新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

東北ぅ~!

2013-11-04 23:11:36 | MISIA

きょうの午前中、洗濯機を回しながら、昨夜予約録画していたNHKスペシャル「至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎」を観ていました。


史上最高の弦楽器とされる「ストラディヴァリウス」。17世紀イタリアの天才職人アントニオ・ストラディヴァリが製作したバイオリンで、約600挺が現存する。1挺の値段はいまや数億円。現代最高の名手たちから今なお愛され続けている。しかし、その美しい音の秘密はヴェールに包まれたままだ。世界中の職人や科学者がなんとかその謎を解き明かそうとしのぎを削っているが、今もってその答えを見つけた者はいない・・・。
いったいストラディヴァリは楽器にどんな魔法をかけたのだろうか。自身もストラディヴァリウスを弾くニューヨーク在住のバイオリニスト・五明カレンさんとともに、“至高の楽器”に取り憑かれた世界中の演奏家・職人・科学者たちの300年にわたる伝説と挑戦を追う。


131104_2_02 というもので、いかにもNスペらしい、多角的かつ丁寧に作られた番組で、非常に興味深く見入っておりました。


ストラディヴァリウスの響きを最も楽しんでいるのは聴衆ではなく演奏者本人であること、ストラディヴァリが生きていた頃の木材(スプルース)が小氷期を経てより年輪の詰まったものであったこと、数多くの職人や科学者の努力をもってしてもストラディヴァリウスが300年もの長きにわたって「至高の楽器であり続けていることなどなど、見応えのある番組でした
以前、こちらの記事で、


精巧な模造品をつくるということは、オリジナルを分析して、同じ材料を集めて、当時と同じ手法で再現するということ。以前もこのブログで書いたと思いますが、技術は着実に進化するとしても、技能と感性は「その人」一代限りです。


と書きましたが、改めてその思いを強くしました。


そうそう、メトロポリタン美術館ストラディヴァリウスを含む楽器のコレクションまで持っていたことをこの番組で初めて知りました
まったくもって、「恐るべしメトロポリタン美術館です


131104_2_01 番組では、メトロポリタン美術館以外にもストラディヴァリウスを収蔵する博物館が登場しましたが、展示ケースの中にたたずむバイオリンたちを見て、のだめカンタービレ桜ちゃん(TVドラマ版では元ダルビッシュ夫人サエコ(現・紗栄子)が演じていましたっけ…)のお父さんを思い出しました。


楽器は弾かれてナンボですよねぇ~。


この弁でいえば、茶道具なんぞも、保有・展示されるだけでなく、お茶会で使われることを制作者も茶道具自体も望んでいるのではなかろうかと思ったりして…


このように、想像の羽根を広げながら楽しんでいた「至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎」だったのですが、結構感動的な場面で、「ニュース速報」のテロップが…


そのニュースとは、、、


131104_2_03


プロ野球 楽天が初の日本一
日本シリーズで巨人を破る


というもの。
これって、TV番組にテロップを入れて速報するべきニュースですか?
注意喚起のチャイムを入れなかっただけマシかもしれませんけれど、日本シリーズに興味を持っている人は、他のチャンネル生中継を観ているか(私はこのパターン)、テレビ放送のない地域ではラジオに耳を傾けていたでしょうから、NHKスペシャルを観ていた人の圧倒的多数にとっては邪魔以外の何ものでもなかったと思います。


かなりムッとした私は、「至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎」再放送(11/07[木] 00:40-01:40@NHK総合)を録画予約しました


   


と、私の気分を害した「楽天が初の日本一」というニュース速報ですが、楽天が讀賣を破って日本一になったことは、大きな喜びでした


131104_2_04


なんてったって私は元仙台市民、いやいや、生まれも育ちも東北生粋の東北人ですから


「楽天」という企業グループに対しては、こちらこちらで書いたように胡散臭さを感じている私ではありますが、東北楽天ゴールデンイーグルス日本一には心底喜んでいます


   


ところで、TVニュースでは「東北のチームとして初の日本一」と報じていました。
確かに東北のプロ野球チームとしては初めての日本一北海道をフランチャイズとする北海道日本ハムファイターズには先を越されましたけど…


そういえば、高校野球も、「優勝旗が白河の関を越えるのはいつか?」「東北で初の高校野球日本一はどの高校か?」なんて、長らく期待と落胆を繰り返していたところ、あれ と一気に優勝旗を津軽海峡を越えて北海道に、しかも2年連続で持っていってしまったのは、田中“マー君”将大投手がいた駒大苫小牧高校でしたっけ…


   


話を今年の日本シリーズに戻すと、なかなか面白いシリーズでした


中でも、ラジオ⇒TVハシゴ観戦(聴戦)した、星野監督「今日ほど、しびれたゲームはないね」と語った第5戦の熱闘は、久しぶりに野球を楽しめたと思っています。


私、シリーズMVP則本投手に違いない と思っていたのですが、結局なにもなし
これは解せないゾ


   


東北絡みとしては、今夜から「MISIA星空のライヴVII -15th Celebration-」東北・北海道シリーズが始まりました。
青森(今夜)⇒帯広(11/6)⇒札幌(11/8)⇒能代(11/13)⇒郡山(11/15)⇒水沢(11/20)と、6都市を巡ります。


このうち、能代水沢「奥州市」という市名は酷いと思う…)は初MISIA郡山98年10月以来15年振り
参加される方には思う存分、生MISIAをお楽しみいただきたいものです
つくづく能代公演に行けないのが残念です…

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お城と温泉の四国旅行記(その15)

2013-11-04 10:10:11 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記(その14)」のつづきです。

