6月14日(金)
昨日の日経新聞アートレビュー欄で、作家・平野啓一郎が 梅佳代(うめ かよ) 氏の写真展を紹介していた。
梅佳代? だれかよー? 笑
「日常をユニークな視点で切り取った写真集『うめめ』で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞し、個性派の若手写真家として注目される梅の個展。初期の『男子』『女子中学生』シリーズから新作まで紹介する。」 (日経新聞)
普通の批評家の紹介なら気にも止めないが、平野啓一郎の「空白を満たしなさい」を今読んでいるところなので、オヤっ?
それに、こうして写真中心のブログをアップしている私としては、写真にはやはり興味がある。
「新宿だし、行ってみるか」と、(生まれて初めて)写真展というものに行ってみた。
▲ 新宿西口から初台の方へ20分ほど歩いて、東京オペラシティビルのアートギャラリー3Fに来た。
埼玉のいなかもんの私は、もちろんこんなところは初めて。受付で入場料1000円を払った。
▲ 展示場への回廊には、入り口にもあった、幼児が空を見上げて、ポテトスティック(じゃがりこ?)をバラバラこぼしている大きな写真が。
(キミも、青い空に驚くよね?)
▲ 展示場は5つのセクションに分かれていた。大阪での写真専門学校時代に仲よくなった近所の『女子中学生』と小学生『男子』を撮ったシリーズ。 郷里石川県能登の『能登』そして祖父を中心に家族を撮った『じいちゃんさま』。 そして、梅の本領が発揮するストリートスナップ 『シャッターチャンス』シリーズだ。
1 『女子中学生』
▲ この写真↑はなんてことはないのだが、性への関心をあっけらかんとパフォーマンス化した写真が多数出展されていた。見る方は、常識的に一瞬ぎょっとしたあと、笑ってしまったりするのだが。当時、梅も10代。年齢の近さからくる性への共通の好奇心が、撮る者と撮られる者の間で共振して可能になった、青春おバカ写真記念碑。(どういうパフォーマンスか知りたい人は、見に来るか写真集を買うこと・笑。 でも親御さんは嘆いているだろうな・笑)
2 『男子』
小学生の男子はもっと単純。大人の反応を期待して、自分の「例外性」を記録してもらいたくて、ヘンな顔をして変わったパフォーマンスを、梅の前で繰り広げる。カメラを向ける梅は「うめかよー」つまりUMEKAYOと男子に慕われたようだ。この年代の男子の機微に共感しつつも、冷静で爽やかな梅の視点、関係性が浮かび上がってくる。私も小学生のころが一番ヤンチャで、突拍子もないパフォーマンスをやって、先生に叱られた。そうしたかった時代。
3 『能登』 『じいちゃんさま』
▲ 母校の生徒、現地の隣人を撮る。
さわやかな光と風にのせるようにして、能登の自然と人を展示場に運んでくる。
▲ 郷里に残してきた妹、弟達の祖父(じいちゃんさま)への愛情表出の日常を、梅もまた愛情を込めてシャッターを切って残そうとする心情が伝わってくる。1998年から2013年1月の祖父の写真が展示されている。当年93歳。初期の祖父の表情は、うれしそうに孫のポーズ要求を受け入れているが、最近の祖父の表情は無表情。歳とともに感情が枯渇したところまで、カメラは冷徹に映し出してくる。そこまで読み込むと、切なくなる。
▲ 故郷の飼い犬も生き物として被写体になる。
この犬はカメラを構える梅を見つめる。もう一匹のリード線がおのれの頭上にひっかかっても気に留めずに、こちらを見つめる。もう一匹は、そばにいる梅にまったく無頓着。この瞬間、二人(人vs犬か・笑)だけの関係性・存在が永遠に記録される。
5 『シャッターチャンス』
日常のなかのちょっとしたアクシデントを、もう一度冷静に見直すと、なんとも奇妙なアンバランスな風景がそこに起きている。そこに気づいたときに、湧き上がるなんともいえぬ可笑しみ。そのような可笑しい場面を切り取るセンスは、梅は抜群だ。このセクションではあちこちでこぼれ笑いが聞かれた。ここの写真はお宝、必見だけにネット上でも制限されているようで、これ↓以外ご紹介できないのが残念。
▲ コインロッカーの前に、おじちゃん、おばちゃんが集まって。「じいちゃんは、どんくさいわね。ここはこうして、ああして開けるんよ。ほらやったげる。」まわりのおばちゃんも、一応関心ある振りして見守っているけど、心のうちは、「はよせんかい」かも。(笑)右から2番目のおばちゃんの、黒のロングスカートと白のソックスが、なんともお歳を現していると思いませんか?
