本州・児島と、四国・坂出を結ぶ瀬戸大橋が、
今日で開通25年を迎えた。
1988年4月10日。
本州と四国が、初めて橋で結ばれた。
道路と鉄道の併用橋であり、
車と列車の両方で渡ることができるようになった。
翌年、1989年の1月。
私は、ひとりで瀬戸大橋への旅をした。
岡山からの「マリンライナー」で丸亀に渡り、
そこからは船で児島へ戻った。
鷲羽山からの瀬戸内海を眺め、
下津井電鉄に乗る、のどかな旅だった。
高校二年の修学旅行が四国で、
その時は宇高連絡船に揺られていった。
それから8年後の四国だったが、
白く巨大な橋は、瀬戸の青い海に映えて美しく流れていった。
瀬戸大橋が昔からあったら、
「瀬戸の花嫁」も、「瀬戸内少年野球団」も、
あるいは「二十四の瞳」も生まれなかったかもしれない。
このころ、一人の好きな女性がいた。
何を買ったか忘れてしまったが、岡山でお土産を買った記憶がある。
そして、そのお土産とともにお付き合いが始まった。
それが今の、私の妻である。
この旅が、独身時代の私の最後の一人旅となった。
今はもう、宇高連絡船はない。
下津井電鉄も廃止された。
本四も、3つの橋が架けられて、
四国は本州と同じ感覚になった。
先日、職場で高松出身の若い女の子と話をした。
彼女は、宇高連絡船どころか、
生まれたのが瀬戸大橋の開通後だという。
あれから四半世紀が過ぎた。
今日で開通25年を迎えた。
1988年4月10日。
本州と四国が、初めて橋で結ばれた。
道路と鉄道の併用橋であり、
車と列車の両方で渡ることができるようになった。
翌年、1989年の1月。
私は、ひとりで瀬戸大橋への旅をした。
岡山からの「マリンライナー」で丸亀に渡り、
そこからは船で児島へ戻った。
鷲羽山からの瀬戸内海を眺め、
下津井電鉄に乗る、のどかな旅だった。
高校二年の修学旅行が四国で、
その時は宇高連絡船に揺られていった。
それから8年後の四国だったが、
白く巨大な橋は、瀬戸の青い海に映えて美しく流れていった。
瀬戸大橋が昔からあったら、
「瀬戸の花嫁」も、「瀬戸内少年野球団」も、
あるいは「二十四の瞳」も生まれなかったかもしれない。
このころ、一人の好きな女性がいた。
何を買ったか忘れてしまったが、岡山でお土産を買った記憶がある。
そして、そのお土産とともにお付き合いが始まった。
それが今の、私の妻である。
この旅が、独身時代の私の最後の一人旅となった。
今はもう、宇高連絡船はない。
下津井電鉄も廃止された。
本四も、3つの橋が架けられて、
四国は本州と同じ感覚になった。
先日、職場で高松出身の若い女の子と話をした。
彼女は、宇高連絡船どころか、
生まれたのが瀬戸大橋の開通後だという。
あれから四半世紀が過ぎた。
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