先の映画「楢山節考」と「デンデラ」を紹介したことには実はわけがある。それについて少々記してみます。
「楢山節考」に共通することは、70歳になると男女共に、山奥に捨てられるという村の規律があった。これは「死」を意味する。
「デンデラ」の場合は女性のみが捨てられる。しかしこの映画の場合は「捨てられた」というところから
物語ははじまる。その後実は「死」ではなく老女たちが逞しく山の中で集団で生きたという物語です。
「姥捨て」はもちろん貧しさのためである。
「楢山節考」で最もわたくしが魅かれたことは2つあります。
「おりん」が70歳の「姥捨て」を迎える時が来ても、歯が丈夫な自分と「食べられる身」を恥じるというところ。
そのために、石臼の縁に自分の前歯を打ちつけてしまう、鬼気せまるシーンがある。
さらにそれに関連して、息子に背負われて山へ行くことを想定すれば、自分は痩せていた方がよいという思いやり。
そして「姥捨て」の前夜、粗末な家の破れ障子を、ありあわせの紙で塞ぎ、古びた床をみがいていたおりん。
この「おりん」を演じた「田中絹代」と「坂本スミ子」は、お2人ともこの役のために本当に歯を抜いたという。
こちらもすごいお話です。
さらに山の中で、なるべく眠るように早く死ねるために、山に雪が降りはじめる日を選ぶおりん。
息子の苦悩を先取りするように、おりんは着々と事をはこぶ。
これは過去の歴史のなかでの物語ではない。
現代版「楢山節考」と「デンデラ」は形を変えながら、人間の根底にあるということだ。
老いても、人間の生きようとする意志。死の準備をする意志。どちらを選ぶか?
現代の老人の周囲は「殺意」や「悪意」すらある時代です。
それは貧しさのためではない。何のため?それを言葉にもしたくはない。
あらゆる反感や侮辱を買おうとも、わたくしは「おりん」を生きたい。
「うばすてやま」は諸説あります。