岡崎市の光ヶ丘交差点の近く…
に…織田家、松平(徳川)家、そして今川家の家紋が刻まれているモニュメントが…
解説板には、小豆坂古戦場略記とある…
この地で、小豆坂の戦いがあったようで…
少し南に行ったところには
史蹟「小豆坂」の石碑が…
これは、小豆坂の戦いが起きた後に造られた石碑でしょうか…
宅地開発されたこの市街地の中で、歴史を感じさせる唯一の石碑
その目の前は、中華屋さん(台湾料理屋さん)になってまして、そこに残された木が二本…
当時は、この辺はこういった木が生い茂った場所だったのでしょう…
さてさて、小豆坂といっても、それほど急な坂にはなってません!緩やかな感じで光ヶ丘交差点に向かって、登っていく感じです!!
「小豆坂の戦い」
けして、五個入りのアズキバーを、家族で誰が2本食べちゃったか…誰が3本食べちゃったかといったどこの家庭にでもおこる揉め事ではありません!!
なんでも戦いで、血が小豆色に染まったことから、この地名がついたとか…
「小豆坂の戦い」は、2度あって
1度目は、織田信秀率いる織田軍と今川義元率いる今川軍との戦い
それまで、三河国を統一していた松平清康(家康の祖父)は「森山崩れ」という事件で家臣に殺され、後継者の松平広忠は、今川義元の力を借りて当主となったため、以後松平家は「今川家の家臣」となり勢力を失っていた…
そこに臨んだのが織田信秀(信長の父)
三河国に攻め入り、松平家の重要拠点だった安祥城を落城…岡崎城も…といったときに
この松平家を救うために今川軍の大軍が対抗
岡崎城に近いここ小豆坂で戦いがおきたようで…
その時は、「小豆坂七本槍」と呼ばれる7人の活躍により、織田軍は勝利したとのこと
その結果、三河に織田家の力が及ぶようになると
まずは刈谷城にいる松平家の家臣であった水野信元が織田家に寝返ることに…於大の方の兄なのにも関わらず…
この寝返りにより、松平広忠は今川義元への忠誠を示すため、於大の方と離婚、於大の方は実家の水野家に戻ることに…
水野家にうらぎられた 松平広忠は、今川家への忠誠をさらに示すため、息子の竹千代(後の徳川家康)を人質として送るよう計らいます…
しかし、ここでまたまた裏切りが…
竹千代を今川義元に送る職務だった戸田康光が、裏切って竹千代ごと織田家に寝返ることに…
こうして、勢力をさらに伸ばした織田信秀による三河国侵攻
それが、第2回目の「小豆坂の戦い」
織田信秀は、長男の織田信広を先鋒とし、4000の兵…
一方の松平軍は今川家の太原雪斎が援軍に駆け付け、10000の兵…
この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、織田信広軍も劣勢を悟って無理をせずに本隊と合流して勢いを盛り返し、織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった…
ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走
松平、今川軍の勝利となった戦い…
そんな大きな戦いが、この地で
「FEEL NewS」というスーパーの前には…
小豆坂戦没者英霊記念碑が…その横には祠もありました…
そして、光ヶ丘交差点の近くには
「小豆坂古戦場跡」を示す石碑が
この市街地のほんの一角に
岡崎市指定文化財である案内板
岡崎市観光文化百選の一つ
鎧を立てかけた松の石碑
松がみあたらないなあと思ってたら、近くの場所にあった石碑だけ、この場所に移動させたようで…
刀や鎧を洗ったといわれる
「血洗池跡」の石碑
これも、ここに「血洗池」があったという訳ではなくて、宅地開発の折に、石碑だけここに集められたものらしい…
近くにある「聖カタリナ学園光ヶ丘女子高等学校」にある聖母マリア様が、古戦場跡の方をみつめて祈ってる姿が心に留まりました…
…って、私B級スポットマニアなので、ただ、こういった巨大仏に敏感に目が留まる習性が身についてしまっているだけのことだけど…
これからも、「小豆坂の戦い」は、暑くなるに従ってどこの家庭でもずっと続いていくことでしょう??
「あ、お父ちゃん3本、アズキバー食べた!!ずるいっ!!」ってね