公園が在りました。
記念碑のようです。「釜屋跡」です。記念碑の上は、蟹でしょうか?
今どきの落とし物です。
ここはなんだろう?と説明を読みます。
「太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住まい釜六は明治時代まで釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られなべかまの日用品をはじめぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した 昭和三十三年十月一日 江東区第十九号」
なるほど、ここに鋳物工房が在ったのですか。・・・それだけの話か?と目をやると、そこには大きな石碑が有ります。
・・・読めません。
でも隣のこれって、中学校で習った「肥料の三要素」ですね。釜屋の話ではないのですか?
と見れば、向こうにもう一つ石碑が有ります。「尊農」と書いています。「尊皇」ではありません。
下には大根やカボチャや稲や、農作物のレリーフです。
こちらの文字は読めそうです。「先覚渋沢栄一益田考等の諸氏は維新当初に於いて我が国運の躍進は必ずや人口の激増を来し食糧問題は実に邦家将来の緊要案件たるべきを洞察し農業の発達と肥料の合理的施用とに因り之が増収を企画すべき堅き決意を為し欧米に於ける化学肥料の研鑽者たる高峰譲吉氏の協力を得て明治二十年初めて此の地に東京人造肥料会社を設立し過燐酸肥料の製造を開始せり是れ我が国に於ける化学肥料製造の嚆矢なり 本業は官民の協力に因りて暫時進展し後更に空中窒素固定工業の勃興するに及び農業生産の飛躍的増収に絶大なる貢献を為すに至れり今や曠古の非常時局に際会せるも能く一億国民の食料を確保し前線銃後の憂いなきに至りしは蓋し化学肥料の発達普及に負うも多しと謂うべし
同社は後に大日本人造肥料株式会社と改称し此の地は釜屋堀工場となりしも不幸大正十二年の関東大震災に壊滅し爾来二十星霜の久しき寂として之を顧るものなきを遺憾とし茲に関係同士あい謀り碑をこの阯に建てて由来を刻し永く偉績を顕彰すると共に我国農業の興隆を期し以て皇国の盛運を奉頌す 昭和十八年十一月 化学肥料創業記念碑建設会」
ここは鋳物工房の跡地だけじゃなかったのですね。しかも、ここにも渋沢栄一の名前が出てきます。彼は江東区に縁深い人で、散策すると時々遭遇します。
裏を見ます。なるほど、錚々たる会社が並んでいて、ここにも最初に「青淵」の名が刻まれています。渋沢栄一の雅号です。
・・・そしてこんな物も在ります。
ビオトープです。半夏生真っ盛りの池です。汚い池だけど・・・。
ここは鋳物工房の跡地ばかりでなく、近代日本発展の為に重要な場所だったんですね。
公園脇を見ます。横十間川の向こうにスカイツリーが望めます。
反対側は大島橋です。先日この木製の遊歩道の下にカヤックで潜り込みました。
去り際に改めて振り返りました。
殆どの人に知られないで佇んでいます。