とまあ、梅の切り取るストリートスナップは、じっと見ていると、そしてその被写体の関係性を考えていると、おかしみが込み上げてくる。そして、さらにじっと見ていると、そこに切り取られた場面の可笑しさは、今度は自分に語りかけてきて、被写体と自分の関係性をも問うてくるのだ。
「笑うな年寄。オマエが通る道。」じゃないか? といった具合に・・
いくつか気づいたこと:
1.梅は、単なる風景写真は撮らない。人か生き物が中心。われわれの最大の関心はやはり、愛情を注ぎ、注がれることを求める『人間』だからだろう。実は私が好んで撮る自然も、人間が片隅にでも写ると、写真が生き生きしてくることは感じていた。
2.その写真から、被写体となった人物のその瞬間(とき)の「思い」が浮かび上がってくるような写真、時には思いの食い違いすら想像しうるような写真が最高に面白い。
3.撮影者の撮影意図、訴求点が推し量られる写真も、高度な楽しみになる。もっとも、その隠された意図は一般に受容できるものでないと、逆効果だろうが。
4.梅は、その写真に日時、時刻を刻印している。私と同じだ。恐らく、写真に瞬間(とき)の記録性を重視するのだろう。
最後に、梅佳代氏ご本人に出ていただこう。
▲ 梅佳代(うめ かよ) 1981年石川県生まれ
キャノンEOS5のストラップを頭からぶら下げてくれて、ご本人もパフォーマンス精神にあふれているのが可笑しい。
能登の海岸だろうか。
午後3時過ぎに入館し、オペラシティアートギャラリーを出たのは5時近くなっていた。
▲ ギャラリー前で
写真は一瞬を封じ込めることで、その瞬間(とき)を永遠なものにしてしまう不思議な力を持つ。
しかも写真は、記録された途端に永遠になると同時に、その瞬間はもはや取り戻すことも修正もできない過去のものとなったことを、強制的に見る者にわからしめる。
そして写真は、往々にして今の自分に問うてくる。今のままでいいのか? と。
(cf. 荒井由美「卒業写真」)
惰性ではなく生き生きとしていると感じる 『今』 を創り出したい、それによって悔いの無い瞬間(とき)の連続を残していきたいと思った。
(今日は格調が高いなあ・笑)
参考出典: 梅佳代展 公式ホームページ
「卒業写真」YouTube
昨日の日経新聞アートレビュー欄で、作家・平野啓一郎が 梅佳代(うめ かよ) 氏の写真展を紹介していた。
梅佳代? だれかよー? 笑
「日常をユニークな視点で切り取った写真集『うめめ』で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞し、個性派の若手写真家として注目される梅の個展。初期の『男子』『女子中学生』シリーズから新作まで紹介する。」 (日経新聞)
普通の批評家の紹介なら気にも止めないが、平野啓一郎の「空白を満たしなさい」を今読んでいるところなので、オヤっ?
それに、こうして写真中心のブログをアップしている私としては、写真にはやはり興味がある。
「新宿だし、行ってみるか」と、(生まれて初めて)写真展というものに行ってみた。
▲ 新宿西口から初台の方へ20分ほど歩いて、東京オペラシティビルのアートギャラリー3Fに来た。
埼玉のいなかもんの私は、もちろんこんなところは初めて。受付で入場料1000円を払った。
▲ 展示場への回廊には、入り口にもあった、幼児が空を見上げて、ポテトスティック(じゃがりこ?)をバラバラこぼしている大きな写真が。
(キミも、青い空に驚くよね?)
