩と相対して、死者たちの霊魂のために唱えられる彌撒(ミサ)にもひけをとらず有効で、道理にかなったものだった」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

ゆえにこう言うことができる。

「私の小箱は神聖だった。それはジャンの肉体の一きれすら納めているわけではないのだが、ジャンの全体を納めていた」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

戦後の残骸処理も生々しい時期に執り行われたジャンの葬儀。当然こじんまりした簡素なものだった。しかし逆にジャンの葬儀を国事行為として華々しく執り行うことも不可能ではない。可能である。可能にするには次のような条件があればよい。

「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)

そしてジュネの用いた方法。棺のマッチ箱化というような方法が宗教的には正式な方法から逸脱した「裏切り的」な葬儀の方法であったとしてもなお、ジュネにしてみれば「優雅」でなおかつ「美しい」行為だと十分にいいうる。

「わたしは初めのほうで、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の基準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確言しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神秘的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうる」(ジュネ「泥棒日記・P.355」新潮文庫)

さて、アルトー。「精液」という言語が現わしている様々な出来事について。ずいぶん時間が経過したものだとおもう。始めの部分で登場した「人工授精工場の精液」というものは何かと。もちろんこの系列は今やどこまでも延長して考えることができるようになった。戦争機械を生産するための身体の生産に必要な作業一切の再生産過程。しかしさらに人間の身体じたいがすでに戦争機械の部分でもある。どの国家であるにせよ、人間は、或る国家の一員として登録されているかぎり、そうではないと言うことは誰にもできない。遺伝子操作の結果出現した人間はもちろん例外とは認められない。生まれる以前にシステム=制度に対する同意という形で登録されるほうが先だからだ。

「どうしてもいたる所に生まれてくるあらゆる競争相手からこの気違いじみた人工的操作を防衛するには、兵士と、軍隊と、飛行機と、戦艦が必要であり、そこでアメリカ政府が大胆にも考えついたらしいこの精液も必要になってくる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

だから「この精液」とは、人間が生産するすべての強度として加工=変造される人間とその労働力による諸商品の全系列へと延長される。資本もまたそこから利子が生まれるすべての労働力を調整する貯蔵庫として、巨大な一種の強度の塊でありなおかつそれはいつも変動相場制とともに流動している。

「なぜなら息子よ、われわれ生まれながらの資本主義者にとって、待ち伏せている敵は、数えきれない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

資本が資本として流動するためには、地球上の誰もが「生まれながらの資本主義者」とされなくてはならない。資本主義社会の中でいっときでも生きていること、何かをなすこと、思考すること、行為すること、要するに生産すること、等々はすべて、資本主義を支援していることと違わない。だから思想信条の自由が保障されている民主主義国家においてですら、「待ち伏せている敵は」しばしば自分自身である。

「そしてこれらの敵のあいだには スターリンのロシアがいて これも軍事力には事欠かない。こうしたことはみんな申し分のないことだ、それにしても私はアメリカ人たちがこんなにも好戦的な民だとは知らなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11~12」河出文庫)

次の文章から本格的にベトナム戦争にも当てはまってくるだろう。彼ら彼女らはいつも現地の人間たちを巧妙に利用して地域紛争を激化させ、さらなる新機軸を打ち出した軍事産業を発展させることでぐんぐん収益を上げていたからである。「アメリカ人たち」そして「スターリン化したロシア人たち」だけでなく、韓国軍や沖縄の米軍基地を提供した日本政府も。ベトナムは両陣営から「盾に」された。

「戦闘するには打ちのめされなくてはならない そして私はたぶん多くのアメリカ人たちが戦争するのを見たはずだ しかし彼らはいつも前方に戦車、飛行機、戦艦の途方もない軍団をもち それを盾にしていた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.12」河出文庫)

