新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

「島田宿大井川川越遺跡」を散策する…

2023-08-06 08:19:32 | B級スポット

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

と詠まれた大井川

旧東海道の島田宿と金谷宿の間に流れる大井川

江戸時代、大井川は東海道の難所の一つ

というのは、この大井川、江戸時代には橋がなかったんだな…

 

なので、江戸時代の旅人は、この「越すに越されぬ」大井川を、川越人足の助けによって渡っていたんだな

 

さて、人の往来が多かった東海道なのに…

なぜ、大井川に橋を作らなかったのか…

「江戸を目指す軍勢を止めるために幕府は大井川に橋をつくらせなかった」というのが通説だけど…江戸時代には島田宿と金谷宿の両方の宿で、「川越人足」を束ねる組織がつくられ、その業務を独占的に行うことを幕府から認められていたことから、幕府がその「川越人足」の既得権益を保護するために橋を作らなかったとか…単に土木技術の問題で、恒久的な橋をかけるのが難しかっただけだとか…諸説あるようですが…

 

とにかく橋がないので、川が氾濫したら渡れない…旅人どころが、大名行列でやってきた将軍ご一行も何日も宿にとどまることに…

そんな感じで川岸にある島田宿大井川川越遺跡には賑わった島田宿の川越しの拠点となった東海道島田宿の当時の町並みが復元されたり、保存されていたりと…

街道を歩けば…アスファルトの道であることを除けば…ときおり車が通ることを除けば…あたかも江戸時代にタイムスリップしたかのよう…

そんな私も軽四で、島田宿大井川川越遺跡の大井川の川の近くにある駐車場まで、その江戸時代にタイムスリップしたかのようなアスファルトの道を走らせましたけど…

 

そんな途中で…一度軽四を停めて眺めたのが、ここ

 

「上段の間」が現存する塚本家

しまだ宿にいくのは、いまだ」なんて言って「冗談を言う間」ではありません!

塚本家に伝わる文書によると、九州肥前で古い家柄を持つ大名、大村藩によって建てられた家だそうで大村藩の参勤交代 や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行したそうな…その間、大名を座敷の「上段の間」にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられているとのこと…

あ、ここは、外から眺めるだけ…私、大名ではありませんので、「上段の間」にお通しされることはありません!…ただ、通過しただけ…

さて、島田市博物館の駐車場に軽四を停めて…

「島田宿大井川川越遺跡」徒歩とほとほと散策をば…

 

まずは、このイラストマップにある

「朝顔の松」から

由来が書かれていて

広島藩の家老の娘「深雪」は京都で宮使いをしていた際、「宮城阿曽次郎」と恋仲に落ちます…しかし、急な知らせで国に戻ると「駒沢次郎左衛門」という男性と婚約したことを告げられます…実は「宮城阿曽次郎」と「駒沢次郎左衛門」は同一人物、でも、そんなことを知らない「深雪」は名前を「朝顔」に変え、阿曽次郎を探す旅にでます…しかし、旅をする中で視力を失い、三味線の弾き語りをしながらわずかな日銭を得て暮していました…ある日、座敷から声がかかり、いつものように歌いましたが、その客は「阿曽次郎」本人、しかし、「朝顔」は目が見えないため、阿曽次郎とは気付かず、阿曽次郎も長旅で容姿、及び名前も変わってた「深雪」に気付かなかった…後日、あの客が阿曽次郎と分かり、急いで追い掛けますが、大井川は川止めで結局会うことができません…「朝顔」は悲観するあまり、自殺を試みるも、宿の主人に助けられ一命を取り留めることができた…すると不思議なことに目が見えるようになり、目を開けて初めて見たのがこの松だったと云われているとのこと…

で、いつしかこの松は「朝顔の松」と呼ばれるようになったそうな…

 

しかし、朝顔の松は昭和10年(1935年)に枯死、これを偲んでお堂を建て、朝顔の松を使って木碑を作り安置しているのが、この「朝顔堂」

 

お堂の中の…これが初代の「朝顔の松」の木

もう一つ小さなお堂があって…

こちらは「朝顔目明観音」さまと…「川除地蔵」さま

 

 

 

「朝顔の松」と厳谷小波さんの句碑

「爪音は松に聞けとや 春の風」

意…あの瞽女「深雪」の爪弾く三味の調べは、この老松に聞いてくれ、というように松は春風に吹かれていることよ

巖谷小波さんは童話作家

以前、私が綴ったこのブログを読むとよくわかるよ…ホンマかいな…笑

水口歴史民俗資料館の中にある巖谷一六・小波記念室に行く!

 

厳谷小波さんが

「爪音は松に聞けとや 春の風」と謳ったならば

私こと松尾ドショウも

ここで一句、詠まずにはいられない

「つまらない 待つにまたされ 春の風邪」

意…この頃は、オミクロン株が流行ってて、ほぼほぼ無症状なのにカンセンもしくは濃厚接触者になって、10日間の自宅待機を余儀なくされ…退屈でつまらないことよ…

みなさん、マスクをしましょ!しましょ!!!

