映画「ピロスマニ」をご存じだろうか。雑誌「クウネル」か何かに、シンプルな暮らしの友としてこの映画「ピロスマニ」のDVDをそばに置いて暮らしていますという記事が出ていて、うらやましく思った。私はこの映画「ピロスマニ」をテレビで放映した時にビデオに録って繰り返し見ていたのだが、ある日テープが切れて絡まってだめになってしまった。この映画「ピロスマニ」のDVDは長らく廃盤になっていて、現在買うことができないのだ。
この映画「ピロスマニ」は静かな、静かな薄暗い映画である。一見ルソーを思わせる朴訥とした絵を描くニコ・ピロスマニは食っていけなくて鉄道のブレーキ係や牛乳屋など職を転々とした。それでも食っていけない。ピロスマニの絵の構図と同じ構図で横一列に座って無言で食事をする人々の情景などが映し出される。ピロスマニはグルジアの伝説も書いたが、より身近な農夫やロバや聖職者などを好んで描いた。その一枚一枚が映画で淡々と挿入される。
そんななかでピロスマニは食べてゆくため、酒場の看板や内装の絵を安い賃金でいくつも書いて歩いた。ピロスマニを含めて登場人物の多くが黒や灰色の服を着ていて、薄暗いグルジアの町を黒や灰色の服のピロスマニが仕事を求めてさまよい歩いている。今ではルソーを単なる日曜画家とか素人画家と言う人がいないように、ネオプリミティズムに数えられたピロスマニの平面的かつ無表情で簡素に見える絵を素人扱いする批評家はいないだろう。ピロスマニは、民衆版画やイコンの画家のように敢えて平面的で簡素な作風を選んだのである。その絵はいかにもグルジア的な、グルジア人にとっては親しい空間を描いていた。一見玩具のように描かれた人物画や動物画は寡黙でありながら微笑を誘う。
画壇の一部では評判が高かったとはいえ、黒を基調とした地味な絵が、グルジアの誇る宝だと多くの人々が気付いたのは、貧困のため酒場の内装に明け暮れて路上でピロスマニが没した後だった。その人生が映画「ピロスマニ」には淡々と描かれている。ピロスマニの絵と同様に動きを抑制されたシックな映像が、現代では返って禁欲的で美しく感じられる。そこでおしゃれな随筆家が、「何も持っていないけどピロスマニのDVDを持っている」ことがうらやましく感じられるのだ。日本ではピロスマニに近い画風の画家にムラタ有子さんがいる。映画「ピロスマニ」の再発売を願ってやまない。
マキシム・ショスタコーヴィチの全集が面白い。ショスタコーヴィチの息子が指揮したライヴ全集である。プラハ交響楽団との仕事である。チェコの人はロシアに複雑な思いを持っているだろうが、ライヴでの受けは良い。実況感あふれる優れ物である。ロジェストヴェンスキーなどロシア人の指揮するショスタコーヴィチは、煽情的な、起伏に富んだ演奏が多い。ついつい血沸き肉踊る。なかではロストロポーヴィチが比較的温和な面を聞かせる。ロシア勢に比べてハイティンクのショスタコーヴィチは純音楽的だと言われる。いわゆる交響曲の古典として、バランスの取れた澄んだ響きを目指しているように思える。ショスタコーヴィチはシベリウスとともに交響曲の歴史の最後を飾る人物である。
ただ、手放しでショスタコーヴィチが好きだと言うと、誤解を招きかねない。それほど政治的に微妙な立場で作曲していた人だ。有名なヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」は半ば偽書だという説もあるが、そのなかでショスタコーヴィチは交響曲第五番は強制された歓喜だと言っている。日本で合唱曲の定番となっている「森の歌」は、スターリンの植樹政策を称えたものだ。交響曲第五番も、フォルマリストだと批判された後で生き残りを賭けて書かれたものだ。
とはいえ、無調性音楽の時代に堂々たる交響曲を量産できたのは、ソヴィエトの政策の仇花とも言える。なかでも4番、5番、7番、8番、10番、11番、12番辺りが、交響曲として聴き応えがある。体制との関係も、一方的に書かされたという単純なものではないだろう。ショスタコーヴィチの交響曲は革命下や戦時下の「非常時感」がよく出ている。それで不謹慎ながら、聴く人も手に汗握ってしまう。ショスタコーヴィチの交響曲はアドレナリンを放出させる非常時の音楽である。日本で言えば、清水登之の戦争画や、海外向けプロパガンダ写真雑誌「フロント」のような、何も知らないとかっこいいと思ってしまうが、本当は政治的に怖い世界の作品である。
その辺の事情を知り尽くしているはずの息子のマキシムが、見事に父の思い描いていた音を再現するきわどい感動。ショスタコーヴィチの疾走する緊迫感には、一筋縄ではいかない複雑な快感がある。けれどもその堂々たる交響曲の数々には、消えることのない音楽へのひたむきさがあることを、敢えて肯定したい。
このところ、いちばん聞いているピアニストはクラウディオ・アラウである。クラシックを聴き始めて最初に夢中になったのはヴィルヘルム・ケンプだ。シューベルトのピアノ・ソナタの朴訥とした味わいが素晴らしく、ベートーヴェンのピアノ・ソナタも二種類あるが両方よかった。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタはその他バックハウスやグルダも聞いた。なかでも親しみが持てるのはドキュメント・レーベルから出ている戦前のアルトゥール・シュナーベルのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集である。原盤のEMIより雑音が少ないのもうれしい。誕生日の前日とか特別な日の前に一人静かにシュナーベルを聴く。ケンプはどちらかというと旧盤をよく聴く。骨太で飽きないのだ。
