2009年4月発行された「朝日ジャーナル」は、「復刊か♪」と一瞬思わせながら、実は「週間朝日緊急増刊」として発刊されたものでした。続いて11月に「朝日ジャーナル別冊」として発刊されたものも「復刊」ではなかった。この2冊を目の隅の方で意識しながら、日々は過ぎてようやく書棚から引き抜いた次第です。来年にならないうちに。
4月に出された前者には、冒頭に「週間朝日編集長」の挨拶が記されています。実はこの計画はもっと以前に企画されていた。2007年3月の「週間朝日」に綴じ込みの「ブック・イン・ブック」という形で、24ページだけの「ジャーナル」があったのです。そしてその後に何故2冊の「朝日ジャーナル」復刊もどきがでたのか?それはまさに「今の日本全体が未曾有(←みぞゆう、ではないですよ!)の危機」にあるからでせう。「わかりやすさ」ばかりが求められる時代ですが、時代そのものはわかりやすい状況ではない。むしろ非常にややこしい。それには「知の復権」が待たれる。その願いが込められた2冊です。
さて、そこまでの編集長の思いは理解したものの、どこから読めばいいのやら?目次を眺めていたら、なんと「水無田気流」の名前が目に飛び込んできました。彼女は魅力的な若き女性詩人です。これは「ゼロ年代の旺盛な創作活動を行っている4人からの発信」としての特集です。「水無田気流」「丸谷裕俊」「遠藤一郎」「澤田サンダー」・・・しかしわたくしは「水無田気流」しか存じ上げない。申し訳ないことではありますが、その上彼女の文章が一番輝いている。(内2名は「談」となっているしねぇ。)
タイトルは「ビンボーブラボーの罠」。彼女の文章は期待を裏切ることはなかったが、たった1ページでは書ききれない思いだったのではないか?わたくしももっと読みたかった。残念だ。
若い詩人にとって、今日の「社会の閉塞感、不安」だけでは括りきれない思いがあるでしょう。その対極には不透明で過剰な自由と開放を合わせ持つ時間があるわけで、そこから生み出される「詩」は、視界に写るものとして存在しないわけで、当然読み手不在となる。そして「詩人のビンボー化」となる。
彼女の言葉を引用すれば「純粋な表現=大衆に媚びない=営利主義排除=ビンボーブラボー」となる。「ビンボーなランボー」→「地獄の季節」・・・・・・。
近代化あるいは大衆化において、経済社会が自由になったことは庶民生活にとっては幸福なことだったろう。しかし芸術全般がパトロンを失い、ポピュラリティーを求められるという局面を迎える。つまるところ、近代からの詩人の宿命なのであって、「ゼロ年代」のみの問題ではないだろうと思う。
《おまけ》
この雑誌の最終ページには「ネトゲ廃人・芦崎治」の著書の宣伝がありました。象徴的な若者世界の両極を見た思いがします。「ネトゲ廃人」に未来はあるのだろうか?彼らを待っているものはなにか?
4月に出された前者には、冒頭に「週間朝日編集長」の挨拶が記されています。実はこの計画はもっと以前に企画されていた。2007年3月の「週間朝日」に綴じ込みの「ブック・イン・ブック」という形で、24ページだけの「ジャーナル」があったのです。そしてその後に何故2冊の「朝日ジャーナル」復刊もどきがでたのか?それはまさに「今の日本全体が未曾有(←みぞゆう、ではないですよ!)の危機」にあるからでせう。「わかりやすさ」ばかりが求められる時代ですが、時代そのものはわかりやすい状況ではない。むしろ非常にややこしい。それには「知の復権」が待たれる。その願いが込められた2冊です。
さて、そこまでの編集長の思いは理解したものの、どこから読めばいいのやら?目次を眺めていたら、なんと「水無田気流」の名前が目に飛び込んできました。彼女は魅力的な若き女性詩人です。これは「ゼロ年代の旺盛な創作活動を行っている4人からの発信」としての特集です。「水無田気流」「丸谷裕俊」「遠藤一郎」「澤田サンダー」・・・しかしわたくしは「水無田気流」しか存じ上げない。申し訳ないことではありますが、その上彼女の文章が一番輝いている。(内2名は「談」となっているしねぇ。)
タイトルは「ビンボーブラボーの罠」。彼女の文章は期待を裏切ることはなかったが、たった1ページでは書ききれない思いだったのではないか?わたくしももっと読みたかった。残念だ。
若い詩人にとって、今日の「社会の閉塞感、不安」だけでは括りきれない思いがあるでしょう。その対極には不透明で過剰な自由と開放を合わせ持つ時間があるわけで、そこから生み出される「詩」は、視界に写るものとして存在しないわけで、当然読み手不在となる。そして「詩人のビンボー化」となる。
彼女の言葉を引用すれば「純粋な表現=大衆に媚びない=営利主義排除=ビンボーブラボー」となる。「ビンボーなランボー」→「地獄の季節」・・・・・・。
近代化あるいは大衆化において、経済社会が自由になったことは庶民生活にとっては幸福なことだったろう。しかし芸術全般がパトロンを失い、ポピュラリティーを求められるという局面を迎える。つまるところ、近代からの詩人の宿命なのであって、「ゼロ年代」のみの問題ではないだろうと思う。
《おまけ》
この雑誌の最終ページには「ネトゲ廃人・芦崎治」の著書の宣伝がありました。象徴的な若者世界の両極を見た思いがします。「ネトゲ廃人」に未来はあるのだろうか?彼らを待っているものはなにか?
水無田気流という人の議論を裏返すと、「カネモチ幼稚化の罠」とも言える気がしましたね。現代社会では、だれしも市場と無関係に生きることができなくなってしまった。その結果、文化的な幼稚化が世界的に起きているのでは? たとえば、いい年をしたオバチャン・オジチャン俳人が、「○○がわたし大好きさくらんぼ」、みたいなマーケティングで肥大化したpoorな自己をさらけ出す句を量産していますね。俳句の質の明らかな低下ででしょう。
詩人の質も低下しているのではないでしょうか。社会全体が、10年くらい精神年齢が下がっているのですから。
水無田さんの魅力は、非常に理知的に世界を見ていることです。
その上「媚び」がない。
最近詩を読む時に、奇妙に用心深くなりました。
「ちょっとした仕掛けにはだまされないぞ。」という思いです。
まあ、確かに、あまりにも軽薄な詩もありますけれど…。
その「真実」があるのか?という疑いがぬぐえないのですね。こまったなぁ。
どうも最近、いい詩に出会っていないのかも。
金子光晴が恋しい。昶さんの「野の舟」も。