新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2017年3度目の関西旅行記 #2-7

2017-12-12 22:32:39 | 旅行記

ちょいと間が空きましたが、「2017年3度目の関西旅行記 #2-6」のつづきです。

東郷邸の次に向かったのは、土日祝日に公開されているという海軍記念館
東郷邸へは、スマホでGoole Mapを見て、海軍記念館の場所を確認しつつ向かったのですが、海軍記念館海上自衛隊舞鶴地方総監部の辺りにありそうながら、看板らしきものは無くてホントにあるのか? ホントに観覧できるのか? 不安に思っていました。

そこで、舞鶴地方総監部の入口で、

立哨していたデジタル迷彩のカッパを着た人(いわゆる衛兵?)海軍記念館の場所を尋ねると、やはり舞鶴地方総監部の中にあるのだそうで、ストラップにぶら下がった見学証を手渡してくれました。

そして、緩やかな坂道を登ると、アンテナの鉄塔が無骨ながら、趣き深い赤れんがの建物。

昭和5(1930)年に建てられたという舞鶴地方総監部第一庁舎でして、

当時の最新技術を駆使して建設された旧海軍の機関学校
戦後、米軍により白く塗装されていましたが、平成14年に当初の姿に復元されました。

だそうです。

私の偏見かもしれませんんが、アメリカ人って、建物の外壁とか部屋の壁とかをペンキで塗りたくる性癖がありそうなイメージです。良いか悪いかは別にして…。

それはともかく海軍記念館

一見、大学の講堂のような風情です。

それもそのはず、

当海軍記念館は、旧海軍機関学校の大講堂を利用していますが、この大講堂は昭和8(1933)年、海軍機関学校の当時の関係者が、昭和天皇の行幸のため3カ月の突貫工事で建設したものです。建設費用は当時の金額で6万円かけられたという記録が残っています。

だそうですが、その内部の話は「#2-8」で書くことにして、きょうのところはを観察しておきましょう。

舞鶴地方総監部第一庁舎の前に広がる芝生の廻りにあったのは、

これは砲弾(のイメージ)か?

そして、雨空の下ながら掲揚塔で翻るのは、

日章旗と、白地に三つの桜花の旗でした。

「白地に三つの桜花」の旗について調べると、Wikipediaによれば、これは「海将旗」というもので、

  • 舞鶴地方総監の階級が「海将」
  • 舞鶴地方総監は、この時点で、自衛艦等に乗艦していない

ということが示されているらしい。

ということで、「#2-8」では海軍記念館の内部を探訪します。

つづき:2017/12/13 2017年3度目の関西旅行記 #2-8

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南青山でアートしたあとのこと

2017-12-10 21:30:25 | MISIA/タウンウォッチング

「南青山でアートして…(後編)」のつづきのようなものです。

岡本太郎記念館を観終わったとき、時刻は13:00ちょい過ぎで、昼食どきです。

さて、どうしようか? とちょっと考えて思いついたのは、2年半前に根津美術館に来たときの帰りと同様、久しぶりにホープ軒ラーメンを食べよう ということでした。
2年半まえには、国立霞ヶ丘競技場はその姿を消していまして(写真を撮っておけばよかった…)、今現在、新国立競技場はどうなっているのかを見てみたかったですし、昼食後に新宿に行く予定でしたし…。

で、南青山から歩くこと約30分新国立競技場建設現場が見えてきました。

おぉ 何本のクレーンがあるんだろ?

上の写真では、養生壁に隠れて、新国立競技場がどんな段階にあるのか判りませんが、1ブロック進むと、

スタンド骨格が立ち上がっているではありませんか

そして、私はホープ軒2階チャーシューメンを食べたのですが(昔に比べるとインパクト薄らいだ気がする…)、から視線を上げると、、

建設現場が目前

なんです、帰宅して、撮った写真を見たら、ホープ軒窓ガラスの網ピントが合っていて、肝心建設現場ピンぼけ

オートフォーカス(AF)便利なことは論を待たないけれど、こんな網入りガラスとか、動物園の檻とかにピントが合ってしまい、撮りたいものピンぼけ なんてことは少なからずあります。

