「忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その1)」のつづきは、明治村の最奥部「5丁目」から始めます。
このエリアには司法系の建物が集まっていました。
例えば、とある大建築と似た雰囲気を漂わせるこちらの建物も、広義の「司法系」と呼べるでしょう。
正面に掲げられた銘板には「東京駅警備巡査派出所」とあります。
そう、東京駅前にあった「交番」です。
東京駅(丸の内駅舎)と調和がとれたデザインから想像がつくように、こちらは大正期の建物なんですが、東京駅丸の内駅舎と同様、覆輪目地で仕上げられている凝りよう、ナイス
まぁ、交番なら日常でも、拾い物、落とし物、道案内などで訪れることがあり得ますが、こちらにはめったなことでは訪れたくありません
って、この写真では何のための建物か判りません
中に入ると、、、
法廷です
この建物は、京都府宮津市にあった「宮津裁判所」。
明治村のHPの説明によれば、
宮津裁判所全体の形は左右対称のH型で、中央に二階建の管理棟、左右両翼に法廷棟が配されていた。管理棟には、玄関、応接所、正庁、会議室などがあり、法廷棟には法廷のほか予審廷、検事調所があった。明治村に移築されているのは、右翼の刑事法廷棟である。
だそうです。ちなみに、「右翼の刑事法廷棟」といっても、「右翼系の被告」を裁くところではなく、正面に向かって右側にあった法廷という意味です(説明不要でしたな…
)。
また、裁判所以上に行きたくないのは、こんな門をくぐった先、
いくらなんでも、ねぇ…
こんな生活はいやじゃぁ~
そう、刑務所(金沢監獄)です。
一般的に、刑務所(や拘置所)の造りは、看守所を中心に、放射状に監房が配されているものですが、明治村の金沢監獄中央看守所・監房は、5棟あった監房のうち一つだけが移築されて、タペストリーを使って、うまく「幻の監房」が想像できる
ようになっていました。
これには、「網走監獄中央見張所」 として、以下の説明がつけられていました。
網走監獄(当時釧路監獄署網走外役所と称した)が開設されたのは明治23年であったが、明治42年4月山火事の延焼により、教誨堂、独居房1棟、倉庫棟を残して焼失した。
同年8月復旧工事を開始し、明治45年3月に竣工した。この中央見張所も同期間に建設された物である。ただし窓廻りは後に補修されたものと思われる。
この見張所が更新のため取壊されたので、古材の寄贈を受け、昭和52年3月、明治村に移築復原した。
なるほど~。
この金沢監獄の監房は壁に囲まれていますが、こちらの雑居房はかなりスゴイ
この「前橋監獄雑居房」は、説明板によれば、
この建物は看守所を中心にして十字放射型に配された監房棟の一部分である。雑居房は江戸時代の牢獄の形式に近く、一室に多人数収容していた。排便施設
も取り込まれているため衛生面を重視して吹きさらしにされている。
建物の構造は洋小屋組に越屋根が載せられた和洋折衷である。堅い栗材で鳥かご状に組まれ、堅固に造られている。
監獄建築として日本で最初に展示公開された建物である。
だそうな。
確かに、これだけ外気が通れば、トイレの臭いはこもらなくて「衛生的」かもしれませんが、前橋といえば、冬になれば赤城おろしが吹いて、かなり寒いん
じゃなかろうか
というよりも、冬にこんなす~す~した場所で暮らす(生き抜く)のは無理
外観は、まるで家畜小屋ですし、囚人(受刑者)は人間扱いされていなかった
ということなのですかねぇ~
裁判所・拘置所・刑務所には、一生、お世話になりたくないものです
「5丁目」には、このほか、北側の屋根に明かり取りが広くとられたいかにも「写真館」な「高田小熊写真館」、
お城のような「菊の世酒造」、
旅行当日の記事に書いた「聖ザビエル天主堂」、
さらに、「天童眼鏡橋」「隅田川新大橋」「小那沙美島燈台」「川崎銀行本店」
なんぞもありましたが、ちょいと先を急ぎまして、「その3」は「4丁目」からお送りします。
つづき:2014/02/09 忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その3)