桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

亀有を歩く(2)

2011年11月17日 17時07分28秒 | 寺社散策

 亀有を歩く〈つづき〉です。



 中川大橋(橋長134・4メートル)で中川を渡ります。



 延命寺から四分ほどで日枝神社前を通りかかりました。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。永禄二年(1559年)ごろの創建と伝えられています。



 日枝神社から三分で西念寺(浄土宗)。文安五年(1448年)、浄円という僧侶が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532年)、覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられています。



 四分で浄土宗・浄心寺。慶長十九年(1619年)、廓蓮社然誉潮呑和尚が開山、明呑が開基となって創建。江戸時代には両国回向院(墨田区)、小塚原回向院(荒川区)の住持の隠居寺であったということです。



 浄心寺から三分で差しかかったのは馬頭観音堂です。傍らに建てられた故事来歴の碑には、このあたりはかつての馬捨場で、死んだ牛馬を供養するための馬頭観音像を安置する馬頭観音堂が正徳元年(1711年)に建立された、という旨の碑文が刻まれていました。

 このあたりは葛飾区新宿(にいじゅく)です。「宿」の字が残っているように、江戸時代は水戸街道の宿場町であり、馬の乗継場でもあり、成田街道の分岐点でもありました。
 明治になって鉄道敷設の時代を迎えると、地域の人々は数々の利権を巡って駅の設置に反対。結果、街は繁栄から取り残されることになりますが、それは吉であったか、凶であったか。こういう話はいろんなところにあります。

 

 馬頭観音堂から五分で浄土宗・慶圓寺。
 伝えられるところによると、近在の五郎右衛門という農夫が畑から阿弥陀像を掘り出したので、草庵を建てて、像を安置することになった。そして夫婦揃って下総国飯沼(現・茨城県常総市)弘経寺の南誉雪念(のちに増上寺二十世)の下で出家し、五郎右衛門は林誉慶円と号し、妻は円誉秀清となって草庵に住むことになったが、後年、師の南誉に乞うて一寺となしたので、慶円寺と号することになったということです。
 画像下は南誉雪念の碑。



 慶圓寺から五分で立増寺(日蓮宗)。永正年間(1504年-21年)の創建。



 真言宗豊山派の宝蓮寺。立増寺からはすぐ近くに伽藍が見えるのですが、まっすぐ通じる道がないので、100メートル以上歩かなければなりませんでした。
 元文四年(1739年)の「正福寺惣門末起立録」には、創建は天文元年(1532年)、開基は栄源としていますが、「新編武蔵風土記稿」では「天文元年、栄源ト云僧、中興セリ。是今ノ法流ノ祖ナリ」といっているので、天文元年以前に寺があったということになります。ただ本尊は両方とも不動明王としています。「新編武蔵風土記稿」には行基作と伝わる像を安置する薬師堂があり、さらに当時の門末として、大日如来を本尊とする山王山鏡智院が存した、と記されています。現在の本尊は薬師三尊です。



 中川橋東詰にある椨(タブ)の木のモニュメント。周辺はかつては旧水戸街道・新宿の渡しがあったところです。



 説明板の右下にはかつてあった椨の木の画像があります。



 宝蓮寺から中川を渡り直し、七分ほど歩くと環七通りの交差点(亀有二丁目)に出ました。そこを右折すると、すぐに光明寺があります。真言宗豊山派の寺院で、慶長元年(1596年)の創立。天明六年(1786年)と寛政七年(1795年)の洪水で記録を失っているので、その由緒は不明ということです。



 環七通りを亀有駅に向かって行くと、光明寺から100メートルも離れていないところに亀有香取神社への入口がありました。



 ここにも両津勘吉の像がありました。神社をあとにすれば、亀有駅はすぐ近くです。

この日後半の行程です(延命寺から亀有駅まで)。