現在、松山の市街地から松山城の本丸を目指す登城道は4つあります。
この4つの登城道は、明治末期の地図を見ても、しっかりと描かれています。

131104_1_01

城山の北西から登る道が古町口登城道、東からの道が東雲口登城道、南西から登る2つの道の北側が黒門口登城道で、南側が県庁裏登城道です。
この4つの登場道のうち、県庁裏登城道「大正の終わり頃」に作られた道で、東雲口登城道「その15」で書いたように「築城当時、瓦・木材・及び石材等の資材を運搬するために作られた道」で、古町口登城道二ノ丸史跡庭園近くで見かけた説明板によれば、「言わば裏道であり、大正の初めころに広げた道です」ということで、残った黒門口登城道公式の登城道ということになります。

131104_1_02 もっとも、黒門口登城道にしても、

黒門口登城道は、慶長年間(1600年頃)に建造された二之丸から本丸への通路であったといわれています。しかし、明治17年堀之内が兵営となり閉鎖されてしまいました。それ以来人の通ることもなく、道は荒廃し、雑草、雑木が自ずとおおい茂って林になってしまいました。
それが、昭和44年の春に改修を完了して、再び登城道として私たちの前に現れました。

という経緯を辿っています。

黒門口登城道は4つの登城道で一番距離が短い、ということは、一番坂道がキツいわけで、2週間前に酷い風邪に苦しんだ身としてはちょいと不安でしたが、江戸時代の松山藩の皆さんの気分を味わいたくて、登ってみました。

131104_1_03 お城の中とは思えない山道で、暑からず寒からずの良い季節でよかった…と思いながら、ふと、江戸時代にはお殿様はどうやってこの道を登ったのだろうかと考えました。

トレーニングを兼ねて歩いた? 馬に乗って登った? はたまた駕籠に乗って登った?
こんな急坂を駕籠で登るのは、担ぐ方も大変だし、乗る方も楽ではなかったでしょうナ。

ところで、登城道の序盤にこんな立て札がありました。

131104_1_04 城山の樹木についての説明なんですが、

標高132mの城山は、松山市街の中央に位置してどこからも眺めることのできる、松山市の象徴である。
加藤嘉明は慶長7(1602)年築城を始めたころははげやまであったが、その後アカマツが植林されて山一面を覆い松の山になったと伝えられている。
(以下略)

今ではが美しい城山が、400年前は「はげやま」だった、言い換えれば、人の手で緑の美しい城山をつくったとは、驚きです。

それはさておき、写真のタイムスタンプを見ると、二之丸史跡庭園四足門の写真(逆光がキツい…)が「13:24」で、

131104_1_05

つづら折りの道をヒーヒー言いながら登り、

131104_1_06

おぉ終点が近い と盛り上がりつつ、

131104_1_07

大手門跡付近の案内板の写真のタイムスタンプは「13:33」でした。

131104_1_08

あれ? 10分かかっていない
もっと長い時間歩いていた気がするんですが…。
やはり、楽しい時間はあっという間に過ぎるし、難行・苦行は時計の針の進みが遅くなるんですな…

   

さて、長者ヶ平六実庵で一息入れた後、さっそく「下山」です。

131104_1_09帰り道は県庁裏登城道

黒門口登城道に比べて、道幅が広くて、しかも、傾斜が緩い。途中、ベビーカーを押して登るお母さんを見たくらいです。

更に県庁裏登城道には、松山城名物の一つ、「登り石垣」を間近に見ることができるという特典があります。

131104_1_10 説明板によれば、

登り石垣は、山腹を登るように築造された石垣のことです。松山城では、山頂の本丸と山麓の二之丸との間にある大きな空間への寄手(よりて:攻めてきた敵の兵士や軍勢)の侵入を防ぐため、それらをつなぐように南北2本一対の登り石垣が設けられています。地形にあわせ、出隅、入隅、鎬隅が巧みに組み合わされています。
登り石垣上には、渡塀や二重櫓が備えられていました、北登り石垣は、明治時代以降に破壊され、ごく一部しか残っていませんが、南登石垣は、ほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及びます。登り石垣は、洲本城、彦根城などにも見られますが、松山城のものが全国で最大規模を誇ります。

だそうで、その登り石垣の一部がこちら。

131104_1_11

もう1枚。

131104_1_12

大変な工数をかけて造った登り石垣でしょうけれど、役に立ったのでしょうか?
もっとも、性格上、役に立つ場面が生じなかった方が、お城や藩士たちにとっては幸せなことでしょうけれど…

こうして、二之丸まで降りてきました。

131104_1_13

   

ところで、この「県庁口登城道」、その名のとおり愛媛県庁のすぐ裏を通っているのですが、愛媛県庁(本館)はかなり印象的な建物でした。

131104_1_14

県のHPによれば、

愛媛県庁本館は、愛媛県誕生後4代目の庁舎として、昭和4年に竣工(完成)しました。
その特徴は、中央にドームを配した左右対称の構えで、空から見ると鳥が翼を広げた形で、どっしりした中にも優しさと美しさが感じ られるデザインです。アーチや装飾が多く取り入れられ、格調高い雰囲気を出しています。
知事が執務する庁舎としては全国で3番目に古く、国会議事堂(昭和11年竣工)より古い建物です。

だとか。

聖徳記念絵画館(1926年竣工)を連想する風情ですが、ひたすら陰鬱なムード聖徳記念絵画館と違って、こちらは威厳だけでなく、華やかさを併せ持っています。

131104_1_15

ということで、次は今回の四国旅行最後の観光スポット愛媛県美術館です。

つづき:2013/11/08 お城と温泉の四国旅行記(その16・最終回)

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