 

 

そんな「朝顔の松公園」を後にして

「島田宿大井川川越遺跡」の街道をぶらぶらと…

せぎ跡

河原の石が積まれ、ここで大井川の増水を食い止める堤防の役目をしていたようで…

写真左のこの塀の向こう側が「一番宿跡」

このせぎ跡を越えると、進行方向のすぐ左側には

川越人足たちが京都の伏見稲荷から勧請して建てられた

「八重枠稲荷神社」


増水に備えて、石を詰めた籠を積み重ねて堤防を作った場所で、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守ったとのこと…「八重枠稲荷」の名前はここからきてるようで

建立当時は、川で亡くなった多くの人々を供養するため、建てられたようで赤い鳥居は印象的だけど…キツネ様が見当たらない…

ここは「二礼二拍手一礼」

仕事の洪水が来ませんように…と

 

その横は「七番宿跡」地

この建物は、おそらく「五番宿」があった場所

 

四辻の場所には

島田大堤

 

天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流されたそうな

その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、 向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化したとのこと

恐らくこの頃までには完全な大堤が完成していたことと思われ、 この治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えたとか

大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ 3150間(5.733m)と記録されているよう…

なので、今残っているのは、ほんの一部であるよう…

その辻をこえると左側にある建物が

川会所

敷地内には

「大井川の川越」の説明看板

江戸時代の初期、慶長六年(1601年)幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するが、大井川や安倍川、酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず、川越人足に旅人を担がせて川を渡らせた…

大井川の渡渉制度は江戸時代初期には比較的自由なものであったが 、貞享・元禄期(1687〜1704年)ころから旅人の安全確保のため制度を厳しくし、元禄九年(1689年)には川越し業務を統括する二人の川庄屋を置くとともに、その役所としてこの「川会所」を設置したそうな

旅人はこの「川会所」で渡し賃金を支払って、 川札を買い、河原で待機する川越人足に川札を渡して肩車や連台と呼ばれる木製の台に乗り、人足に担がれて向こう岸へと渡ったとのこと

川越制度は、川庄屋のもとに年行事(川庄屋の補佐役)、小頭(川越人足の各組の統括役)、立合人(川役人と川越人足、各組同士の調整役)、口取(旅人の案内人)、待川越(人足業務に特に秀でた者)などを置いて、川の深浅による渡渉賃金の取り決めや通行人の順番の割振り、川札の販売などの業務を行うとともに規定の渡渉地点以外から越える廻り越しも取り締まったそうな

川越人足は、当初は島田・金谷両宿とも各360人と定められていたが、交通量の増大にともなってその数も増え、幕末には650人ほどがいたと言われている…彼らは一番から十番までの組に分けられ、交通量に合わせて各組の出番を調整し、川越し業務に従事したそう

その横には「島田宿大井川川越遺跡」の案内図…

家屋に比べて、人がやたらデカい!けど…みて分かりやすいので、スマホにおさめてと

この敷地内には

松尾芭蕉の句碑

 

句碑の右側には「輦臺越遺跡」と刻まれていて

「馬方は知らじ時雨の大井川」

島田宿にいる松尾芭蕉…松尾芭蕉を担いで降ろした馬方は金谷側にいることから、馬方には「川のこっちである島田の時雨は分かるまい」という意

もうこの句「馬方は知らじ時雨(しぐれ)の大井川」に対しては、すでに島田市博物館で…松尾バショウのライバルと言っても過言ではない

松尾ドショウは、すでに

「勝ち馬は知らじしっぱい(失敗)の大井競馬」

(大井競馬で儲けたことがない…の意)

と詠ってますな…笑

 

さてさて

「川会所」は無料で…私の大好きなタダで…タダで…見学できちゃいます…

中央にはどどんと、これに人を乗せて渡った「連台」が…

 

その奥には、B級スポットにはありがちな…当時の雰囲気をより醸し出すために作られた等身大人形が…

 

ここ「川会所」は、川越しの料金を決めたり、川札を売ってたところ…

その受付嬢ならぬ…受付オジサンがこちら

このオジサンは「川庄屋」と「年行事」と呼ばれる職のオジサマたち

まあ、言うならば…この会社の部長と係長のようなもの…

…だと思われるのに…受付嬢のよーに、ここに座ってますなあ…笑

 

元禄9年(1696年)、代官 野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになり、その中心的な役割を担ったのが、「川庄屋」と「年行事」…

「川庄屋」は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務してたそうな

主な任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定すること

「年行事」は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられたそうな

川会所に交替で勤め、川越賃銭の取り立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行っていたとのこと

川札の値段…

渡る値段は、川の深さによって、違っていたようで…

まで浸かると「川を越す」値段が高くなる…

危険も伴うので「わき、あいあい(和気あいあい)」といった気持ちには、ならなかったのでしょうな…

 

 

連台越しの手順

 