マニュアルモードで撮ればよかった…

ところで、新国立競技場は、2020年東京オリンピックに向けて、それこそ突貫工事中です。

先月末、恒例というか何というかブラック企業大賞ノミネート企業が発表されたのですが、その中にあったのが、、、

大成建設株式会社・三信建設工業株式会社
大成建設株式会社は、我が国有数の大手総合建設会社である。同社は、東京オリンピック・パラリンピックで使用するメインスタジアム「新国立競技場」の建設工事の元請け企業である。三信建設工業株式会社は、特殊基礎土木工事業(地盤注入工事、アンカー・斜面安定工事、地盤改良工事など)を業とする企業で、「新国立競技場」建設において、大成建設から地盤改良工事を請け負った一次下請け企業である。
今年3月、三信建設工業の新人男性社員(当時23歳)が自殺した。10月、新宿労働基準監督署は、男性の自殺は長時間労働による過労が原因の労災であると認定した。報道によると、男性が自殺する前の1カ月の残業は約190時間であったという。この事件を機に、東京労働局は、「新国立競技場」の建設工事に関わる約760社を調査した結果、37社で違法な時間外労働が確認され、新宿労基署が是正勧告をした。

とまぁ、いろいろあって、新国立競技場の建設自体がブラック極みになっているようで…

さて、ホープ軒での昼食を終えた私は千駄ヶ谷駅に向かって歩き出したわけで…、と、ちょうど工事車両の出入りがあって、建設現場のゲート開いたぁ~

思ってた以上に工事は進行している気配ではありませんか
外苑西通りから階段を昇り、東京都体育館の横からもう一度新国立競技場の現状を見てどうかこれ以上犠牲者が出ませんように…と心の中で祈ったあと、私は中央線各停に乗って新宿へ…。

   

この日、私が新宿に行ったのには二つの目的がありまして、一つは成就しなかったのですが、もう一つはクリアできました。
そのクリアできたの、こちら

新宿ピカデリーで展示されている、MISIAMV撮影衣装です。

いろいろな人たちが新宿ピカデリーで撮影して、SNSなどにアップした写真を見るたび、なんか薄汚れた印象を持ったのですが、実際に薄汚れていました

どうして汚れたんだろ、どうしてきれいにして展示しないんだろ、と思ったのですが、衣装のを見ると、

この汚れ方からすると、敢えて汚れたまま展示したと考えるのが自然でしょう。

でも、「君のそばにいるよ」MVフルCGだったはず…
それが、どこかのグラウンドで着用したように汚れているということは、この汚れ「汚し加工(シャビー加工)」だということなんでしょうな、K.I.T…

MISIAのMV撮影衣装観賞した私は、新宿での次のタスクに取りかかったのですが、こちらは前述のとおり不発に終わりました。

でも、イイです。
二つ目のタスクには時間的な余裕がありますし、自宅最寄り駅から見事な富士山シルエットを鑑賞できましたから

そんなこんなで、なかなか濃い土曜日でした、、、、とさ。

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南青山でアートして…(後編)

2017-12-10 11:08:01 | 美術館・博物館・アート

「南青山でアートして…(前編)」のつづきです。

野口哲哉作品展

なぜ、きのう、私が身の丈に合わない南青山へ出かけたかといいますと、Twitterで知った野口哲哉さんの作品展「armored maighbor ~鎧を着た隣人~」を観るためでした。

2014年3月に練馬区立美術館「野口哲哉展 -野口哲哉の武者分類図鑑-」を観て(記事はこちらこちらにも登場)、その技術と考証の確かさ/緻密さと、発想のぶっ飛び方に感服して、それ以来、頭の中にそのお名前を刻み込んでいた野口哲哉さん、その後、なかなか作品にお目にかかれず寂しかったのですが、久しぶりに作品を拝見できるというので、南青山骨董通りギャラリー玉英に出かけたしだいです。

スマホのGoogle Mapを頼りにギャラリー玉英に行こうとしたのですが、なぜか見つからない

スマホに表示された地点を行ったり来たりするうち、とある建物のガラス越しに、甲冑姿の侍2人がこちらを眺めていることに気づきました

あったぁ~ (なぜすぐに気づかなかったんだろ…)

画廊なんて場所に足を踏み入れたことのない私、半ば恐る恐る店内に入りました。

店内から外を見ていた立体作品(写真はどこからか借用)は非売品でしたが、

野口哲哉さんの立体作品

展示されていた小ぶり絵画作品20点あまりはすべて「売り物」
各点一律35万円で、購入希望の作品を申し込めるようになっていました。

いつも展覧会を観るとき、お持ち帰りしたい作品はどれだろう?品定め(もちろん妄想)している私ですが、今回は、現実感をもって品定めできるというわけです。

さて、今回の作品展のテーマは「armored neighbor ~鎧を着た隣人~」というタイトルどおり、甲冑に身を包んだサムライを、同時代西洋の画家が描いたらどうなるか? というもので、当然ながら西洋画(風)です。

