一昨日からすでに梅雨明けを思わせるような夏空つづきでしたが、今日、やっと梅雨明け。
一昨日木曜日は出撃するのが早かったので、朝の散歩は取り止め。昨朝はまた散歩に出て、焼き立てパンの店へ行きました。
朝食はベーコンエッグサンドにするつもりで、卵もベーコンもあるので、買ったのは食パン一斤だけ。
コーヒーだけもらって、買い食いはしませんでした。右手前に置いてあるのは、いつも持ち歩くことを心がけているところの、タッパーウェアに詰めたキャッティ(ドライキャットフード)です。
鐘の下公園に寄りましたが、於京(おけい)その他の姿はなし。
缶詰の空き缶が置いてあるということは、私以外にも面倒を見ようとする人がいるということで、そこそこに食べているんだなと思うと安堵します。
木曜日、出撃が早かったのは東京・湯島へ通院の日だったからです。
血液検査のための採血があったので、新松戸発七時四分というラッシュアワーの電車に乗りました。病院着は七時五十五分。
採血を終えて、結果が出るまで一時間待ったあと、結果の報告を聞くとともに診察です。血液もリンパの流れも、結果は可もなし不可もなし。リンパのほうは悪くもなっていない代わり、特段の改善もありません。
ひところは非常に調子が悪かったが、最近はそうでもなくなったというと、同じ薬の処方をもう少しつづけて様子を見ましょう、ということになりました。で、また手提げの紙袋にいっぱいになるほどの薬をもらうこととなりました。
薬局で待っている間、四週間前に偶然会ったYさんの姿を捜しましたが、きていないみたいでした。前回と較べると私の時間が一時間早いので、時間のズレがあるのかも……。よほどYさんの正体を訊こうかと思い、喉まで出かかったのですが、結局口に出すことはせず、後ろ髪を引かれるような思いで病院をあとにしました。
本郷から湯島へ切通坂を下っているとき、ふと「遠くへ行きたい」という歌が口をついて出ました。心の中でも、どこか遠くへ行きたいと思いました。
ほんの少し前は、わずか十分といえど電車の冷房に当たると偏頭痛が出たので、朝も警戒しながら電車に乗ってきたのですが、ラッシュアワーで乗客が多く、冷房の効き方が悪かったものか、三十分以上乗っていたのに、偏頭痛の出ることはありませんでした。
長い時間電車に乗っても大丈夫な身体に戻ってきたようです。
ただ、突然思いついたことだし、薬も抱えているので、まさか一泊二泊するようなところへは行けないが、日帰りできる範囲で、ちょっと遠いところへ行ってみようと思いました。
降りるはずの東京メトロ・湯島駅への階段は降りず、横断歩道を渡って、不忍池を横目に見ながら上野駅へ……。
東北線、高崎線、常磐線のどれでもいいから先に出る電車に乗ろうと決めて、改札を通り抜けました。
上野駅に着いたのは十時十五分。電光掲示の発車時刻表を見ると二分後に発車する勝田行があったので、行く先は常磐線沿線と決定。
まだどこへ行くとも決めていません。偶然常磐線に乗ることになったので、決まらなければ松戸で降りて緩行線に乗り換え、おとなしく家に帰ってもいい。
松戸が近くなるころ、携帯電話でインターネットに接続しました。携帯電話ではインターネットをやったことがないので、小さな画面と手数の多さに閉口しながらも、常磐線沿線の都市名を思い出しながら、そういえば石岡という町があったな、と思いついて、石岡市観光協会のホームページに到達しました。
石岡という名が閃いたのは、そのときはお寺の名前が思い出せなかったのですが、「関東の清水寺」といわれる、西光院というお寺があって、機会があれば行ってみたいと思っていたからです。
アリャリャと思うこともありました。石岡には国府跡があり、国分寺跡も国分尼寺跡もあるのです。つまり、いつごろまでかはわからないが、かつて常陸の国の中心は水戸ではなく、石岡だったということです。
