所用があって亀有へ行ったので、所用を終えたあと、近辺を歩いてみました。
亀有駅北口から出発します。
亀有駅北口には「こち亀」の両津勘吉像が建っていました。南口にもあるみたいです。
常磐線に沿って松戸方向へ歩き、環七通りを越えると、曹洞宗の見性寺があります。亀有駅からは五分もかかりませんでした。
境内の宝篋塔。
左に建つ説明板には屋蓋を宝形屋根形としている点で、中世以降普及した宝篋印塔とは異なっているゆえに、区内では貴重なもの、と記されていますが、インターネットで調べた限りでは、どこがどのように違っていて貴重なのか、私にはよくわかりません。
我が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝して、次の西光院に向かいます。途中で葛飾区と足立区の区境を越して行きます。
約九分で西光院(新義真言宗)に到着。江戸時代初期の創建。
西光院の手前にあった長門鎮守八幡神社。創建年代は不詳。祭神は誉田別尊。
長門鎮守八幡神社から五分足らずで曹洞宗・正法庵(しょうぼうあん)に着きました。元禄年間(1688年-1704年)の創建。
ここも我が宗派のお寺だったのに、ほかに気を取られるようなことがあったのかどうか、歴住の墓への参拝を忘れてしまいました。
正法庵から五分足らずで善應寺(浄土宗)に到着。
はじめに念仏堂のようなものがあったのを、天正年間(1573年-92年)に廓誉理順という僧侶が一寺となした、と伝えられています。
次の恵明寺は足立区から再び葛飾区に戻り、常磐線のガードをくぐって南側に出なければなりません。善應寺からは十分かかりました。
この寺の過去帳の奥書および亀有村旧名主矢沢家文書には、弘安元年(1278年)の開山とある一方、「新編武蔵風土記稿」にはその二年前、建治二年(1276年)の起立とあります。近年まで御成門という萱葺きの門が残っていたということですが、いまはありません。
恵明寺の門前はかつて参道だったのだろうという名残があります。温かそうな陽を浴びて昼寝をしていた犬殿。
恵明寺から五分で真言宗豊山派・慈眼寺。
「新編武蔵風土記稿」によれば、天正四年(1576年)開山。過去数回にわたる洪水に見舞われて、記録散逸。よってその他の由緒は不明。
これはなんのポスターなのかよくわかりませんが、とにもかくにも亀有というところは到るところに両津勘吉がいる街です。
恵明寺から三分で香念寺。浄誉(寛永二十一年=1644年寂)が開山、亀有村の市郎左衛門が開基となって創建したと伝えられています。
石蕗(ツワブキ)の花叢がありました。
臨済宗円覚寺派の祥雲寺。
慈眼寺とは道一本挟んで隣り合わせにあったのですが、私は画像では左にある道を歩いており、この堂宇を目に入れるのには行き過ぎて振り返らねばならなかったので、一度は素通りしてしまいました。周辺をグルグル巡ったあと、やっと見つけました。
宝持院。
祥雲寺を捜し当てるのに手間取ったので、少し廻り道をしました。廻り道をしていなければ、香念寺から八分ほどで歩ける距離でした。
延命寺。嘉応元年(1169年)開山の新義真言宗寺院。宝持院から五分足らず。
本尊は地蔵菩薩ですが、鎌倉時代後期の武将・青砥藤綱(生没年不詳)の守り本尊であった摩怛梨天(またりてん)を祀っていることで、「青砥のやくじん様」として有名。
青砥藤綱という人に関しては次のような逸話が残されています。
北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が鶴岡八幡宮に参拝した夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉という位を授け、引付衆とした。引付衆とは鎌倉幕府初期は有力御家人が任じられるという。御家人ではなかった藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な答えに大いに感じ入ったということです。
二十一仏庚申塔。
延命寺を出て、中川を渡ります。〈つづく〉
➡この日、歩いたところ。亀有駅から延命寺まで。