ピアニストではその他リヒテルのシューベルトの最後のピアノソナタが好きだ。恐ろしく深く長大な音がする。また、ケンプではケンプ1000という限定盤シリーズで買ったバッハのゴルトベルク変奏曲が心を落ち着かせるのに良い。
その辺りでピアニストの殿堂入りは決定かとおもっていたが、クラウディオ・アラウのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集を聞いてしまった。アラウの演奏は瞑想的というか、聴く人の夢想を誘いながら比較的ゆっくりと弾く。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集の他はモーツァルトのピアノ・ソナタ集も素晴らしい。曲によっては極端に遅く弾く。モーツァルトで瞑想できるとは思わなかった。でもいちばんアラウの芸風に合ってているのは、なんとショパンである。私はむかしショパンを聞かず嫌いだった。ナクソスのイデル・ビレットの演奏もしっくりこなかった。その後ルービンシュタインを聴き、硬派な筋の一本通ったショパンもあると知った。
だがなんと言ってもクラウディオ・アラウである。ノクターン集を聞いてめちゃくちゃ感傷的な、これまたゆっくりとした演奏に心を打たれて泣きそうになった。クラウディオ・アラウの最良の演奏は、どれも瞑想的である。アラウが瞑想して弾いているのか、聴き手が瞑想に誘われるのか。むしろ私はアラウが弾き始めるとピアノが瞑想し始めるのだと言ってみたい気がする。
オノ・ヨーコの「グレープフルーツ」という前衛詩集は、ジョン・レノンを引きつけたと同時に、悩ませた。
雲がぽたぽた落ちてくるのを想像しなさい、とか妻が髪をといているのを録音して、彼女が死ぬ時に一緒に埋めなさい、とか様々な人を喰った謎かけ問答が収められている。その語り口や発想が、名曲「イマジン」の呼び水となった。「~を想像しなさい」自体がオノ・ヨーコ的話法なのである。オノ・ヨーコはいつもジョン・レノンの常識を揺さぶって、ジョンを裸にする。
名アルバム「ジョンの魂」は裸の叫びである。アーサー・ヤノフ博士のプライマル・スクリーム療法というのをジョンとヨーコは受けた。幼年時代に帰って、心の声を大声で叫ぶことで、わだかまりやトラウマが消えてポジティヴになるという療法である。これはアルバム「ジョンの魂」に大きな影響を与えた。裸になって地声で本音を叫んでいる。すごいアルバムである。ワンフレーズに対して一つのコードを弾きっぱなしにする「マザー」の曲作りもシンプルで見事である。ジョン・レノンの曲と歌詞がどんどんシンプルになって行ったのは、ヨーコの影響が大きい。
オノ・ヨーコがピアノでベートヴェンの「月光」を弾いたとき、ジョンがそのコード進行を逆に弾くことで、名曲「ビコーズ」が生まれた。
ヨーコの個展にジョンが行くと、脚立に乗って虫眼鏡で何かを読むというアートがあって、そこに小さく「イエス」と書いてあった。その字を見たとき、ビートルズとしてたくさんのものを背負い、スターとしての自負もあったジョンの自我が空ぜられて、裸の自分があふれ出てきた。禅の公案に「犬に仏性はあるか」「無」というのがあるが、この「無」の一語が座禅を通じて自我の殻を破るように、虫眼鏡で見た「イエス」という小さな文字がジョン・レノンを目覚めさせたのである。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの関わりは、「臨済録」の禅僧の掛け合いのようだ。
元バーズのロジャー・マッギンの、フォーク・デン・プロジェクトは圧巻だ。アメリカに流通しているフォークソングを後の世に残そうということで、一枚25曲の四枚組、全100曲をリリースした。有名曲と無名曲の両方が入っている。黒人奴隷の嘆きの歌があるかと思えば、「リパブリック賛歌」や「ファースト・ノエル」のような曲も収録されている。
ロジャーマッギンの歌のうまさ、節回しの絶妙さ、声の持ち味は昔と変わらない。これが全曲オリジナルなら小躍りしてしまうが、トラディショナルやカヴァー曲であってもロジャー・マッギンの声と12弦ギターは十分に堪能できる。
私はバーズが前から好きだったが、バーズ自体、オリジナルを主体としたバンドではない。ヒット曲の大半はボブ・ディランのカヴァーなのだ。それでもボブ・ディランに劣らないほどの逸品になっている。「ミスター・タンブリンマン」、「時代は変わる」、「マイ・バックページ」など、ディランがぶっきらぼうに抑揚なく歌った曲から、美しいメロディーを取り出して、リメイクする。元の曲とは全く異なった、フラワーチルドレンのフォークロックの美が生まれる。
柳宗悦は「民藝四十年」「南無阿弥陀仏」などの本で、無名の人が陶器に同じ模様をすごい速さで何枚も何枚も絵付けしていくとき、芸術家の個性といったことは問題にされないと言う。そういう無名の人が無心で何度も描いたり作ったりしてゆくうちに出てくる清らかさ、無心の美こそが民芸の美であると言う。また、鈴木大拙は、妙好人と呼ばれる無心の念仏者を、禅に匹敵する日本的霊性として持ち出した。
ロジャー・マッギンも器としては空っぽとなって、その器にボブ・ディランを入れたり、トラディショナルを入れたりして、そこに隠れていた美を浮かび上がらせる。空っぽになってひとの曲を歌うとき、ロジャー・マッギンは限りなく無心に近づいている。子どもたちのクリスマスソングである「ファースト・ノエル」を一点を見つめて歌う、ロジャー・マッギンの歌声は、私をとらえて離さない。