野口哲哉作品展 armored neighborsの参考資料

野口さんご自身の説明(?)によれば、

絵具のメディウムオイルから樹脂へと置き換えた仮初(かりそめ)の灯を用いて、異なる文明が照らし出す 彼の人(かのひと)たちの姿を実験的に浮かび上がらせてみよう。

う~む、楽しかった
野口哲哉「着甲武人猫逍遥図」「野口哲哉の武者分類図鑑」展で拝見した絵画作品は、日本の古い絵画風のものが主流を占めていましたが(右に載せた「着甲武人猫散歩逍遥図」が話題となりましたっけ…)、今回の作品展は、14~17世紀油彩画風で、私のイチオシは、冒頭に載せた楽器(リュート?)を弾く武人の絵でした。

でも、その場で35万円」買い物を申し込むのには二の足を踏んでしまいまして、結局、何も購入申し込みせずギャラリー玉英を後にしました。

帰宅してから知ったのだけれど、この作品展では写真撮影可らしくて、もったいないことをした…

なお、野口哲哉作品展「armored neighbors来週土曜日(12月16日)までですが、作品の購入申込は、きのうで終了していますので悪しからず…。

   

話は岡本太郎記念館に戻ります。

コップのフチの太陽の塔

上の写真は、館内のガチャgetした「コップのフチの太陽の塔《乗り越え太陽の塔》」。ただし、家にあるコップ/グラスのすべてに乗っかりません
もっとも、「坐ることを拒否する椅子」を制作した岡本太郎さんの関連グッズですから、「使えない」のも一興かもしれません。

さて、

1967年5月初旬に(大阪万博の)テーマプロデューサー就任を打診された岡本太郎は、再三の要請にもかかわらずこれを固辞。受諾を決めたのは6月末頃で、7月7日に就任会見を開く。ところが、時間がない中、翌8日から2ヶ月に及ぶ中南米への取材旅行に出かけてしまう。
9月初旬の帰国時点ではほぼ完成形に到達していた。

だそうで、中南米旅行中に岡本さんが描いたエスキース(習作)が展示されていまして、これが面白かった

6月28日の段階では、

6月28日のエスキースなんだかけん玉こけしみたいなものだったのが(既に太陽の塔大屋根を突き破るコンセプトはできていたもよう)、7月12日には、

7月12日のエスキース

もう太陽の塔シルエットになっています。ただ、がようにたくさんついていますけど。
もしかして、モントリオールのホテル便箋に描かれてることからして、トーテムポールからインスピレーションをもらったのかな?

そして、8月8日には、

8月8日のエスカレーター

いかにも岡本太郎なこんな風になり(メキシコのホテル便箋に描かれてます)、そして9月9日には、

9月9日のエスキース

ほぼ最終形になっていました。

こちら「生命の樹」のエスキース(習作)かな?

以上で企画展「太陽の塔 1967-2018」はおしまい。
面白かったぁ~

現在の第1期来年2月18日までで、2月21日~5月27日の第2期が終わったら、あべのハルカス美術館での「太陽の塔展」(来年9月15日~11月4日)に出品されるだろな。

   

縄文人1階に降りて、エントランスにど~ん と立つ「縄文人」(岡本太郎縄文好きは有名)の前を通り、常設展示室へ移動しました。

まずは岡本さん挨拶して

岡本太郎立像(?)岡本さんのアトリエを拝見

アトリエ

ひやぁ~、おもちゃ箱の中に入ったみたいだ

太陽の塔の胴体正面についている「顔」のほか立体作品が立ち並び、アップライトピアノまであったりします。

こんな環境創作活動に没頭したら、やはり爆発するしかありませんな。

ところでこのピアノ岡本さんを描いていたかと思うと、やにわにピアノを弾き出したりしたのでしょうか? ちょうどチャップリン「独裁者」ヒンケルのように…

それにしても、ラックには大量カンバスが収納されているのですが、これらは何?

アトリエ

未完成品? 未発表作品? それとも失敗作?

そんなことを考えながら入口へと戻りました。
アトリエの手前の展示室から見えるの様子がイイ

常設展示室

ということで、最後にお庭を拝見したました。

庭

まるで、熱帯の密林の中で聖霊たちに出逢ったみたい
(「もののけ姫」を連想… こちらの設定は中世の日本だけど)

太陽の顔最高イイし、

太陽お持ち帰りしたいほど気に入りました

鐘

には小槌が添えられていたのですが、鳴らす勇気が私にはありませんでした
でも、私が岡本太郎記念館にいる間、を鳴らす人はだれもいませんでしたです。

こんなの奥で、、、

庭

岡本太郎さん太陽の塔原型に鑿をふるっています

短パン&雪駄履きランニングシャツ姿の岡本さん芸術家というよりも、肉体労働者です

よくよく見ると、リアル

岡本さん

いやはや面白かった 楽しかった

人生に疲れたら、、、とまで行かなくても、岡本太郎が不足していると感じたら、岡本太郎記念館岡本太郎を補充するのが良いかもしれませんぞ。

このあと、私は、千駄ヶ谷まで歩いて、更に新宿まで行ったのですが、その話は稿を改めることにしまして、「南青山でアートして…」前後編完結です。

つづきのようなもの:2017/12/10 南青山でアートしたあとのこと

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南青山でアートして…(前編)

