指導するということはとてつもなく重いことだと思います。「こちらの言うことを聞きなさい」というわけですから。
「生徒が将来損することがないように」指導すると言いながら、自分ができていないことを子供たちに指導するっていう立ち位置は理解ができません。自分が必要だと考えていた指導を、ある日突然全く違う方針にするという立ち位置は理解できません。自分の守備範囲外の中身に手を出すに当たって、見切り発車をしてしまうやり方には理解ができません。
指導するということは、自分が正しいと思うことを伝えることでもあります。それは、世間一般からも正しいと考えられていることなのか? これは毎日私の頭を悩ませることです。ここ数年は流行病のせいで気軽に懇談することも難しかったので、自分の考え方を保護者の皆様とすり合わせる機会も減ってしまいました。なるべくラインやお電話を利用してやりとりするように心がけてはいますが、顔を直接見ないやりとりは通じきらないものがありそうです。
指導するということは、自分の指導は正しいと暗に言っていることですから、勉強を常に怠ってはいけません。教室独自のテキストだと表紙もつけていながら、教材会社の問題をコピーしたものであったり、過去問を寄せ集めただけだったり。「他人のふんどしで相撲を取っている」その中身は本当に正しい指導なんだろうか?
指導するということは、生徒たちに「先生の指導は間違ってはいない・正しい」と信じてもらうこと。「生徒たちに阿る」のではなくて「普段と同じ行動をすることで、結果的に生徒から信頼される」。そんな当たり前のことができているのだろうか?
指導するということに悩みは尽きません。ただ普段からそんなことを考えながら指導している。そんなお話でした。
「生徒が将来損することがないように」指導すると言いながら、自分ができていないことを子供たちに指導するっていう立ち位置は理解ができません。自分が必要だと考えていた指導を、ある日突然全く違う方針にするという立ち位置は理解できません。自分の守備範囲外の中身に手を出すに当たって、見切り発車をしてしまうやり方には理解ができません。
指導するということは、自分が正しいと思うことを伝えることでもあります。それは、世間一般からも正しいと考えられていることなのか? これは毎日私の頭を悩ませることです。ここ数年は流行病のせいで気軽に懇談することも難しかったので、自分の考え方を保護者の皆様とすり合わせる機会も減ってしまいました。なるべくラインやお電話を利用してやりとりするように心がけてはいますが、顔を直接見ないやりとりは通じきらないものがありそうです。
指導するということは、自分の指導は正しいと暗に言っていることですから、勉強を常に怠ってはいけません。教室独自のテキストだと表紙もつけていながら、教材会社の問題をコピーしたものであったり、過去問を寄せ集めただけだったり。「他人のふんどしで相撲を取っている」その中身は本当に正しい指導なんだろうか?
指導するということは、生徒たちに「先生の指導は間違ってはいない・正しい」と信じてもらうこと。「生徒たちに阿る」のではなくて「普段と同じ行動をすることで、結果的に生徒から信頼される」。そんな当たり前のことができているのだろうか?
指導するということに悩みは尽きません。ただ普段からそんなことを考えながら指導している。そんなお話でした。