越立の方法

 

川札・台札

 

大雨が降ると何日も「川留め」させられたようです…

 

川越しの時刻

 

 

ここまで、読んでいただければ「大井川川越」について、約30分は熱く語れることでしょう…

まあ、呑み会の席で、空気がよめず…「大井川川越」について熱く語ってれば

おおいに変わった人」…「おおいにかわった…」…「おおいがわ…」にみられることは間違いない…笑

 

かくいう私も、上記の解説パネルをよく読んで理解したから語りたい「おおいにかわった…人」であることから…

せっかくのこの機会「川庄屋」さんと「年行事」さんと記念撮影

 

「川庄屋」さんと「年行事」さん、むすっとしてますなあ…

大雨続きで…商売あがったりや…天気があがらんかい!!と思っていそう…

 

奥には…当時生きていたとしても、私には無縁な…大高欄連台が…

 

その奥には

半高欄連台…

その奥には平連台

これらも、当時生きていたとしても、私には無縁かも知れない…

私は肩車…かな???…苦笑

 

続いて立ち寄ったのが

「札場」

 

案内札の文字が消えかかっています…

川越し人足が川札を換金するところ
一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配したそうな…

中には、先ほどの「川会所」にいたオジサンたちとは雲泥の差の、平ぺったいモノクロのオジサンがいました…

 

中には、明治、大正、昭和のものと思われる箪笥やら扇風機やら

 

さてさて、アスファルトで舗装された道をさらに進んで…

 

右側には

「 仲間の宿」

 

 

主に年をとった川越人足たちの集まった宿です…また、人足の代表である小頭や陸取りが集まって会合を開いた場所とのこと

ちなみに

川越人足とは...旅人が大井川をわたる際、肩車越しや連台越しといった方法で川越しに従事した人足たちのこと

ちなみに

宿とは...ここで言う宿は、 宿場の宿ではなく、一般的には番人の詰所を意味する番宿に近く、いわば川越人足の休息所となったところ

ちなみに

陸取りとは...45歳以上の川越人足の経験者で、立会人が川会所から番宿まで案内した旅人を川越人足に引きわたすことが役目だったとのこと

まあ、雨のなか、まだ雨が降る続くの…これじゃあ仕事があがったきりよ!と、ここで酒に入り浸ってた図が、容易に想像できます…

 

「仲間の宿」では、ちっちゃなモニターで解説の映像が…この映像は…エエゾー!!

 

 

なんと、トイレ跡まで

便が…なかなか、まだ出ない…便秘ということで、「なかま宿」を後にして…笑

裏の跡地には、おそらく昭和になってから造られたと思われる

水のポンプが放置されていました…

 

道の反対側には、二番宿…

これは、個人宅とのことで、見学不可…

その隣の「十番宿」は強烈!!

 

 

おっちゃんが…退屈そうにくつろいでいます…笑

いやあ、等身大人形マニアの私には、この人形がみられただけで、ここにきた甲斐があると言えるほどの…心が動かされるほど、インパクト大

いやあ、この哀愁の漂う丸みを帯びた背中…タマラナイねえ…

 

「川越人足」の説明板

 

家屋の中は、旧民家そのもの…

「島田宿大井川川越遺跡」にきたなら「十番宿」は絶対立ち寄った方がいい…

この哀愁の漂う丸みを帯びた背中をみれば…言葉なんかいらない!!

 

道の反対側には

荷縄屋

 

 

荷物を梱包したり、荷造り用具を売っていたところ…

 

さらに、道沿いには小さな祠が…

 

秋葉さんを祀っていたので…秋葉神社であります…

水害だけではなく…宿場の火災にも神頼みしていたのですね…

 

「六番宿」

 

ここも個人宅ということで中に入ることはできず…

 

島田の大井川川越遺跡町並の街道から少し離れたところに、小さな「関川庵」があるようで…

 

お七は、本郷八百屋八兵衛の一人娘であったが、火事避難先で寺小姓の吉三郎と知り合い恋仲になる…帰宅後、逢いたい一心でつけ火をつけたことが、放火犯で捕らえられ、引き廻しのうえ、天和3年(1683年)火あぶりの刑にされたとのこと…ほんの16歳だったとか… 「関川庵」の境内に吉三郎の墓石があるそうな…お七の恋人だった吉三郎は、火あぶりになったお七を弔う旅を続けていたが、この島田宿で病死したとか…そこには、立ち寄らなかったけど…

 

さてさて

最後に紹介するのが「三番宿」

 

 

なんと、ここにも二人目の「川越人足」の等身大人形が仁王立ち

 

背後から…

 

衣装に手抜きはなく…笑…チャンと締めていました…笑

 

 

江戸時代の終わりには、島田650人程働いていたといわれていた川越人足も…今では2人(等身大人形)だけ…???

 

 

 

ほんの300年前のことなのに…栄枯必衰…時の流れを感じた…???

「島田宿大井川川越遺跡」散策だったのでした…