打越通信

日記ふういろいろ

緊急入院

2014-12-30 17:59:06 | 日記ふう
あれからしばらくは良かったんだけど、嘔吐と下痢が再びやってきた。
3,4日間何も食べても嘔吐するし、水を飲んでも嘔吐という日が続いたのだ。
妻からは病院に行こうと何度も言われたが、怖くて拒んでいた。
妻と娘が買い物で家を留守にしていた時、ひょこっと息子が遊びに来た。
私の顔を見るなり
「おとう!顔色悪いし病院に行こう!」
とビックリした様子で言い出した。
息子に私のバックの中から薬を探してもらい、ネットで薬を調べて精神安定剤を見つけて服用した。
ソファーから立ち上がるのもやっとの事で、息子がかかり付けの病院に電話する間にやっと身支度しかかりつけの病院に向った。
先生は私の顔を見るなりすぐに点滴の用意をしベットに寝かしてくれた。
「○○さん!あなたは私と同じ年なのよ。長い付き合いだから頑張ってね!」
この女医さん同じ年だったんだ。
そんなわけで紹介状とともに息子のクルマで国立病院の緊急救命センターにかけつけた。
ベットに寝かされ洋服をはぎ取られ、医師なのか看護士なのか4,5人で点滴の準備や採血、脈拍、血圧など素早い検査が始まる。
スタッフの中からは<脱水症状>がどうのこうのとささやきが聞こえる。
すぐにCTの検査、レントゲンの検査、心電図の検査が行われた。

検査の結果、主治医なるものが来て、即入院となった。
妻と娘も駆けつけて心配そうな顔で寄り添ってくれた。
緊急救命センターの病室は5名程度入院していたが、目の前のオヤジは普段はおとなしいのだが突然と大声で叫びだすし、隣のオヤジは夜中でも<ねえちゃん>などと叫び出すし、とても寝れるどころでは無かった。
若い看護士のオネーサンはとても親切に接してくれた。
看護士になってまだ一年とかいっていたが若いのに隣のくそオヤジ対してもそれなりに対応いた。
最初の一週間のうち半分は何も食えず点滴だけの日々だった。



週の後半になると少しずつ病院食も食えるようになった。
隣のオヤジは相変わらず夜中に騒ぎだす、私には睡眠薬を点滴の管から注入もしていたようだ。
救急救命センターのベットはベットに縛りつけるベルトがあり簡単に取れないようにしてある。
寝返りもうてないしこれがかなり精神的にも肉体的にも苦痛だった、が例の若い看護士が最後の3日間だけは私のベルトを外してくれた。



救急救命センターの病室を出て一般病棟へ移された。
妻とも話し合い保険に2つ加入していたので個室を選んだ。



一般病棟に移り、食事もまともに食えるようになり、まともな状態ではないが車椅子でトイレにも行けるようになった。



一般病棟で再び一週間を過ごした。
親の入院で何度も病院を経験したがまさか自分が入院(生涯初めて)するとは思っていなかったので辛かった。



この病院は救急病院なので2週間経過すると転院しなければならない。
しばらくは療養所のような所で安静にされたがいいですよ、と病院側が言う。
病院から次の病院をいくつか紹介され、妻はその病院をネットで調査し2つ程選んでくれた。



何ヶ月かかるのか分らないが手術などは必要なく、薬と規則正しい生活を送るような熊本市郊外の病院を選び、主治医の紹介状と一緒にそのままその病院の外来を受診し入院となった。
国立の入院の最後の2,3日でなんとか立ち上がり歩けるようになった。
やはり入院すると脚の筋肉が落ちるようで、最初はロボットのような歩き方しか出来なかったが退院の時にはまともに歩けるようになっていた。
新しい病院は家からもそんなに遠くないし施設も新しいようなので決めた。
入院に関して個室を希望したが空いてないので2人部屋に一人ということ、他人に絶対迷惑をかけないという項目のあった書類にはあえてサインはしなかった(あくまでも個室)。
そう、この病院には差額ベットが無いのだ。
病室にはテレビも無く唖然としたがしょうがない、そこでパソコンの持込を要望し、用途目的には<ネット使用と日記の書き込み>と書き要望書を出した。
次の日、看護士が来て要望の内容を確認し、生活に支障が出るようであれば規制するとの条件で許可が出た。
早速パソコンを2台持ってきてもらいワンセグチューナーを息子に買ってくれるように頼んだ。
やはりDVDでのインストールが必要だったので一台のパソコンにインストールして動作を確認し、もう一台(DVDドライブなし)にはDVD付きのパソコンからUSBにコピーしそれからインストールし動作の確認をした。
娘はスマホからポケットWi-Fiルーターのレンタル先を探していた、札幌に1台見つけ、スマホから注文をしてくれた。
まあ、年末の忙しいなかそんなことがあった。