藩士が毎日登城した坂道を上がります。松山城は21棟の重要文化財を持つ城です。
中ノ門跡から見えるのは多門櫓でしょうか?
筒井門西続櫓を見上げながら行きます。
戸無門です。
隠門です。
ちょっと振り返ります。
太鼓門続櫓かな、などと言いながら上がります。
本丸広場にやって来ました。
折角だから天守閣に上がりましょう。もう来ることは無いので。
本丸を見上げます。
パンフレットを読みます。 「松山城は海抜132m勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀之内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二の丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にも珍しい「登り石垣」が配されている。」
「松山城の創設者は加藤嘉明である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移す工事に着手した。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。」
「当時の天守閣は五重で偉観を誇ったと伝えられる。しかし嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)に会津に転封される。そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二の丸の建造を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。」
「その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名藩城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年(1639)定行は、3年の歳月をかけ、築城当時五重であった天守閣を三重に改築する。天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。」
「ところが、9代松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)、父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作業場の火災で頓挫する。これを引き継いだ12代藩主松平勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。」
「これが現在の天守閣で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守を持ち、慶長期の様式を引き継ぐ、わが国最後の完全な城郭建築といわれる。」
さて、天守へ行きます。