人間というものは、他の人ができる、やっていることなのに、自分が「できない」とストレスを感じたり、不安を感じたり、悩んだりすることが多々あります。多々、というよりもほとんどそうと言ってもよいでしょうか。
そのような考え方はしないほうがよいです。人は人。人から見たら自分もうらやましがられるようなことはきっとあります。比べること自体に何の意味があるでしょうか。
具体例をあげます。私は博士1年のときになって、JCIの年次論文集に論文を投稿したことがありませんでした。もちろん、それまでも研究はしていましたので、査読のある論文を出したい、という気持ちは人並み以上に持っていました。特に、研究者になると決意して進学している人間にとって、査読論文を出せないというのはかなりストレスのかかる状況です。周囲の先輩や同級生や後輩も、この年次論文集クラスには当然投稿していました。
現在は、すでにこれまでに投稿した年次論文集は30を越えています。もちろん、もっとレベルの高い論文集、世界的な論文集に質の高い論文を投稿したいと思いますが、これも焦ってもダメ。しっかりとやるべきことをやっていれば、いつの日か振返ればそうなっているでしょう。今は、たくさん論文を書きたいというより、一つ一つのクオリティを自分の特色を出して高くしたい、という気持ちの方が強いです。
別の例。大学院生のときに学会の委員会の委員になっていました。JR東日本を退職して、横浜国立大学で働き始めた瞬間は、学会の委員会に所属していませんでした。30才の新米准教授とは言え、学会の小委員会に属していない期間が半年くらい続くと、「このままで大丈夫だろうか?」と不安に思っていました。また、周囲はバンバン海外出張に行っていますが、「海外出張がないけど、活動レベルが低いのではないだろうか?」と卑屈になったりしていました。
現在はどうでしょうか。もうご勘弁ください、と言いたいとまではいきませんが、10以上の委員会等で活動しており、海外出張は自分の行きたいように行っています。私の所属している委員会の多くは、ただの物見遊山の参加ではなく、相当にロードのかかるものも多々あり(その分勉強になりますが)、さすがに今の倍の委員会に入れ、と言われると私もパンクです。
こういうことを経験してくると、現在の自分の未熟な点について悩む、ということは段々と無くなり、現在自分のやるべきことに最大限の努力をしよう、という気持ちになります。他人と比較することが悪いとは思いませんが、「関心の輪」より、「影響の輪」です。
未熟である、ということは努力のしがいがある、ということであり、それでこそ人生がチャレンジングになるのだと思います。
逆に、すべてを達成し、誰から見ても「すごいなー」というレベルに至ってしまうと、そちらの方が悩ましい状況なのかもしれません。そのレベルの人は、もっともっと突き抜けて行けるほど、目標が高いようにも思いますが。トップに立った人(双葉山やイチローなど)の苦悩を聞くと、むしろ未熟で坂の上の雲を目指している方が楽しいのではないか、という気にもなります。
そのような考え方はしないほうがよいです。人は人。人から見たら自分もうらやましがられるようなことはきっとあります。比べること自体に何の意味があるでしょうか。
具体例をあげます。私は博士1年のときになって、JCIの年次論文集に論文を投稿したことがありませんでした。もちろん、それまでも研究はしていましたので、査読のある論文を出したい、という気持ちは人並み以上に持っていました。特に、研究者になると決意して進学している人間にとって、査読論文を出せないというのはかなりストレスのかかる状況です。周囲の先輩や同級生や後輩も、この年次論文集クラスには当然投稿していました。
現在は、すでにこれまでに投稿した年次論文集は30を越えています。もちろん、もっとレベルの高い論文集、世界的な論文集に質の高い論文を投稿したいと思いますが、これも焦ってもダメ。しっかりとやるべきことをやっていれば、いつの日か振返ればそうなっているでしょう。今は、たくさん論文を書きたいというより、一つ一つのクオリティを自分の特色を出して高くしたい、という気持ちの方が強いです。
別の例。大学院生のときに学会の委員会の委員になっていました。JR東日本を退職して、横浜国立大学で働き始めた瞬間は、学会の委員会に所属していませんでした。30才の新米准教授とは言え、学会の小委員会に属していない期間が半年くらい続くと、「このままで大丈夫だろうか?」と不安に思っていました。また、周囲はバンバン海外出張に行っていますが、「海外出張がないけど、活動レベルが低いのではないだろうか?」と卑屈になったりしていました。
現在はどうでしょうか。もうご勘弁ください、と言いたいとまではいきませんが、10以上の委員会等で活動しており、海外出張は自分の行きたいように行っています。私の所属している委員会の多くは、ただの物見遊山の参加ではなく、相当にロードのかかるものも多々あり(その分勉強になりますが)、さすがに今の倍の委員会に入れ、と言われると私もパンクです。
こういうことを経験してくると、現在の自分の未熟な点について悩む、ということは段々と無くなり、現在自分のやるべきことに最大限の努力をしよう、という気持ちになります。他人と比較することが悪いとは思いませんが、「関心の輪」より、「影響の輪」です。
未熟である、ということは努力のしがいがある、ということであり、それでこそ人生がチャレンジングになるのだと思います。
逆に、すべてを達成し、誰から見ても「すごいなー」というレベルに至ってしまうと、そちらの方が悩ましい状況なのかもしれません。そのレベルの人は、もっともっと突き抜けて行けるほど、目標が高いようにも思いますが。トップに立った人(双葉山やイチローなど)の苦悩を聞くと、むしろ未熟で坂の上の雲を目指している方が楽しいのではないか、という気にもなります。