「褒める」ことは大切です。
そろばんでは小学校低学年どころか、小学校未就学児をお預かりすることもあります。低年齢であればあるほど「褒める」という行為はものすごく教育において大切なものです。
子供たちは大なり小なり「承認欲求」を持っています。(※承認欲求:他人から認められたいとする感情の総称)
「承認欲求」を満たしてくれる大人は、子供たちから見たときに「信頼に足る人物」と認定される可能性が高くなります。
従って、子供たちと信頼関係を築きたいのであれば、子供たちの「承認欲求」をなるべく満たしなさい。ということになります。
このあたりのお話は「児童心理学」とか「発達生理学」とかそういう学問の範疇になるわけです。
で、普段の授業で私はこうした専門的な知識を意識するわけではありません。単純に教え子が「できなかったことができるようになったときに表現する喜びの感情」を見ることがうれしいだけなんですよね。だから損得勘定なく「褒め」ます。ときには「褒めすぎじゃないの?」ってくらいに褒めます。
さらに「この子には無理かな?」と私が勝手に思っていたことを乗り越えてくれたときなんて、そりゃもう褒めますよね。(その中にはあなたに対する評価が低かったことを謝る気持ちも含んでいます)
だから、私の中では「当たり前に褒めている」という感覚なんですよね。そして褒められるとやはりうれしいようで、さらに前を向いて頑張ってくれます。そして信頼関係ができてくると、遠慮なく叱ることができます。
信頼関係が十分でないときは、叱ることが逆効果になる場合もあります(もちろん、人として行動がダメなときは容赦なく叱ります)。諭すように指導しなければならないときもあります。
褒めたときの反応を見ていれば、「先生は適当に褒めている」と生徒側が感じているか「うわ~、先生も喜んでるわ」と生徒側が感じているかはある程度分かります。そしてその機微を見逃さないようにするために、指導する側は生徒をしっかりと見て「褒めるタイミングを見逃さない」ことが大切なんですよね。
こうしたことは、座学での先述のお勉強の下地となる知識があった上で、実際に生徒たちと向き合う中で自然と身に付いた考え方です。
損得勘定で「褒め」たり「叱っ」たりしても、絶対に生徒には見抜かれますから。私はこれからも、生徒を見守り続けて「褒める」タイミングを見失わないように精進したいと思っています。
そろばんでは小学校低学年どころか、小学校未就学児をお預かりすることもあります。低年齢であればあるほど「褒める」という行為はものすごく教育において大切なものです。
子供たちは大なり小なり「承認欲求」を持っています。(※承認欲求:他人から認められたいとする感情の総称)
「承認欲求」を満たしてくれる大人は、子供たちから見たときに「信頼に足る人物」と認定される可能性が高くなります。
従って、子供たちと信頼関係を築きたいのであれば、子供たちの「承認欲求」をなるべく満たしなさい。ということになります。
このあたりのお話は「児童心理学」とか「発達生理学」とかそういう学問の範疇になるわけです。
で、普段の授業で私はこうした専門的な知識を意識するわけではありません。単純に教え子が「できなかったことができるようになったときに表現する喜びの感情」を見ることがうれしいだけなんですよね。だから損得勘定なく「褒め」ます。ときには「褒めすぎじゃないの?」ってくらいに褒めます。
さらに「この子には無理かな?」と私が勝手に思っていたことを乗り越えてくれたときなんて、そりゃもう褒めますよね。(その中にはあなたに対する評価が低かったことを謝る気持ちも含んでいます)
だから、私の中では「当たり前に褒めている」という感覚なんですよね。そして褒められるとやはりうれしいようで、さらに前を向いて頑張ってくれます。そして信頼関係ができてくると、遠慮なく叱ることができます。
信頼関係が十分でないときは、叱ることが逆効果になる場合もあります(もちろん、人として行動がダメなときは容赦なく叱ります)。諭すように指導しなければならないときもあります。
褒めたときの反応を見ていれば、「先生は適当に褒めている」と生徒側が感じているか「うわ~、先生も喜んでるわ」と生徒側が感じているかはある程度分かります。そしてその機微を見逃さないようにするために、指導する側は生徒をしっかりと見て「褒めるタイミングを見逃さない」ことが大切なんですよね。
こうしたことは、座学での先述のお勉強の下地となる知識があった上で、実際に生徒たちと向き合う中で自然と身に付いた考え方です。
損得勘定で「褒め」たり「叱っ」たりしても、絶対に生徒には見抜かれますから。私はこれからも、生徒を見守り続けて「褒める」タイミングを見失わないように精進したいと思っています。