「お城と温泉の四国旅行記(その13)」のつづきは、道後温泉と同様に2日連続となる松山城の探訪記です。
前日、松山城大天守まで登るにあたっては、「その9」と「その10」で書いたように、往復ともリフトを使ったわけですが、リフトとロープウェイの終点、長者ヶ平から本丸に向かう途中、リフトとロープウェイのルートと絡み合うのが東雲登城道で、「築城当時、瓦・木材・及び石材等の資材を運搬するために作られた道」だとか。
つまり、お殿様や家臣が日常生活・執務していた二之丸・三之丸から本丸に登るのは別のルートだったということ。
その公式登城ルートを登ってみようじゃないかという次第です。
その前に、「二之丸史跡庭園」を訪れてみました。
二之丸・本丸への入口となる黒門跡を通り、
栂門跡を通り、
槻門跡を抜けると、二之丸の建物が間近に見えてきます。
この付近の石垣の石積みが見事です。
道はここで本丸に向かう道と二之丸に向かう道に分かれますが、とりあえずは右に曲がり、「二之丸史跡庭園」へ向かいました。
ここで当日のルートを城山公園案内図の上にマッピング
してみましょう。
赤い線が往路、青い線が復路
です。
さて、多門をくぐると二之丸。
入園料100円をお支払いし、
まずは多門櫓内の展示室を見物しました。
私、このサイズのジオラマに目がないんです
私が通ってきた多門櫓は上の写真の右端に切れている部分で、その左上の白い部分が奥御殿跡、左半分が表御殿跡だそうです。写真の左上の「田の字」が二之丸の最重要スポット「大書院」ですか?
ということは、多門は勝手口みたいなもので、二ノ丸の正門は画面左側の真ん中に見える門(四足門)ということになりますな。
ということで、奥御殿跡から散策してみましょう。
と、、、、
何ですか? この浄水場のような眺めは
一方、表御殿跡には、様々な柑橘類が植えられています
カラマンダリンとか、
この池(プール)とか柑橘類とか、何を示しているかといいますと、のリーフレットによれば、こんな意味がありました。
二之丸史跡庭園は、松山城二之丸跡の敷地約1.6haを史跡庭園として整備したもので、平成4年5月に開園しました。
庭園内部は古い絵図や発掘調査に基づいて、二之丸邸の間取りを遺構の上に表現したもので、部屋の間取りの中に各種の柑橘や四季折々の草花を植えた「表御殿跡柑橘・草花園」と、部屋の間取りの中を水が流れる流水園と大きく分かれています。
ということで、通路が廊下跡、池や植物が植わっている場所が部屋の跡というわけです。
ひとつのアイデアではあるでしょうけれど、往時の姿を偲ぶのはかなり難しい…
それでも、表御殿跡に残る大井戸は壮観でした
いやいや、壮観どころではなく、井戸と呼ぶには常識外のデカさ
説明板によれば、
昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見されました。井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚火之間」が覆っており、井戸の石段を上ったところにある一段低いところが、床下通路跡です。火災の際には、木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火災現場に運搬するという、松山城二之丸御殿の消火システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようです。
一日に一寸水が湧くと言われていますが、現在は基礎の木組みを見せやすくするため、ある程度の量を保つよう自動排水しています。
と、日常生活用というよりは、防火水槽の役割を果たしていたようです。
ちなみに二之丸御殿は、
明治時代になって一時期、二之丸邸は藩庁・県庁として使われましたが、明治5年(1872年)に火災により焼失し、二之丸邸は270年余りにわたるその歴史の幕を閉じました。
だそうで、明治の火災では役立たなかったんですねぇ…
ということで、二ノ丸史跡庭園を後にして、黒門登城道から本丸を目指します。
つづき:2013/11/04 お城と温泉の四国旅行記(その15)