#飢えるお母さん
#餓鬼 が #のさばるニッポン #人間らしい生き方ができない存在 #レム睡眠 #トラウマの欠片が動く #大丈夫ダメダァの境目 トラウマ記憶は普通の記憶と違い......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
第Ⅲ部の2章目、「夢を映し出すスクリーン」は,日常生活のいまここにキリストの光があることから、陽気で楽しい歓びの中に新しい見通しが生まれまることを教えてくれました。
今回は,p.143の、第2パラグラフから。
今朝は、p.144の13行目から。
コペルニクスに関する言葉もまた、「グルグル」ですね。フロイトさんに従って、私どもも、科学が紛れもなく示す証拠から言って、太陽中心の見方は、私欲のない世の中の見方だと見做してきました。太陽中心の見方は、人間のいる地球は、眼に見える世界でも、中心ではない、と見る見方です。こういった理解は、世の中で人間は自己中心になるのが必要不可欠であることを指さしているように見えます。しかしながら,コペルニクスが発展させた理論は,新しく、神なき世にあっても、この神なき世でも少なくとも「心から歓ぶ」場にできるという直感があったんです。(訳注:コペルニクスの主著の)『天球の回転について』 De revolutionibus orbium coelestiumで、コペルニクスは太陽に、「全ての中心の王冠」を被せて、そこから「太陽が全てに光をもたらす」としました。古代の哲学者に従って、コペルニクスは、太陽を神としたんですが、その神は、眼に見えるだけでなく、「すべてを見通す」こともできる訳ですから、宇宙を司る力があるだけではなくて、(訳注:キリストの)両手いっぱいに想いを巡らしているんです。コペルニクスが広めた、地球と太陽と月が互いに気・いのちを分け合っている、というヴィジョン(魂から自由になる時、ヴィジョンを崇高な「原風景」と呼べるやもしれません)は、地球に新しいいのちを宿すことになりました。聖職者の人達は、もちろん、コペルニクスが手に入れた宇宙の見立てを善しとしませんでしたね。ルターはコペルニクスの宇宙の見立てに対して、聖書に反すると雷を落としました。(訳注:旧約聖書のヨシュア記第10章12節で)「ヨシュアは『太陽よ、止まれ』と命令したんではないか? 命令しましたね、ですから、本当は太陽は動いていないと証明したんじゃないの? 証明しましたね」。でも、コペルニクスの宇宙の見通しの腑に落ちると、アインシュタインの言い分を思い出しますものね。アインシュタインの言い分とは、「偉大な科学者の根っこにある気分は、『礼拝、すなわち、聖書の神様のいのちと一体になり、生かされている実感が漲るのに似ていますし、大好きな人を想う気持ちと似ています』」です。もちろん、時に適った中で、肝心なのは、コペルニクスの中心にあるテーゼは、予言の様に広まっただけではなく、天文学的な証拠から生じたいのちが働く場ではいのちがグルグル一巡することに、新鮮な実感のあるヴィジョンを与えました。いのちが働く場ではいのちがグルグル一巡することに、新鮮な実感のあるヴィジョンを与えることによって、新しい人が育つことには、驚きと感激する元、自分も目を離さないし決して見捨てられずに見守られてもいる元がありますよ、とコペルニクスは言ったんです。驚きと感激する元、自分も目を離さないし決して見捨てられずに見守られてもいる元こそ,人生捨てたもんじゃないと希望を生きる習慣の岩盤ではないですか?と示しているんです。
大切な真実。
コロナ後のニッポンの大切な真実と言えば、ヌミノースを生きる人が道しるべに成ることでしょう。見守られている不思議、聖書の神様のいのちがグルグル一巡する不思議があるからです。