こちらは、他学科の受講生ですが、2つ目のピックアップレポートです。
10月の初回の講義で、オンライン講義から消え去っていく学生も少なくなかったのですが、この方は頑張って最後まで受けてくれた方、ですね。
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『一般教養を受ける意義』
私は土木史の授業をはじめに受けた時、初回の論にも書いたが、その政治に対する考えの違いから退席して授業は切ろうと思った。当時の心境としては大学には好きなことを学びに来ているため、一般教養だろうが自分の考えに合った、ある意味自分にとって都合の良いものを取れば楽でよいと思ったからだ。一般教養を特に重要な科目としてとらえていなかったのだ。しかし私はいろいろな心境から逃げずに秋学期この授業を受けとおし、かなりたくさんのことを学び、影響を受けた。具体的には私は本授業を通して一般教養としての土木史だけでなく人生を生きていくにあたっての、正しいとは言わないが効果的な生き方を学ぶことができたと思っている。その中で、ひとつ私は大切なこととして一般教養を受ける意義を理解したように感じている。一般教養を受ける意義についてはよく議論されていることであるが、わたしはこの土木史という授業は真の一般教養の授業で学ぶことを学べたのではないかと思っている。
一般教養を受ける意義はなんなのか。大学生は基本的に卒業に必要な単位数を稼ぐためにとることが多いように感じる。大学入学時は私もそう考えていた。周りの友人にも1年の段階で早くも専門の単位をあきらめて単位の取りやすい一般教養で単位を稼ごうとしている人を何人か見かける。だが私は一般教養の本当の意味とは自分の知りえなかった世界に対して視野を広げることができることではないかと考えるようになった。これは確かに自分の専門には何の関係もないかもしれない。何の役にも立たないかもしれない。もちろん何か関わりがあることを発見できるかもしれないが、そうではないことの方が多いと私は思っている。だが、それでも私たちが一般教養を学ぶのは、文字通り教養を深め、自分の人生を豊かにするためなのではないかと私は結論付けた。例えば本授業では土木を通して自分のいる日本の社会の仕組みを知った。それがどう機能していてどのような問題点を抱えているか、自分の身の回りに実際に起きていることなのに私は何も知らず寧ろ誤解していたということを知った。このように自分とは全く異なる観点から全く異なる話題について専門の先生から解説されることで、新しい経験ができる。このためにある科目が一般教養なのだ。
以上のように一般教養には19年間生きてきた中で培ってきた固定観念を崩す力があると感じている。私は専門の単位数でほとんど授業上限は埋まってしまうのだが、それでも今後空いた単位には積極的に一般教養を入れていこうと思う。
講義の成績を付ける締切りが迫っておりまして、土木史の講義の最終回のレポートにも目を通し、相当なエネルギーを注いできた講義ではありますが、好意的に受け止めてくれた学生たちが少なくなく、いくつかをぜひ紹介したいと思い、ピックアップします。当然、匿名です。
では、まず一つ目のレポート
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都市基盤学科でいかに学び生きるか
土木史と文明の講義が終わりこの半年を振り返ってみれば、授業時間は合計15×1.5=22.5時間、メモとレポートの文字数はここまで合わせて2万3000字を超えた。週に一度の授業であったが、積み重ねていけばさまざまなものが得られた。最後のレポートとして、では一体自分の中では何を得られて、今後何が必要であると感じたのかをまとめていきたい。
まず最初に挙げたいのは、自分が何をどう考えているのかが少しだけでも自覚できるようになったことだ。最初のレポートには、首尾貫徹した意見を持てるようになるための思考訓練として授業に臨むと書き、ここまで着実に実践できた。細田先生ほどの確立された問題意識とそれに沿った習慣と態度を、自分は未だに持つことはできていないと思うが、不恰好でも自分の言葉でしっかり受け応えができるぐらいにはなったと思う。具体的に述べると、飲みの場などで社会人の方で話す機会がここまで何回かあったのだが、「何を勉強しているの?」とは聞かれることがある。まずは都市基盤、インフラの説明から入り、それに対して自分はどう向き合っているのかまでを、時に簡潔に、時には深いところまで説明するのであるが、そうした受け応えの中で必ずこの授業で得たものが強く意識されている。ここで、自分の意見とともに自覚される、この授業を通して得られた要素がもう一つある。それは伝えることの重要性である。授業の中で細田先生は授業の中で自分の考えを、どう伝えるべきかを強く意識して述べていただいた。周りの大人がそれをしていないということでは決してないが、結果として講義中の細田先生のような態度の大人が少ないので、一部の学生は批判的に思う学生が現れたのかもしれない。それでも細田先生のように、ちゃんと耳を貸してくれる相手のことを考えた上で、自分の意見が伝わるように明確に主張することは、大変重要であると分かった。一部の若者のニヒルな空気の中では受け入れられないことは確かにあるだろう。それでも受け止めてくれる相手は必ず存在すると、コメント紹介を通じて分かった以上、相手に合わせて空気を読みすぎた意見を言うよりは、自分の考えをより誤解されることのないように、批判を恐れずに伝える態度を取っても良いのだと自覚できた。
この伝えることの重要性に相対して、聞くことの重要性を今後必要であるものとしてあげたい。土木史の授業ではこの「聞く」という過程をレポートの中で実践されていて、授業の冒頭で多くの時間を割いて、かつ学生に見える形で行われていた。提出されたレポート全てに目を通して、それぞれにちゃんとした言葉で受け答えをしてくれることは、自分を含めて多くの学生が先生への信頼と次の授業とレポートへの意欲につながったはずである。今後自分も何かを伝えることが迫られる以上、この「聞く」過程を意識しなければ、せっかく形づくられた自分の考えが反省と再形成の場が完全に失われてしまうであろう。こういったことが、もっとも感じられるのは授業後の質疑応答の時間である。半分はzoom(と細田先生)慣れしていない他の学生のためのアイスブレイクのつもりでもあったが、やはり質問することで相手の考えをうまく引き出す能力を身につけるために質問をしていた。あまり認知はされていないが、「いい質問」は、「無質問」はおろか、「単純に気になっただけの質問」などよりも遥かに重要であるはずだ。つまり、「聞く」ための能力は、ある講義の中でさらに踏み込んだ何かを得たいと思ったときに実践的に活かされるのである。
「いい質問」とは一体どんな質問なのか、についてを十分に述べることができない以上、今後必要であるものとして覚えておきたい。
以上までで、おそらく蓄積された文字数は2万5000字ほどまで達しただろう。最後に付け加えておきたいのは、ここまで蓄積された思考の中にはいつだって少なからずの悦びがあったということだ。授業の中で新たな知見を得られること、新しく意見を立てられるようになること、更に新しい疑問が生まれること、これらは退屈なオンライン授業のためであろうか、忘れられていたように思える。この悦びをずっと大切にしながら、以上の反省を踏まえて貴重なキャンパスライフを学び生きたい。