埼玉県の川口市を散策しました。
武蔵野線で東川口まで行き、埼玉高速鉄道に乗り換えて鳩ヶ谷駅で降りました。
鳩ヶ谷駅前から草加駅行のバスに乗り、辰井公園という停留所で下車しました。流れているのは見沼代用水東縁です。
最初の目的地は曹洞宗の圓通寺です。参道を上ります。
一風変わった山門。
「新編武蔵風土記稿」には「開山の僧を萬照高國禅師英峻と云、この僧は永平寺廿六世の住職にして、初め本郷村傑傅寺を開き後當寺を開けり、延寶二年四月十二日寂す、開基は金子左太郎と云ものにて村民藤左衛門が先祖なりと云、本尊観音を安ず」と記されています。
私が宗派のお寺なので、歴住の墓所に参拝します。
圓通寺の次に目指すのは「新編武蔵風土記稿」によれば、圓通寺の前に開かれたという傑伝寺です。
文化放送の川口送信所がありました。
圓通寺から二十分近く歩いて、傑伝寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」の記述は「禅宗曹洞派、越前国永平寺末、天桂山理應院と號す、本尊釈迦を置。當寺は寛文四年(1664年)の草創にして、開山英峻萬照は本寺二十六世の住持にて、高國禅師と云、延寶二年四月十二日化す、開基は酒井讃岐守忠勝なりと云、されど此人寛文二年七月十二日卒したれば、草創の年代齟齬せり、思ふに忠勝が追福の為起立せしなるべし、法名傑傳長英と云、當寺境内は古太田道灌が築きし壘跡なりと云」
ここでも歴住の墓所に参拝。
傑傅寺から七分で寶泉寺。
境内の掲示によると、「当寺の開基は新井太郎右エ門勝行と称し清和源氏十五代の後胤江戸城主太田資長入道道灌の曾孫高公の三男源四郎資行が岩槻城内にて成長し後岩槻領内の大田新井村(現・白岡町)隠穂し姓を新井名を太郎右エ門勝行と改め初祖となる(草加市花栗現新井義春氏の祖先現在十五代目)大竹村花栗村の両村長をつとめる勝行は大竹村に堂宇を建立し自ら開基となり安行吉岡の金剛寺四世高庵永薫禅師を招請して開山とし、長久山宝泉寺と称した(天正年間今より四百二十年前) 開山金剛寺四世高庵永薫大和尚(天正十五年四月十六日卒三百二十五年前) 開基新井太郎右エ門勝行(慶長十五年六月二日卒三百八十二年前)」
ここでも歴住の墓所に参拝します。
寶泉寺から十分で東養寺。「新編武蔵風土記稿」には「新義真言宗、原村密蔵院末、護国山と號す、本尊地蔵は古境内の土中より得たる由、古色なる像なり」とあります。
再び見沼代用水東縁を渡ります。
東養寺から十分で昌福寺。
境内の掲示には「室町時代、苗運惠胤大和尚(天正四年1576年三月二十日没)による開山。山号の荷葉山の由来は、当時当所が、蓮沼田の湿地帯であったことから生まれたものである。 江戸時代は寺子屋として、地域の子弟の教育の場であったが明治初めの学制発布によって、明治六年(1873)から明治三十八年(1905)まで新郷村の小学校であった。 当時の本堂は安永五年(1776)正月十日に建設された広い本堂で、法堂としてばかりではなく、学校教育の教室としての地域の重要な施設でもあった」と記されています。
ここでも歴住の墓所に参拝。
昌福寺と普門寺は隣り合わせでした。
「新編武蔵風土記稿」には「熊野山(ゆやさん)と號す、新義真言宗、原村密蔵院末、本尊薬師を安ぜり」とありますが、本尊は大日如来です。
観音堂。聖観世音菩薩を祀っています。武蔵国三十三観音札所の第二十四番札所。「新編武蔵風土記稿」には菩薩像は行基の作と記されています。
帰りは川口市役所の新郷支所から鳩ヶ谷駅まで国際興業バスに乗りました。
→この日歩いたところ。
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