信頼があるほど、笑いがある?今晩は、「笑い」について、考えます。 日本で笑いと言ったら、吉本興業や松竹新喜劇の藤山寛美さんの笑いを思い出す人が多いかもしれませんね。テレビでは、その手の笑いが多......
今朝も、Childhood and Society 『子どもの頃と社会』の至言は、一回お休みして、上のコラムにある リチャード・コート著 木鎌安雄訳の『笑いの神学』(聖母文庫)、Cote, Richard G. Holy Mirth: A Theoty of Laughter, The Alpine Press, 1986から。P.56の後半の至言から。
笑う神というシンボルがあれば、人生には、日ごろ思っている以上に、希望が満ち満ちているという事実に私どもは気付くことができますし、また、人が生きている現状が、どんなに惨めであっても、その現状の中に、救いと究極的な解放の約束があるという事実に私どもは気付くことができます。笑う神というシンボルがあれば、私どもは、日々の暮らしの中に、欠点や根深い矛盾があっても、その欠点や深い矛盾に対して意識して目を注ぎ、全体の視座から見たら、(已むに已まれぬことかもね、という)福音的な視座に立つことができます。笑う神というシンボルのお陰て、私どもは、神と幼子に典型的な思い煩いのないスピリットをイキイキと身に着けることができますし、それは、一見、どうにもならない人生の試練に直面しても、「なんとかなる」と陽気で楽観的な生き方をイキイキと生きることができます。そうすれば、神が「空の鳥」や「野の花」を見なさいとおっしゃった意味が分かりますね。なぜ、神が、弱さこそが力のひな形となり、バカが神の叡智のお手本になるのですよ、と微笑みを湛えて仰せなのかもわかります(第1コリント、第7章17~31節)。
あなたも、笑う神を信頼してはいかがですか?
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