桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

三月は二度の通院

2011年04月01日 14時02分11秒 | つぶやき

 昨日三十一日は三月二度目の通院日。一か月一度の通院と理解しているのですが、実際は二十八日ごとなのですから、月に二度通院、ということもあり得る。不思議でもなんでもないことなれど……。
 また血液検査の数値が思わしくありませんでした。鉄剤の注射を打ってもらい、鉄分増量の薬をもらって、一週間後、再度検査です。

 先週から今週にかけて、少し張り切り過ぎたことが背景にあるのかもしれません。
 物臭な私としては珍しく頻繁にブログを更新したり、一日必ず一万歩、と心掛けているので、散策から帰ってき
てノルマに達していない日はもう一度出かけたりと、自分ではよかれと思ってやったことが裏目に出たのかも……。

 しかし、つらつら考えてみると、私にとって一番重大事であったのかと思い当たるのは、通院の前日、部屋の隅、陽の当たらない場所に置いていたパソコン机を窓際に移したことです。
 畳の部屋なのでウッドカーペットを布いて、その上に机を置き、デスクトップパソコンを置いています。それを1メートル動かすかどうかなのですが、ウッドカーペットを引っ張るのは、機器の接続ケーブルをすべて外した上、机の上のものを全部下ろし、机をどけてからです。引っ張り終えたら机を戻して、機器の接続ケーブルを繋ぎ直すとうことになるので、かなり大がかりではあります。

 正月を過ぎたころから窓際に移動させたい、と思っていました。今冬初めて経験したことですが、寒い日はもちろん、暖かいと感じる日でも、一日じゅう肩口と首の周辺が薄ら寒く、手の指先に到っては氷のように冷たいからでした。
 初めて棲んだ家なので、知らなかったのは当たり前ですが、冬の間は陽当たりがよく、部屋の中2メートル近くも陽が射し込むのです。
 パソコンに向かっていると、もう少しで足許、というところまで射し込みます。窓際に移せば、全身に日光を浴びることができる。よっしゃ! 移動、移動、と思ったのですが、寒いものだから、肝心の身体が動かない。
 明日天気がよければ、明後日天気がよければ……と考えているうちに、物臭太郎の家ではずんずん日が経ってしまいました。
 日が経つうちに、太陽は高くなり、いつの間にか部屋には射し込まなくなりました。しかし、従来どおりの場所に置かれたパソコンの前に坐っていると、寒い日でも、窓際に移って腰を下ろしてみれば、やっぱり暖かい。よっしゃ! と一大決心を固めて手を着けることにしました。
 ところが……。

 散策で一万歩歩くと、さすがに疲れはするものの、ヨタヨタするのは脚だけで、心臓が苦しくなったり、ほかに異常を感じるようなことはありません。脚の疲れは家に帰れば、やがて治まります。
 近場ばかりですから、毎度変わり映えのしないような景色の中の散策でも、猫のうさ伎(うさぎ)や小春に会ったり、これまで気づかなかったものを見つけたりするのは、微少なことながらも心には刺激になり、家に閉じ籠もっていれば、恐らくなって行くであろう気鬱から私を救い出してくれます。

 一方、パソコンの移動では、重いものといっても、パソコン本体とモニタ、プリンタ、それに机ぐらいのものです。机の下に置いてある本箱はかなり重いけれども、キャスターがついているので、動かすのは力仕事ともいえぬほどの仕事です。それに、それぞれ移動させなければならぬといっても、せいぜい2メートルがいいところ。
 ところが、ウッドカーペットの上のものをちょいと脇に運んで、ズルッと引っ張り終わったころから、妙に身体がだるいのを覚え、冷や汗だか脂汗だかわからない汗を浮かべるようになりました。うっかり滑らせるといけないと考えて、イボイボのついた軍手をしていても、手はかじかんだままだというのに、頭だけが熱い感じです。

 どう考えても、一万歩歩く以上に過度に身体を動かしているという気はしません。なんだろう、妙だな、と考えているうちに、すっかり疲れてしまって、できることならすべてやめてしまいたい心境になってしまいました。
 しかしそのままでは、疲れたといって横になる場所はおろか、足の踏み場すらない状態ですから、たいして動いてもいないのに、ゼーゼーハーハーと荒い息をつきながら、ときどき休みつつ(というより休む時間のほうが長い)、なんとか移動を完了しました。九時ごろから始めたのに、昼までかかってしまいました。

 検査の数値がよくなかったからといって、体調が悪いわけではなかったのです。
 昨日も暖かかったので、東京・湯島へ通院の帰りは上野公園へ桜の様子を見に行こうかと思いましたが、気にしない気にしないと思いながらも、やはり検査結果のよくなかったことが陰を落としたものか、いつしか気を鬱ぐ緞帳のようなものが降りていて、湯島の駅が見えてくると、上野公園へ行くのはや~めたと簡単に諦めて、すんなりと地下鉄の階段を降りてしまったのでした。

 湯島から北小金に戻る電車の中で考えることがありました。
 電車は北千住を過ぎると地上に出ます。窓の外は春の陽光に溢れていて、ことに荒川、江戸川を渡るときには川面がキラキラと輝いて、目には眩いばかりです。
 流れて行く車窓の景色を眺めながら、なぜだか、フーッと溜め息。

 人によって天命は異なり、私が何歳まで生きるかわからないが、血液検査の結果一つをとってみても、とくになんでもない日と昨日のような日がある。
 これからはゆっくりした周期で、結果が思わしくない、という日のくるのが次第に早くなるのであろう。
 悪くなって行くというのは結果であって、実際はよくなろうというスピードが追いつかなくなって行くということなのであろう。
 それが老いというものであり、死に向かうということなのであろう。

 どこにも行かなかった代わりに、富士川べりを散歩して帰ろうと思いました。

 


 蒲公英(タンポポ)と芝桜。富士川べりで。
 いつもならピントが合わないと、つい苛々してしまうことが多いのですが、この日はどっしりと腰を下ろして、カメラと被写体の距離を少しずつ変えながら、それぞれ10カットぐらいずつカメラに収めました。

 家に帰ってみたら、案の定使えるのはそれぞれ一枚ずつ。たった十分の一かよォ、とは思わず、一枚でも使えたことがありがたい、と極力考えることに……。しかし、依然として自然とそのようには考えられる域には達していない。
 役に立たないので、ぶん投げて棄ててやろうか思ったあと、マニュアルを読んでみたら、ないと思っていた手動のピント合わせ機能がちゃんとありました。しかし、直射日光の許だとピントの合わないことがある、とちゃっかりエクスキューズされていました。

 マニュアルを読んだあとで撮影した我が庭のタイム(クリーピングタイム)。マニュアルを読んだあとなので、一発必中でピントが合いました。去年、花が終わったあとに手に入れたものなので、初めての花です。



 三年目の小手毬(コデマリ)。
 今年も小さな蕾をつけました。ピントを合わせたい被写体が小さいせいか、マニュアルを読んだあとなのに、何度シャッターを押しても、あとピン。わざと遠く離れて撮ったものをパソコン内で拡大しました。




 桔梗殿の芽はやっと1センチ5ミリほど。

 我が地方では三月三十日から日の入りが六時台となりました。
 去年の曼珠沙華と同じように、片栗(カタクリ)も遅い。桜も遅い。我が庭の桔梗殿が芽を出したのも遅い。何もかも遅いのに、いつの日か一年の辻褄合わせをしなければならないのだから、今年の夏は涼しめになるのでしょうか。


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