石岡着は十一時五十分。途中、特急列車の通過待ちが二度あって、一時間半かかりました。電車は取手でかなり空き、土浦を過ぎると乗客はまばらという状態になって、冷房もかなり効いていたと思いますが、幸いにして偏頭痛は出ませんでした。
駅前に観光案内所があったので、パンフレット類を集めました。私が知らなかっただけかもしれませんが、観光には結構力を入れている市です。
ただ、残念なことに、行きたいと思った西光院は石岡市内には違いないけれども、最寄りのバス停から四十分も歩かなければならないこと、バス便も一日数本しかなく、次の発車は一時間以上もあと、ということだったので、この日は諦めるしかなかったことです。
代わりに、国府や国分寺のあったことが意外だったので、駅から近いということもあり、まず国分寺跡へ向かいました。
徒歩約十分で国分寺跡に着きました。現在は玄関口になっているところが中門跡です。
聖武天皇が国ごとに国分寺を建てるよう詔を発したのは天平十三年(741年)のことですが、常陸国分寺の建立は天平勝宝四年(752年)です。
創建当時、平城京から下る東海道の終点は江戸ではなく、この常陸の国。終点の地に相応しく、非常に大きな伽藍であったことが判明しています。
国分寺薬師堂と薬師堂後ろにある金堂跡。
茅葺きの旧千手院山門と国分寺本堂。
千手院は弘仁九年(818年)の開基。大正八年に現在の瑠璃光山国分寺と合併して廃寺となり、山門だけが遺されました。
国分寺跡から徒歩七分。細い路地を折れたところに十一面観音がおわしました。
格子の扉から中を覗くと、格子の厨子があり、その中におわすので、よく見えません。鎌倉時代の作と伝えられ、身丈は141センチ。頭部には十の化仏があるのですが、すべて失われているそうです。
このあと、若宮八幡宮、青屋神社と巡って、石岡小学校へ。
市街地の観光スポット巡りには、常陸大掾(だいじょう)氏歴史コース(所要七十分)と健康ウォーキングコース(同九十分)という二つのお勧めコースがあって、ポイントごとに案内標識が行き届いているので、行き過ぎたり見つけられなかったりということはありません。非常に懇切丁寧です。
ちなみに大掾氏とは平安時代から戦国時代までの七百年間、この地に君臨した豪族です。祖は平国香。平將門に討たれた人です。
常陸国府があったのは現在の石岡小学校の敷地です。
校庭内に石岡市民俗資料館があり、その横に常陸国府跡、風間阿弥陀(室町時代)、箱式石棺(平安時代)、府中城土塁(室町時代)、陣屋門(江戸時代)と史跡が並んでいます。
旧国府のすぐ隣。總社宮参道入口に建つ煉瓦造りの常夜灯(左)と静まり返った参道。
茅葺きの随神門と日本武尊が東征のおり、ここに腰かけて休んだという腰掛石(右)。
總社宮拝殿。
總社宮参道をあとにして七分ほどで天台宗東耀寺の山門に着きました。創建は養老五年(721年)と古い。創建当初は法相宗。
東耀寺を出るとすぐ浄土宗照光寺の墓域に繋がっています。照光寺は応永七年(1374年)の開創。
お盆が近いからでしょうか。東耀寺も照光寺も小型クレーンを積んだ石屋さんのトラックが入って本堂を撮影しにくくしていました。石岡であるがゆえに石屋も多いのかと駄洒落を真剣に考えたり……。
照光寺の常陸府中藩主・松平家墓所。
常陸府中藩(二万石)は初代水戸藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆に始まります。当初墓所は江戸上屋敷に近い小石川の宗慶寺にありましたが、大正十五年にこの境内に移されたものです。
↓今回歩いたところです。
http://chizuz.com/map/map71911.html
このあと、市の中心部に数多く遺る昭和初期のレトロな建物を巡りましたが、あまりにも長くなってしまうので、別項を立てることにします。〈つづく〉
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