▲ 展示場は5つのセクションに分かれていた。大阪での写真専門学校時代に仲よくなった近所の『女子中学生』と小学生『男子』を撮ったシリーズ。 郷里石川県能登の『能登』そして祖父を中心に家族を撮った『じいちゃんさま』。 そして、梅の本領が発揮するストリートスナップ 『シャッターチャンス』シリーズだ。
1 『女子中学生』
▲ この写真↑はなんてことはないのだが、性への関心をあっけらかんとパフォーマンス化した写真が多数出展されていた。見る方は、常識的に一瞬ぎょっとしたあと、笑ってしまったりするのだが。当時、梅も10代。年齢の近さからくる性への共通の好奇心が、撮る者と撮られる者の間で共振して可能になった、青春おバカ写真記念碑。(どういうパフォーマンスか知りたい人は、見に来るか写真集を買うこと・笑。 でも親御さんは嘆いているだろうな・笑)
2 『男子』
小学生の男子はもっと単純。大人の反応を期待して、自分の「例外性」を記録してもらいたくて、ヘンな顔をして変わったパフォーマンスを、梅の前で繰り広げる。カメラを向ける梅は「うめかよー」つまりUMEKAYOと男子に慕われたようだ。この年代の男子の機微に共感しつつも、冷静で爽やかな梅の視点、関係性が浮かび上がってくる。私も小学生のころが一番ヤンチャで、突拍子もないパフォーマンスをやって、先生に叱られた。そうしたかった時代。
3 『能登』 『じいちゃんさま』
▲ 母校の生徒、現地の隣人を撮る。
さわやかな光と風にのせるようにして、能登の自然と人を展示場に運んでくる。
▲ 郷里に残してきた妹、弟達の祖父(じいちゃんさま)への愛情表出の日常を、梅もまた愛情を込めてシャッターを切って残そうとする心情が伝わってくる。1998年から2013年1月の祖父の写真が展示されている。当年93歳。初期の祖父の表情は、うれしそうに孫のポーズ要求を受け入れているが、最近の祖父の表情は無表情。歳とともに感情が枯渇したところまで、カメラは冷徹に映し出してくる。そこまで読み込むと、切なくなる。
▲ 故郷の飼い犬も生き物として被写体になる。
この犬はカメラを構える梅を見つめる。もう一匹のリード線がおのれの頭上にひっかかっても気に留めずに、こちらを見つめる。もう一匹は、そばにいる梅にまったく無頓着。この瞬間、二人(人vs犬か・笑)だけの関係性・存在が永遠に記録される。
5 『シャッターチャンス』
日常のなかのちょっとしたアクシデントを、もう一度冷静に見直すと、なんとも奇妙なアンバランスな風景がそこに起きている。そこに気づいたときに、湧き上がるなんともいえぬ可笑しみ。そのような可笑しい場面を切り取るセンスは、梅は抜群だ。このセクションではあちこちでこぼれ笑いが聞かれた。ここの写真はお宝、必見だけにネット上でも制限されているようで、これ↓以外ご紹介できないのが残念。
▲ コインロッカーの前に、おじちゃん、おばちゃんが集まって。「じいちゃんは、どんくさいわね。ここはこうして、ああして開けるんよ。ほらやったげる。」まわりのおばちゃんも、一応関心ある振りして見守っているけど、心のうちは、「はよせんかい」かも。(笑)右から2番目のおばちゃんの、黒のロングスカートと白のソックスが、なんともお歳を現していると思いませんか?
とまあ、梅の切り取るストリートスナップは、じっと見ていると、そしてその被写体の関係性を考えていると、おかしみが込み上げてくる。そして、さらにじっと見ていると、そこに切り取られた場面の可笑しさは、今度は自分に語りかけてきて、被写体と自分の関係性をも問うてくるのだ。
「笑うな年寄。オマエが通る道。」じゃないか? といった具合に・・
いくつか気づいたこと:
1.梅は、単なる風景写真は撮らない。人か生き物が中心。われわれの最大の関心はやはり、愛情を注ぎ、注がれることを求める『人間』だからだろう。実は私が好んで撮る自然も、人間が片隅にでも写ると、写真が生き生きしてくることは感じていた。
2.その写真から、被写体となった人物のその瞬間(とき)の「思い」が浮かび上がってくるような写真、時には思いの食い違いすら想像しうるような写真が最高に面白い。
3.撮影者の撮影意図、訴求点が推し量られる写真も、高度な楽しみになる。もっとも、その隠された意図は一般に受容できるものでないと、逆効果だろうが。
4.梅は、その写真に日時、時刻を刻印している。私と同じだ。恐らく、写真に瞬間(とき)の記録性を重視するのだろう。
最後に、梅佳代氏ご本人に出ていただこう。
▲ 梅佳代(うめ かよ) 1981年石川県生まれ
キャノンEOS5のストラップを頭からぶら下げてくれて、ご本人もパフォーマンス精神にあふれているのが可笑しい。
能登の海岸だろうか。
午後3時過ぎに入館し、オペラシティアートギャラリーを出たのは5時近くなっていた。
▲ ギャラリー前で
写真は一瞬を封じ込めることで、その瞬間(とき)を永遠なものにしてしまう不思議な力を持つ。
しかも写真は、記録された途端に永遠になると同時に、その瞬間はもはや取り戻すことも修正もできない過去のものとなったことを、強制的に見る者にわからしめる。
そして写真は、往々にして今の自分に問うてくる。今のままでいいのか? と。
(cf. 荒井由美「卒業写真」)
惰性ではなく生き生きとしていると感じる 『今』 を創り出したい、それによって悔いの無い瞬間(とき)の連続を残していきたいと思った。
(今日は格調が高いなあ・笑)
参考出典: 梅佳代展 公式ホームページ
「卒業写真」YouTube