九月なかば、リンパ関係の検査を受けるために短期間入院しました。
結果は万々歳とはゆかぬまでも、非常に遅速ではあるが、佳い方向に向かっているようだ、というので、それまで四週間に一度だった通院が八週間に一度ということになりました。
通院する曜日も、担当医の勤務日が十月から火曜日に変わる(それまでは木曜日)ので、変更になりました。
変更後、二十二日が初めての通院となりました。とくに変わった症状が出てこない限り、八週間に一度のペースで通院をつづけなければならないものの、問診と薬の処方だけ、ということのようです。
湯島へ通院するようになって、春日局の菩提寺である麟祥院前を通るようになっていました。前を通るとはいっても、私が通う道は春日通りという交通量の多い道で、湯島駅を背にすると、左側にある歩道を行き来します。
麟祥院があるのは右側ですから、道路越し車越しに眺めるだけでしたが、完治したわけではなし、治る見込みも遥か先というわけですが、どうやらこれ以上悪くはならないというご託宣を受けたのと同然という気がして、気分は晴れやか。帰りに寄ってみる気になりました。
麟祥院は東洋大学発祥の地でもあります。
明治二十年(1887年)、仏教哲学者だった井上円了(1858年-1919年)が私立哲学館を創設。 哲学館大学の名称を経て、明治三十九年(1906年)、東洋大学と改称。
春日通りには、湯島天神で菊まつりが開かれている、という幟が出ていました。まつりがあるのは、私が歩いていた翌日(勤労感謝の日)まで、と出ていたので、麟祥院を出たあと、再び春日通りを渡り、社殿裏の夫婦坂を上って境内に入りました。
今年のNHKの大河ドラマ「江」にあやかった菊人形もあったらしいのですが、見る気はありませんでした。本当のことをいうと、近道をするつもりで境内を横切るのが目的であったので、菊まつりには関わりがなかったのです。
気分の晴れやかついでに、東京都の区分地図を鞄に忍ばせていたこともあり、かねてから考えていた池之端界隈のお寺巡りをするか、という気になったのです。その手始めに湯島天神男坂下にある心城院に行くことにして、天神様の境内を横切ったのです。
湯島天神の男坂。
長いこと高い石段があるような街で暮らすことがなかったので、いつからとは不分明ながら、高所恐怖症になっていたことに気づきませんでした。
さほど高いとは思えぬこの石段でも、私は上り下りすることができません。画像右手・石段下に降りてくる女坂を利用します。
男坂の下、坂に向かって右手にある天台宗心城院。
浄土真宗大谷派の寺院・福成寺までは、心城院から再び春日通りを横断して350メートルほどです。
教證寺は福成寺の隣。50メートルも離れていません。ここも浄土真宗大谷派の寺院。
岩崎庭園前を通過。
この坂は無縁坂。この日、私が歩いていたあたりは台東区と文京区が入り組んだ土地です。坂の左側(旧岩崎庭園)は台東区池之端、右側は文京区湯島です。
グレープのヒット曲の題名でもあります。グレープ解散後、さだまさし自身もカバーし、ほかにも森昌子、水森かおりなどがカバーしていますが、私のイチ押しは中森明菜バージョン。
無縁坂を100メートルばかり上ると、右手に浄土宗・講安寺があります。慶長十一年(1606年)、湯島天神下に創建され、元和二年(1616年)に現在地に移転しました。
本堂は外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りです。江戸幕府十一代将軍・家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方は、明治五年(年)、七十七歳の生涯を終えるまで講安寺に住んでいたそうです。
浄土宗稱仰院。連絡は根岸にある安楽寺へ、という貼り紙があるので、無住のようでした。
先の講安寺とこの稱仰院があるのは台東区池之端ではなく、文京区湯島。
宗賢寺(上)、覚性寺(下)。いずれも日蓮宗の寺院です。
数ある祖師方の中で、日蓮さんだけは好きになれず、興味も懐けぬ私は境内には入らず、参拝もせず、失敬します。宗賢寺は元和五年(1619年)の創建。覚性寺は寛永八年(1631年)。
臨済宗妙心寺派・東淵寺寛永七年(1630年)の創建。
大正寺。ここも日蓮宗の寺ですが、お寺に参るのではなく、お墓参りをするのだから、と屁理屈をつけて中に入らせてもらいます。草庵として創建されたのは慶長九年(1604年)。
誰のお墓参りかというと、幕末期の幕府勘定奉行だった川路聖謨(としあきら=1801年-68年)さんと妻・佐登子さんのお墓です。
臨済宗妙心寺派正慶寺。寛永七年(1630年)の創建。
正慶寺にある北村季吟(1625年-1705年)の墓。
季吟は近江国(現在の滋賀県野洲市)の生まれ。
〈池之端散策(2)につづく〉