超人日記・俳句

俳句を中心に、短歌や随筆も登場します。

#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">ブルックナー、深淵をのぞきこんだ巨人</span>

2008-10-11 22:27:53 | 無題

リッカルト・シャイーのブルックナーが良い。交響曲全集である。日本の音楽評論家の受けは良くないらしいが、ちゃんと聞くと素晴らしい。シャイーは新世代である。旧世代のおいしいところをよく知っていて磨きを掛けた演奏である。私はブルックナーが大好きで、ギュンター・ヴァントとケルン放送響の全集でブルックナーに目覚めた。中でも九番が好きだが、四番、五番、七番、八番も欠かせない。
ブルックナーの音楽は巨大である。ブラームスに交響曲の大蛇とけなされたが、一曲平均一時間を要する大曲ばかり書いた。彼が憧れたワーグナーの序曲に似ているところもあるが、繰り返しの多い巨大な音世界という意味では、その先駆的作品はシューベルトの「グレート」ではないか。ヴァントの他はヨッフムのブルックナーが良い。ハイティンクも捨てがたい。その壮大な音世界の秘密が知りたくてブルックナーの伝記もいくつか読んだ。
ブルックナーは作品の気宇壮大さに反して心配症の、洗練されない不器用な人物というのが大方の意見で、そのため、友人知人の助言に振り回されて作品の書き直しを何度も行った。そこで版の違いの問題が出てくる。心配症であっただけあって生真面目で作曲法の習得に熱心で、色んな先生に付いて、何かにつけて習得証明書を書いてもらわずには気が済まない性格だった。オルガン奏者出身で、その響きが作曲法に生かされている。
そんな人の好いブルックナーであったが、特異な関心を示すものがあった。それは死と少女愛である。ブルックナーはベートーヴェンの遺骨が掘り起こされたとき、頭蓋骨に触ってみたくて出かけて行って現地で待っていたという。また自分の作曲の先生の遺骨を手元に置きたいと望んだという。少女愛に関して言えば、生涯、十代半ばの少女たちに片思いを繰り返し、自分より年下の父親たちに交際を断られ続けたという。そこに共通しているのは、触れてはいけないもの、見てはいけないものへの憧れである。ブルックナーの音楽はカトリックの精神の具現化であると言われ、実際そうなのであろう。だが、当たり前の世界から出て事物の深淵をのぞきこみたいという衝動が、死への露骨な関心や少女愛という形で生涯を貫いた。ブルックナーを聞くと、死をのぞきこんだ人間の凄さが伝わってくる。作曲家たちのそういう性癖と作風の関連は、興味が尽きることがない。 



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<span itemprop="headline">フリーダ・カーロ、極私的なシュルレアリスム</span>

2008-10-08 07:44:07 | 無題

数年前、渋谷の文化村で「フリーダ」という映画を見た。夫ディエゴ・リベラに翻弄されながらも、情熱的に自分を貫き通した女性画家フリーダ・カーロの伝記映画である。この映画は実によくできていて、彼女の人生の衝撃的な場面の数々が的確に切り取られていて思わず引き寄せられる。それにフリーダ・カーロの絵に出てくるサボテンや子猿や花や果実など、メキシコの風物がうまく散りばめられている。DVDも最近出ているので見たい人は見よう。
フランスを始め各国のシュルレアリスムの画家たちが、フリーダの絵を見て何てシュルレアリスム的なんだと驚いたという。でもフリーダは、シュルレアリスム運動を目指してそこに至ったのではない。メキシコの風景の他、交通事故で背骨を傷めたこと、子供の死産、夫の不実といった彼女の人生の出来事の数々をビジュアル化し、それらを一枚の絵に放り込むという手法で絵を描き続けたのだ。確かにシュルレアリスムに見えるが、頭で空想したことを視覚化したのではない。自分に身近な素材を大胆に繋げて極私的な世界を編み上げて行ったのである。
同じような手法はペルーの画家パブロ・アマリンゴにも見て取れる。元呪術師だった彼は、アヤワスカという木の根を煎じた汁を飲んで見た幻覚を、見事にリアルに再現している。その絵にはジャガーや蛇や薬草や精霊が、実に生々しく、ともに描かれている。以前、魔術的リアリズムということばが流通したからその言葉は使わないが、極私的なシュルレアリスムの一例としておこう。
日本では高嶺剛監督の映画「ウンタマギルー」が似た手法を取っている。いかにも沖縄的な素材をシュールに繋げ、小林薫が演ずる義賊でシャーマンのウンタマギルーが大活躍する。エリアーデの「シャーマニズム」にも額に水晶を埋めて第三の眼を開く儀礼が書いてあったが、同じような場面がこの映画にも出てきて、民族学の知識も盛り込まれているのがわかる。さらに日本では舞踏家の大野一雄氏が、函館のモダンな子ども時代を舞踏で表現している。大野一雄氏は、夢想された個人的な過去を踊るという独自の境地を拓いた。これもまた極私的なシュルレアリスムとも言える。
アートはこの線で行くのがいちばんおもしろいのではないかとさえ思えるのだ。



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<span itemprop="headline">ペーター・マーク、あるいは菩薩の音楽</span>

2008-10-08 00:33:28 | 無題

最近、ペーター・マークという指揮者にはまっている。
ペーター・マークは一時期修道院にいて、それから仏教の寺院で瞑想して暮らしていた。二年の修行の後、先達の僧侶に、私たちには修行が向いている。でもあなたはここで得たものを表現する音楽というものを持っている。心の赴くままにしなさい、と言われて音楽の世界に戻った。
ペーター・マークの音楽は、一言で言うと「慈愛の輝き」だ。「慈愛の輝き」といえば同名のアルバムがジョージ・ハリスンにはある。両者は共通したところがある。love comes to everyoneと同様の繊細さがペーター・マークにもある。
特にペーター・マークの慈愛の輝きが前面に出ているのが、シューベルト交響曲全集である。だまされたと思って一度聞いてみよう。ああ、慈愛の輝きだ、と思える音が聞こえる。ペーター・マークの瞑想のダシが効いている。
ペーター・マークではもちろん、メンデルスゾーン交響曲全集やモーツァルト後期交響曲集にも慈愛のまばゆさがあふれている。すごく柔和なベートーヴェン交響曲全集もlove comes to everyoneである。こんなやさしい人が生きていけるなら、自分も何とかなるかも知れないと思わせる。菩薩の音楽だ。



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