桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

立花誾千代祥月命日

2010年11月22日 22時53分10秒 | 歴史

 今日二十二日は旧暦の十月十七日。立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)の祥月命日に当たります。

 誾千代が亡くなったのは現在の熊本県長洲町です。いまから四百八年前の慶長七年(1602年)の今日でした。
 菩提寺は福岡県柳川(当時は柳河)市にある良清寺。
 元和七年(1621年)、夫の立花宗茂が誾千代を弔うために建立したお寺で、寺の名は誾千代の院号「光照院殿泉誉良清大禅定尼」にちなんでつけられました。
 とはいえ、寺を建立したのが死後十九年も経ってから、というのはやっぱりおかしい。
 やっぱり、というのは、誾千代と宗茂は夫婦仲が悪かったと伝えられ、八年も別居生活を送っていたからです。

 宗茂は入り婿です。もともと武将としての素質はあったのでしょうが、誾千代と結婚せず、立花という看板を背負うことがなければ、その素質が開花することもなかったかもしれない。
 仲の良い夫婦ではなかったけれども、いま、自分が大名としてあることができるのも、誾千代と夫婦(めおと)になったおかげ。
 年をふるにつれ、やはり菩提寺を建てなくては……、と思い到ったのが十九年後ということか、と下司の勘ぐりをしていたら、寺を建てる前年・元和六年まで、宗茂は柳河から遠く離れた陸奥棚倉(いまの福島県)にいたということを知りました。

 その年、関ヶ原の戦いで敗れた敵将・石田三成が潜んでいるところを見つけ出し、捕らえたという功績で、三河岡崎十万石から筑後柳河三十二万石の太守となっていた田中吉政の後継・忠政が死に、嫡子がいなかったことからお家は断絶。三十二万石は分解されて、宗茂が柳河に返り咲くことになったのです。

 故地ともいえる柳河に帰って、早速夫人の霊を弔う寺を建てた、ということになりますが、柳河に帰れるということがわかっていたはずはない。それまではどうしていたのだろうと思うと、死後十九年というのが引っかかってしまいます。



 朝、降り出した雨が昼前に熄んだので、東漸寺へ行ってきました。
 誾千代の菩提寺・良清寺は浄土宗のお寺です。いささか牽強付会が過ぎるかもしれませんが、柳川まではとても行けないので、同じ宗派のお寺へ行って冥福を祈ろうと考えたわけです。

 


 東漸寺でもライトアップをしているようです。
 本土寺と違ってこちらは参拝料は取りません。今夜は雨という予報だったので、明日勤労感謝の日の夜に改めて……。

 


 観音堂は前扉だけが開いていました。聖観音が祀られています。画像でははっきりしませんが、坐像でした。

 誾千代と中庵宗厳こと大友義統のことは二年前のいまごろ、ブログに取り上げていました。しかし、九州から遙か遠く離れた地で暮らしていると、史料を手に入れるのもままなりません。新しくわかったことが何もないので、ブログも結末がついたのかつかないのか、宙ぶらりんになったまま、いつの間にか二年も経過してしまいました。

 ただ、新しく知った話があります。私の感覚では、どうも史実とは思えないので、「わかった」とは記さず、「知った」と書くのですが……。



 熊本県長洲町には、その形状から「ぼたもちさん」と呼ばれる誾千代の墓があるそうです。
 長洲町は宗茂と別居したあと、誾千代が住んで、その生涯を終えた地ですが、史実とは思えないというのはこの墓のことではなく、伝えられている次のような話です。

 誾千代が亡くなる前年、いまは長洲町の一部になっている腹赤村の庄屋に、阿弥陀寺という寺の住持から「気のふれた女が現われた」という報告が届いたそうです。
 庄屋が見に行ったところ、確かに狂人に違いなく、いろいろ訊ねてみても、柳河からきたということしかわからないので、阿弥陀寺で預かってもらうことになりました。
 翌年の十月十七日、阿弥陀寺から、柳河からきた女が寺の前にある古井戸に身を投げて死んだ、と連絡がありました。出向いた庄屋は阿弥陀寺の住持や村の者と一緒に女の亡骸(なきがら)を古井戸に葬ったというのです。

 いうまでもなく、この柳河からきた女というのが誾千代で、身を投げた古井戸に建てられた墓が「ぼたもちさん」の始まりであるという話です。

 ふーむ、と思いますが、誾千代が亡くなった慶長七年という年―。
 その二年前の関ヶ原の戦いで西軍に与した宗茂は浪人中です。誾千代の内証が豊かだったとは考えられません。しかし、落ちぶれていたとはいえ、かつての領主夫人です。気がふれていなかったと断言できるものではありませんが、いくら気がふれていたとしても、侍女の一人や二人はいたはずです。独りで歩き回るとは考えられません。
 別居したとされる年には二つの説がありますが、文禄四年(1594年)説と慶長四年(1599年)説ですから、亡くなる前年、突然、しかも気がふれて、単身で現われる、ということはまずないのではないかと思われます。

 宙ぶらりんになっているといえば、京都東山にある清閑寺(せいがんじ)のブログも(1)を書いたあと、〈つづき〉が書けず、こちらもいつの間にか一年が経ってしまいました。
 進まなかった原因は平清盛に疎まれた小督局(こごうのつぼね)の結末を、どのようにつけたらよいか、と思いあぐねてしまったからです。

 結末はまだ思いつきません。
 小督と誾千代とでは時代も違うし、両者の間には関係もまったくありません。結末とはなりませんが、九州ということで思い出したことがあります。
 小督は京都で亡くなったとされていて、墓があるのは清閑寺境内、あるいはかつて清閑寺境内だった高倉天皇御陵、はたまた隠れ棲んでいた嵯峨野、と諸説あるのですが、九州で亡くなったという言い伝えもあることです。



 なにゆえに九州かというと、小督は清盛を懼れて嵯峨野に隠れていたのですが、身の危険を感じて、太宰府にいた親戚を頼って落ち延びたというのです。
 しかし、無事九州に渡ったのに、慣れぬ長旅の疲れと心労が祟って、現在の福岡県田川市で亡くなってしまった、という伝承です。
 市内にある成導寺という寺に逗留していたときに息を引き取ったので、墓だといわれる、このような七重の供養塔が建てられたのです。

※ぼたもちさんと小督の供養塔の画像はそれぞれ長洲町役場と田川商工会議所のホームページから拝借しました。


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