2017-12-09 22:22:44 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

つい先日のニュース、毎日新聞に代表してもらいますと、

1970年大阪万博のシンボルで、大阪府吹田市の万博記念公園にある「太陽の塔」(約70m)の内部が来年3月19日から一般公開される。府が6日、概要を発表した。万博当時はエスカレーターで上りながら生命の進化の過程をたどれたが、閉幕後に非公開になり、昨年10月から塔の耐震工事と展示物の復元作業を進めていた。常時公開48年ぶり

だから、というわけではなく、ホント、きょう、たまたま近くを通りかかったもので、こちらに行ってきました。

岡本太郎記念館です。
南青山岡本太郎記念館があることは知っていましたが、入館したのが初めてなら、建物自体を観たのも初めてでした。
そもそも、南青山って、高級セレクトショップやらブランドショップやらが立ち並び、ちょいと道を逸れると、ひっそりと表札や看板のない立派かつ怪しげな建物高級マンション(語義どおりの「邸宅」)が立っているというイメージで、私には敷居の高い街で、足が向きません。
根津美術館に行ったとき(記事はこちら)以来、2度目かも…。

そんなHigh Societyな街にもかかわらず、こんな看板があったりして…

でも、ビルの裏側の非常階段おしゃれなのは、さすがは南青山 でしょうか。

さて、岡本太郎記念館では、「太陽の塔 1967-2018 -岡本太郎が問いかけたもの-」が開催中でした。

この企画展は、フライヤーに書かれた平野館長の文を転記しますと、

2018年3月、太陽の塔がついに再生します。
耐震補強工事の機に長らく放置されていた塔内が修復され、恒久的な展示施設に生まれ変わるのです。
「《太陽の樹》は太陽の塔の血流であり、内壁の襞は“脳の襞”だ」
岡本太郎はそう言いました。
太陽の塔は内臓を持つ“いきもの”なのです。
太陽の塔が内臓を取り戻し、半世紀ぶりに目を覚ます。
この機会をとらえ、「太陽の塔とはなにか」をもう一度考えようと思います。
(中略)
あのとき岡本太郎が日本社会に問いかけたものはなんだったのか。
それをいま生きるぼくたちになにをもたらし、なにを変えるのか。
生まれ変わる太陽の塔とともに、考えてみませんか?

だそうです。

私が「20世紀の日本美術を代表する作品のひとつ」だと思っている太陽の塔、なんとも好きでございます

2009年(記事はこちら)と2015年(記事はこちら)の2回万博記念公園に行き、太陽の塔の外観を愛でてきました。

大阪万博実際に観ていないことがかえすがえすも悔しいのですが、それはおいといて、太陽の塔の内部には生命の樹があって、観客はエスカレーターで昇りながら、生物の進化を観られるようになっていたことは知っていました。
そして、最上部まで昇った観客は、太陽の塔腕の内部を通って、大屋根にある出口から退場したということも…。

右に載せた「生命の樹」(復元模型)の説明には、

高さ45mの《生命の樹》には、単細胞から人類まで、生命進化のプロセスを表す292体の“いきもの”がびっしりと張りついている。何億年にもわたって受け継がれてきた生命の時間。始原のときから営々とつづく生命の生長と変貌。根源から立ちのぼり、未来へとつづく生命力のダイナミズム。岡本太郎の生命感がそのまま形になっている。

とありました。

2009年2月に国立科学博物館で観た「1970年 大阪万博の軌跡」(記事はこちら)では、生命の樹の一部が再現されていましたっけ…

でも、

《生命の樹》の生物群は、万博終了後にあるものは撤去され、あるものは朽ちていた。万博当時のダイナミックな姿を記録するものは、わずかな写真しか残されていない。そこで《生命の樹》の全貌を3次元で再現するため、2001年の岡本太郎生誕百年事業の一環として本模型を制作した。資料が十分に残っていない状況にあって、ある部分は想像力で補いながら《生命の樹》の全体像をみごとに描いている。
              

だというのは知りませんでしたし、さらに、太陽の塔の下に、こんな展示があったことも知りませんでしたし、

説明板によれば、

地下展示は万博閉幕時にすべて撤去され、埋め戻されてしまったために、いまではわずかな写真資料でしか当時のようすをうかがい知ることはできない。
日本ディスプレイの金字塔というべき地下展示の全貌を3次元で俯瞰しようと、過去にも例のない縮小モデル化を試みた。

だそうな

そして、上の写真の中央部の「地下展示《いのり》」

祭壇中央で儀式を司るのは、太郎が自ら手がけた巨大な仮面《地底の太陽》。二つの眼を大きく見開いているが、鼻も口もない。

とある「地底の太陽」に至っては行方不明なのだとか。

この「地底の太陽」は、原寸大に再現されて、来年3月に公開される太陽の塔内部展示されるのだそうで、その原型(1/10サイズ)も展示されていました。

説明板によれば、

万博閉幕後に行方不明となった《地底の太陽》を復元するために制作された1/10サイズの原型。
これを3次元計測して原寸(顔の直径 約3m、全長 約11m)に拡大し、その段階でふたたび検証と調整を行って制作に歩を進めた。《地底の太陽》は3次元資料がいっさい残されておらず、わずかな写真から立体化をせざるを得なかった。最初の原型は、原型師の木下隆志氏が制作した。
     

だそうで、その「わずかな写真」の一枚がこちらかな?

ところで、「地底の太陽」の左手前にある巨大な「みみずく土偶」は、「EXPO'70パビリオン」にも展示されていましたけど、

これは、実際に大阪万博で展示されていた現物なんだろうか?

それはともかく、太陽の塔内部に入ってみたい 見物してみたい という気持ちがどんどん高まってきます

ありゃぁ~、この1本で完結させるつもりだったのに、終わらない

きょう、何が目的南青山にでかけたのか、とか、MISIA「君のそばにいるよ」のMVで着用した衣装を拝見した話とか、

建設中の新国立競技場を眺めた話とか、

その辺りは、「後編」以降で書きます。

つづき:2017/12/10 南青山でアートして…(後編)

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2017年3度目の関西旅行記 #2-6

2017-12-09 09:40:20 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-5」のつづきです。

「東郷邸」こと「旧鎮守府長官官邸」こと、「舞鶴地方総監部会議所」の内部の探訪記ですが、以下、通称「東郷邸」の名称を使わせていただきます。

この東郷邸は、呉鎮守府司令長官官舎だった入船山記念館同様、和館洋館ハイブリッド住宅でした。業務スペースの官邸私的スペースの公邸を兼ねようとすると、やはりこうした形式が最適だということなのでしょうね。
気分の切り換えにもなるでしょうし。

ところで、こちらは東郷邸内に展示されていたパネルです。

東郷邸は、映画日本のいちばん長い日(2015)」で、鈴木貫太郎首相の私邸として使われたのだそうな。

平成26年10月14日、松竹映画撮影チーム、俳優:山崎努氏、堤真一氏らが訪れ、同映画の収録支援を行いました。
作品は平成27年8月8日に公開され、鈴木貫太郎首相の私邸での着替えのシーン(和室)、トランプのシーン(書斎)、迫水氏との語らいのシーン(縁側)等がスクリーンに登場しました。

だそうです。

そうかそうか、ここで鈴木首相(山崎努)迫水書記官長(堤真一)が語らっていたんだなぁ…

ところで、どうして東郷邸鈴木邸として使われたんでしょ?

鈴木首相は、連合艦隊司令長官海軍軍令部長を歴任した海軍のエリートなんですが、経歴をみると、呉鎮守府司令長官の経験者です。
それならば、入船山記念館の方が合っていたんじゃなかろうかと思ったりして(下の写真は入船山記念館和館)

ところで、私、「日本のいちばん長い日」を観たとき、阿南陸軍大臣公邸が高低差が大きくて面白い建物だと思ったのですが、こちらのロケ地長岡京市柳谷観音楊谷寺だとか。

それはともかく、東郷邸は、「自宅」として住むにはかなり良質な物件でした。

ステキだし、

サンルーム(かな?)は明るいし、

応接室寛げそうだし(入船山記念館の洋館部派手すぎると思う)、

そして、やはり、畳敷きの和室開放感たっぷりの廊下気持ちいい (とくにマンション暮らしの私にとってこんな生活環境は憧れです)

ところで、和室二間ぶち抜きで、長いテーブルがセット(掘りごたつ形式)されていました。

東郷邸は現名称「舞鶴地方総監部会議所」ですから、ここで会議が開かれたりしているのかもしれませんな

でも、会議よりも、宴会方が似合うかも…

でもでも、仮に海上自衛隊の方々がここで宴会を開くにしても、

あちこちに東郷元帥が飾られているこの建物の中では、ハメを外すことはできなさそうでもあります
この部屋の掛け軸なんぞ、

天下雖安忘戦必危
(天下安しといえども、戦いを忘るれば必ず危うし)

ですゾ
これじゃ寛げません

ちなみに、この文は、兵法書「司馬法」の一節で、

国雖大 好戦必亡 天下雖安 忘戦必危
(国大なりといえども、戦いを好めば必ず亡ぶ。天下安しといえども、戦いを忘るれば必ず危し)

は、東郷元帥の後輩、山本五十六元帥の座右の銘でもあったのだとか。

というわけで、東郷邸の見学はここまで。

そうそう、東郷元帥といえば、この戦艦を避けて通れません。

日露戦争時の旗鑑三笠の模型です。
三笠のことは「#2-7」以降でも書くことになると思います。

こうして東郷邸の見学を終えた私は、再び降りしきるの中、次なる目的地へと向かいました。
なぜか裏口から入って、正面から出る、という妙なコースで…。

それにしても、どうして私は裏口から東郷邸の敷地に入ってしまったのだろうか

そうそう、東郷邸は、当日のダイジェストにも書いたとおり、毎月第一日曜日のみの公開である一方、今回の私のように「特別公開に巡りあえたりしますので、東郷邸を拝見したい と考えたら、まずはHP公開日チェックしておきましょう。

つづき:2017/12/12 2017年3度目の関西旅行記 #2-7

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2017年3度目の関西旅行記 #2-5

2017-12-07 22:13:37 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-4」のつづきです。

赤れんがパークから雨の中やって来たのは、

「東郷邸」こと、「旧鎮守府長官官邸」こと、「舞鶴地方総監部会議所」です。

この東郷さんというのは、言わずとしれた日露戦争(1904-1905)の英雄・東郷平八郎さんのことなんですが、東郷さんの私邸だったわけではありませんで、

明治34(1901)年10月1日に舞鶴鎮守府が開庁され、東郷平八郎中将(当時55歳)が初代司令長官に親補せられ、明治36年10月19日常備艦隊司令長官になられるまでの2年間にわたり過ごされた官邸で、以来、歴代長官の官邸として大東亜戦争終戦時まで使用されてきた由緒ある邸です。

というものです。

鎮守府長官官邸といえば、2009年のゴールデンウィークに出かけた広島県呉市「入船山記念館」こと旧・呉鎮守府長官の官舎を見学しましたっけ…(記事はこちら)。

それはそうと、心落ち着く砂利道を歩いて行くと、、、

突然、東郷邸(旧舞鶴鎮守府長官官邸)玄関

入口の係員さんによると、私は正面(門)からではなく、裏口から入ってしまったらしい
でも、問題無く東郷邸入館しました。

ただ、を脱いで玄関に上がると、廊下にはびしょ濡れの私の足跡が点々と残る…

「#2-6」では「東郷邸」こと「旧鎮守府長官官邸」こと、「舞鶴地方総監部会議所」内部のことを書きます。

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2017年3度目の関西旅行記 #2-4

2017-12-06 22:12:40 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-3」のつづきです。

赤れんがパークの見物を終えた私は、「#2-1」に載せたルートマップに示すとおり、R27に沿って西へ歩きました。

目指すは「東郷邸こと「旧鎮守府長官官邸」で、結構距離があります。

しかも、降りしきる雨に、できることならバスに乗りたかったのですけれど、どのバスに乗ったら良いのか判らないし、そもそもバスの本数少ない
限られた舞鶴での時間を有効に使うには、「読める」徒歩を多用せざるを得ません

そんなわけで、10:00開門を待ちわびる人たちが並ぶ「海上自衛隊舞鶴地方隊北吸桟橋」正門前を通り過ぎ、海上自衛隊舞鶴地方総監部の入口前を通り過ぎ、旧舞鶴海軍工廠の後継であるところのジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所の入口前を通り過ぎ、ひたすら「東郷邸」を目指しました。

   

ところで、4年前「交差点の案内標識が変わる…か?」という記事を書きました。

「『外国人にもわかりやすい案内標識』を目指し、ローマ字表記の改善や交差点名の変更が実施される」というニュースに関するお話なんですが、交差点に掲げられている地名表示板のローマ字表記を、「ふりがな」から『外国人にもわかりやすい案内標識』に変えるというもの。
例えば、「国会前」は、「Kokkai」から「The National Diet」に変えようというわけです。

どうしてこの話を想い出したかといいますと、舞鶴市内の地名標示板が「ふりがな」だったから…
「総監部前」「Sokanbumae」でしたし、

「造船所前」「Zosenjomae」でした。

やはり、これでは外国人には意味不明ですよなぁ…

   

さて、赤れんがパークの駐車場から歩くこと約25分で、自衛隊官舎らしき集合住宅の前に残る水交社の門跡の前をに曲がると、

ようやく「東郷邸」です。

「東郷邸」の見聞録は「#2-5」で書くことにします。
この時点で、私の靴下グショグショになっていましたとさ。

つづき:2017/12/07 2017年3度目の関西旅行記 #2-5

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2017年3度目の関西旅行記 #2-3

2017-12-05 22:28:18 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-2」のつづきです。

赤レンガパーク建物の外観に注目してみましょう。

ぱっと見みんな同じような外観れんが倉庫群ですが、よくよく見ると、それぞれ違うし、面白いことに気づいたりするものです。
特に屋根の部分

まず、赤れんが2号館は、銅板葺き(?)に屋根に出窓がついたり、タマネギのような飾りがついたりして、モダンな印象です。

ところが、こんな屋根のれんが倉庫2号館だけで、他の建物(赤れんが博物館を除く)はみんな瓦葺き

しかも、鬼瓦まで乗っかっているではありませんか

赤れんが3号館の鬼瓦

れんが造りの建物というと、文明開化 というか、モダンなイメージを持ちがちなものですが、完全に和様折衷ですな。

更に、文科省の倉庫鬼瓦アップすると、あれまぁ~

丸軒瓦の意匠は、火除けのまじない巴紋です
れんが造りなんだから、火事を心配することなんてないのに…

坂本龍馬じゃないけれど、紋付袴に革靴のイメージじゃありませんか?

う~む、面白い スレートではなくとは…

ちなみに、復原された東京駅丸の内駅舎の屋根は、宮城・雄勝産の天然スレートで葺かれています。

また、同じ瓦葺きでも、単純な丸窓が開けられた赤れんが2~4号館と違って、文科省所管の倉庫は、丸窓勲章(瑞宝章)にような意匠になっているし、母屋(もや)の存在を意識させるような意匠で、これまた面白い

この「勲章(瑞宝章)のような意匠」の丸窓は、私にとっては、れんが造りの建物には「お約束」のイメージです。
京都第二期蹴上発電所もこんな感じでしたし…

かなり理屈っぽくなりましたけど、赤れんがパークの佇まいは、それ自体、よござんす
赤れんが3号館(左)、4号館(右)、5号館(奥)の辺りとか、

文科省所管の倉庫3棟の並びとか、

海上自衛隊の倉庫とか…。

赤れんが好きの私としては、萌え上がり状態で、赤れんがパークの外れ、駐車場まで到達しました。

ずっとの中、傘を差しての赤れんがパークの見学になってしまいましたけど、楽しかった

でも、青空の下の赤れんが倉庫群はさぞかし映えるんだろな…

つづき:2017/12/06 2017年3度目の関西旅行記 #2-4

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2017年3度目の関西旅行記 #2-2

2017-12-04 23:34:31 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-1」のつづきから、いよいよ舞鶴赤れんがパークの探訪記です。

「#2-1」で書いたように、赤れんがパーク周辺に立つ12棟れんが造りの建物のうち、海上自衛隊が使用している4棟を除く8棟重要文化財(「附(つけたり)」1棟を含む)に指定されています。

上の地図で、と表示されている建物が、その重要文化財に指定されている建物で、3棟(文科省の所管)以外の5棟が公開されていました。
それぞれの説明を転記しますと、

赤れんが博物館 (旧 魚形水雷庫)
赤れんが2号棟 舞鶴市政記念館 (旧 予備艦兵器庫)
赤れんが3号棟 まいづる知恵蔵 (旧 弾丸庫並小銃庫)
赤れんが4号棟 赤れんが工房 (旧 雑器庫並預兵器庫)
れんが5号棟 赤れんがイベントホール (旧 第三水雷庫)
文部科学省所管倉庫 3棟 [非公開] (旧 電機庫、第一・第二水雷庫)

このうち、大正7(1918)年竣工と、一番新しいれんが5号棟 赤れんがイベントホール「附」指定になっています。ちなみに他の7棟明治35(1902)年・同36年竣工とな。

で、こちらが赤れんが2号棟~4号棟で、

こちらが赤れんが5号棟です。

今回、私は、赤れんが2号棟 舞鶴市政記念館お土産売場を覗き、そして、赤れんが3号棟 まいづる知恵蔵の展示を拝見しました。

おぉ、ディーゼル機関車がある

Wikipediaには、

入換動車には、かつて福知山運転所で使用されていたDB10形ディーゼル機関車であるとの説明が付けられているが、DB10形は全車解体され現存していない上に展示機とは形状も異なる為、実際は国鉄F6形10トン貨車移動機(門司港レトロラインで機関車として使用されているDB10形ディーゼル機関車と同型)だと思われる

と書かれていますが、「鉄好き」とはいえ、鉄マニア(おたく)ではない私にはよく判らない話でございます。

それよりも、こちらに注目

説明板によれば、これは「電動荷揚機(いわゆる「ホイスト」)」で、

昭和10年代になると、鉄道引込線から貨車により倉庫内に搬入された武器などを2階へ揚げるため、2基の電動荷揚機が2階の天井に取り付けられました。電動荷揚機は昭和12年に東京日立製作所で製作されたもので、1.5馬力500kgまでの荷物を巻き揚げることが出来ました。

だそうで、追加されていた

電動荷揚機からの油液にご注意下さい。

という注意書きがよかったぁ。

ところで、旧倉庫の入口には、トロッコ用と思われる簡易なレールがありました。

でも、こんな直角に曲がったレールの上をトロッコ走れるか

でも、よくよく見ると、回転台跡らしき円形のコンクリートがあります。
ということは、武器搬入用のトロッコのレールイメージ再現したものなのでしょう、K.I.T

そうそう、上げ下げ窓ステキでしたぁ~

この建物には、花こう岩の切石を窓底に配し、側面と上部には赤れんがを使用した木製わくのアーチ窓が50か所あります。
1階と2階では大きさが異なりますが、すべて上・下別々に動く仕組みとなっており、上部両脇に付けられた滑車を介し、窓枠内に組み込まれた分銅とバランスが取れるようになっていました。(中略)
なお、1階の窓枠外側には、中の荷物を守るための鉄格子を復元しました。

だそうで、分銅も展示されていました。

左(長さ:52cm)が1階用右(長さ42cm)が2階用だそうで、上に転記した説明に

 1階と2階では大きさが異なります

とあるように、1階の窓の方が大きいわけですな

う~む、、、芸が細かい

ということで、「#2-3」でも赤れんがパークの話を続けます。

つづき:2017/12/05 2017年3度目の関西旅行記 #2-3

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2017年3度目の関西旅行記 #2-1

2017-12-02 22:38:04 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #1-6」のつづきは、今年10月28日(土)~30日(月)2泊3日で決行した関西旅行2日目のスタートです。

東舞鶴駅近くのホテルで朝食を済ませた私は、そそくさと行動を開始しました。

当日のダイジェスト「ネタばらし」していますので、最初にこの日の舞鶴でのルートマップを載せておきましょう。

まず東舞鶴駅のコインロッカーに荷物を入れ、バス停へ…。
9:10発のバスを逃すと、歩くしかなくなるもので

そして、やって来たバスに乗って向かった先は、赤れんがパークでした。

東舞鶴駅を出発して10分も経たないうちに、目的地の舞鶴市役所前に到着しました。

今になって上に載せたルートマップを見ると、この日、舞鶴ではほとんどの旅程を徒歩で動いたわけで、敢えて路線バスに乗る必要があるのかと思うわけですが、前日とほぼ同じルートを歩くのも、天候()を考えれば、ちょっとムダか とも思うわけで…。

それはともかく、あまりにあっけなく(前日は20分以上歩いたのに…)目的についたもので、ちょっと慌てて バスを降りると、、、、

あれま、赤れんがパーク
ますますあっけない

で、バス停から赤れんがパークに向かうには、R27を横断しなければならないのですが、なんとも立派な、いかにも舞鶴地下道がありました。

なかなかステキでして、

そして、立派蜘蛛の巣もありました

さて、舞鶴市の海辺には、12棟赤れんがの建物が立ち並んでいまして、うち赤れんが博物館を含む8棟重要文化財に指定されています。

これらの建物は、

鎮守府開庁(1901)から大正10年(1921)までに造られたものです。このうち赤れんが博物館(旧魚形水雷庫)だけは鉄骨れんが造り、他の11棟れんが造りです。平成20年(2008)6月、市役所近辺の6棟が重要文化財(附1棟を含む)に指定されました。

というものなんですが、赤れんが倉庫12棟のうち、重要文化財指定されていない4棟は、どんな事情を抱えているのでしょうか?

重要文化財に指定されていない4棟は、Wikipediaに書かれているように、この4棟だけ海上自衛隊の所管で、しかも、倉庫として現役です。

海上自衛隊の倉庫

築後94~116を経たこの倉庫4棟に限らず、自衛隊って、ホント物持ちが良いと思います

「#2-2」では、赤れんがパークの公開中の建物について書きます。

つづき:2017/12/02 2017年3度目の関西旅行記 #2-2

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