すでに父母と姉(56歳で逝去)がなくなってから10年以上の歳月が流れた。
姉の死は想定外の出来事だったわけで、その友人たちの多くはお元気でいらっしゃることでせう。
3人姉妹の末っ子でありながら、何故か「老親介護」のすべてをわたくしが背負った。
何故かと言えば、わたくしが「主婦」であり、姉たちはそれぞれに「仕事」なるものがあったから。
簡単な道理ではあるが、そのことに今さら不満はない。
老親介護の体験は無駄なものは何もなかった。たくさんの両親との最後の思い出も共有できたのですから。
別の面から見たら「苦労」と思い、そこから遠い位置にいた人間の方がはるかに寂しいのでは?
しかし、1人で老親介護にあたっているわたくしを見て、「親子関係が悪かったのですか?」と訊ねた方がいました。
死んだ姉もソーシャル・ケースワーカーでしたが、それを訊ねた方も病院のケースワーカーでした。
「何故、そのような質問をなさるのですか?我々親子は普通でしたけれど…。」
「統計から推定すると、老親看護を熱心にやる方は過去において親子関係が不幸だったケースが多いのですので。」
ああ、そうですか。それで「ケースワーカー」と言われるのですね?
残念ながら、そのケースにはあてはまりませんです。
80歳を過ぎた両親の2人暮らしに手を差し伸べるのに、理由がいりますか?
そこから約8年、負担は徐々に重くなってきましたが、相変わらず仕事をする方は仕事をします。
主婦はまだ元気な夫と、もう大人と言ってもいい子供たちを放り出して、
主婦から老親看護人になりました。父が逝き、その半年後に姉が逝き、その次に母を見送りました。
人が死ぬとお祭りです。良くも悪くも…。
あれよあれよと言う間に遠ざかっていた方々が集まります。看護人は沈黙するのみ。
ただそれだけのことでした。
それにしても、ケースワーカーもお仕事です。
よそさまの人生のアドバイサーをなさっていれば、当然自分の肉親を看ていらっしゃる中心人物は
他にいらっしゃるわけですよね?
その矛盾と向き合いなさい、などとは申しませんが、ケースで人間をくくるのはいかがなものか?
自分が不幸な子供だったなどと思ったこともない人間を、わざわざ不幸なケースにくくらないで下さい。
気持のうごくままに、やっただけ。ただそれだけのことでした。
「河辺の家」
「川のある町」
「春がくると」
「幻の酒」
あなたのお母様がそのようなめぐりあわせだったことは納得できるような気がします。
それは、わたくしがこめつがさんを存じ上げているからです。
わたくしもこめつがさんのそばにいると、安心できるからです。
もう大分蓄積できましたか?
和尚さまのような悟りの境地が早くおとずれますように。なんまいだぶ。