とはいえ、たった二つの陣営だけがあったわけではない。信じがたいことに旧フランス王朝植民地時代支持層なども残存していたし、詳細をいえばもっと細分化される。

「私は多くの機械が戦闘するのを見た しかし機械を操縦する人間たちは、はるか後方にしか見えなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.12」河出文庫)

だからこの詩は、とりわけこの箇所は何一つ難解でない。戦争機械を「操縦する人間たち」は常に既に「はるか後方にしか」いない。資本の人格化としての資本家とその仲間たちによって作られている国家あるいは産官学共同体でしかないからである。ドゥルーズとガタリはいう。

「戦争機械の自立化、オートメーション化が現実的な効果を発揮し始めたのは第二次大戦以後のことである。戦争機械は、それに作用する新しい対立の結果、もはや戦争を唯一の対象とせず、平和、政治、世界秩序をもにない、これらを対象とするにいたり、要するに目的であったものも一つの対象とするにいたる。ここにおいてクラウゼヴィッツの公式は転倒される。政治はただ戦争を継続させるものとなり、《平和が無限の物質的プロセスを全面戦争から技術的に解放するのである》。戦争はもはや戦争機械の具体化ではなく、《具体化された戦争となるのは戦争機械そのものである》。この意味でもはやファシズムは不要となった。ファシストたちは前兆としての子供でしかなかったのであり、生き残りのための絶対的な平和は全面戦争が達成できなかったものを完成させた」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.233~234」河出文庫)

しかし先進諸国家はただちにその首長を置き換えることができる。少なくとも、先進諸国が取り入れた民主主義が可能にしたことはそういうことだ。そうしてフランスやイギリスやアメリカなどはダイナミックに流動する社会形態を手に入れた。ところがドイツでは首長を置き換えてみてもさほど社会は変化しないという現象が起こってきた。そのため、たとえばドイツでは社会が余りにも変化しないため、国家としての新陳代謝が思ったようになされないため、逆に窒息しそうな雰囲気ばかりが沈潜するため、ドイツ社会全体にたちまち閉塞感が生じてきた。市民のあいだで受動的ニヒリズムが蔓延するという事態にまで発展した。そしてこの現象はドイツのみならず全ヨーロッパをも蝕んでいくことになる。第一次世界大戦前夜。刑務所で看守が変わっても囚人の生活は変わらない閉塞状況というエピソードを用いてニーチェは次のようにコミカルに諷している。

「《囚人たち》。ーーーある朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていった。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、ほかの連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。そこへ一人の男が現われて、大声でこう言った、『好きなだけ働けがいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露顕したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした。そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通るのだ。おれはお前たちを救うことができるし、また救ってやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、お前たちのなかでおれが牢番の息子であることを《信ずる》者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実を刈りいれるがいいのだ』。しかも父親を思いどおり動かすことができるのだ。私はおまえたちを救うことができるし、救いたいとも考えている。ただし、むろんのこと、救ってやるのは、おまえたちのうちで私が看守の息子であることを<信じる>者だけだ。信じようとしない者たちは、その不信心の報いを受ければよい』。『だが』としばらくの沈黙のあとをうけてひとりの年配の囚人が言った、『われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい?お前さんが本当に息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、おれたちみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談義はよししてくれ!』『そして』とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、『おれもあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったっておれたちは今日とまったく同じにここにいるのさ、そして牢番は《何も》知っては《いない》のだ』。『いままでは何か知っていたにしても、いまはもう何も知ってはいない』と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、『牢番はたったいま急に死んだのだ』。ーーー『おーい』と幾人かの者がごっちゃに叫んだ、『おーい!息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね?われわれは、どうやらいまは《お前さん》の囚人なんだね?』ーーー『おれがお前たちに言ったとおりだ』と、呼びかけられた男は穏やかに答えた。『おれはおれを信ずるすべての者たちを解放するだろう、おれの父がまだ生きているのと同じ確実さで』。ーーー囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八四・P.337~338」ちくま学芸文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM