荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

東京都知事選挙ポスターが異常!

2024年06月23日 | 散文

前回(2020年)報告した東京都知事選挙ポスターの記事にアクセスが多いです。今回も皆さんが注目している選挙です。ただし、その注目対象は掲示板です。

今回はそれ以上の騒ぎになっています。N国党によって立候補者掲示板がジャクされている事がニュースになっています。各所で注意して見ていましたが、全ての掲示板がそうなっている訳ではありません。そんな中、これが近くの公園に有りました。TVニュース等で見たのとは掲示内容が違います。色々な種類のポスターがあるようです。女性のヌードも有るとか? 

このポスターは赤ちゃんが怒っています。「わたしたちの未来をどうしてくれるのか!!」と。内容は真っ当な、選挙のたびに選挙管理事務所が苦心している「投票促進」です。でもね、批判を避ける為に作ったポスターのように思えます。こうやって、硬軟織り交ぜる戦略でしょうか?掲示責任者は立花孝志氏です。

彼は選挙掲示板を第3者に売って商売にすると明言しています。儲かるらしいです。法に触れないそうです。その発想力と企画力は抜群です。

でもね、その才能が残念に思えます。その才能を金儲けでなくて、本当の政治家らしい方向で発揮すれば、多くの人に支持されるのになあ・・・。

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伊予桜井駅

2024年06月23日 | 散文

田舎には不釣り合いの広い道路です。左右に日通や西濃運輸のトラックが横付けされていました。中学生の頃の話です。貨物の中継店や商店や精米所や床屋が在りました。漆器製造・販売の在る浜桜井地区に対する流通の中心地だった、郷桜井です。

昔は沢山の自転車預り店が在りましたが、モータリゼーションによって自家用車が増えると駅を利用する人が減りました。今はこの1軒だけです。

突き当りは「JR伊予桜井駅」です。

多くの高校生は駅前に路駐しています。違法ではなく、駐輪場になっています。駐輪しているのは、地元今治東高の、ここから電車で帰った生徒たちか、地元以外の高校に行っている、これから電車を降りて自宅に帰る地元の生徒です。

「綱敷天満宮」最寄り駅です。

予讃線の終着駅だった時期もあります。国分寺・国分尼寺等も在って、国府の中でも「府中」と呼ばれた政治・商業・文化の中心地でした。

駅舎です。

今年は「予讃線 伊予西条駅⇔今治駅開通100周年」らしいです。

駅舎に入ります。

そこには地元今治東高生の研究成果が展示されていました。曰く「今治市に国府が置かれた理由は古墳が教えてくれた!」です。

要約すると、松山より狭く人口も少ないのに今治に国府が置かれていた理由は?

今治は数本の河川があり潮待ち・風待ちの津でした。古墳は墓だけでなく、津の位置を示す目印でした。

「白村江の戦い」に敗れたヤマト政権は朝鮮半島からの鉄の輸入先を近江に求め製鉄を独自に始めました。砂鉄が採れる今治でも製鉄が始められました。

まとめ:「鉄資源の獲得を初め、渡来人を介した技術導入の必要性から、瀬戸内海の安全航路は最重要課題であった。最大の難所である来島海峡に面し、多数の川が形成する今治の津は、絶好の潮待ち・風待ちの場所となり、古墳は安全な航路を導く目印の役目も果たした。更に島嶼部では盛んに塩も生産されたことから、ヤマト政権は今治を重要視した。

その証が前方後円墳の造成や三角縁神獣などの副葬、遺跡での銅剣出土である。加えて、白村江の戦いの敗戦は国内製鉄の必要をもたらし、浜砂鉄に恵まれたこの地が官製製鉄を行う場所に選ばれた。以上が今治に国府が置かれた理由である。」

その他、「古代の桜井」や「250年の歴史を持つ桜井漆器」の説明も在ります。勉強になりました。今治東高の皆さんありがとうございました。

ホームに出ます。向こうは2番線ホームです。背景の緑が濃いです。

陸橋で渡ります。今治まで2駅、280円です。

その線路の左手に、白い看板が有ります。

久し振りに行ってみます。界隈は歴史の宝庫です。

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これぞ四国らしいうどん店の風景

2024年06月22日 | 散文

甥っ子が「四国一美味い!」と言うので食べに来ました。チェーン店です。

よく意味が分かりません?要は安いって意味なんでしょうね?

実際美味しかったです。お遍路さんも食べていました。珍しい風景ではありませんが、

向こうにも女性連れが居ました。

こちらにも二人連れが!こんなに沢山のお遍路さんがうどんを食べている景色は初めて見ます。お遍路さんの間で、美味い店の情報の共有化が行われているのでしょうか?

これぞ四国らしいうどん店の風景です。

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桜井「歴史散策まち歩き」看板

2024年06月22日 | 散文

綱敷天満宮の西参道です。

ここに志々満保育園が在ります。私はここの卒園生です。

勿論何もかも変わって面影は残っていません。

ここに新しく「歴史散策まち歩き」看板が出来ました。

今回の帰省で訪ねた場所の多くが紹介されています。

やっと町をアピールする気になったようです。今治市は「移住したい町ナンバーワン」らしいです。そんなこともあって、この看板を設置したのでしょうね。先日の地元ニュースで、昨年度の移住人口は1800人強らしいですが、私の周囲にそんな気配はありません。

老幼なじみに訊くと、どうやら人が移住しているのは、平成の大合併で今治市になった島しょ部が中心だとか。旧今治市は人が流出しています。

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椀船の港

2024年06月21日 | 散文

「衣干岩」のすぐ傍です。椀船の港です。

ここから九州や中国・近畿に出かけて行きました。

古い防波堤です。満潮時には水没します。丁度干潮に近いです。

ここが「椀船の港」です。

以前は堤防に下りられました。

上流です。

1本の大きな木が有ります。夏には蝉が煩くしますが、平素は静かな場所です。木陰を落とします。

石碑です。

句があります。

漆器椀を満載して、行商人も載せて、帰りは各地の名産を積んで、椀船が往来した港です。

昭和の中頃までは賑やかでした。もう昔の話になりました。

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衣干岩

2024年06月21日 | 散文

お台場を過ぎて、保養所跡も過ぎて、「椀船の港」近くに来ました。すぐ先が河口です。松の茂みが有ります。

史跡「衣干岩」です。

説明板です。こんな謂れの岩です。

サイクリングロードになっています。歴史の道です。

近くに菅原道真公を祀った「綱敷天満宮」が在って、「志々満保育園」が在ります。卒園生の私は物心ついた頃からこの岩の存在を知っていましたが、「菅原道真公」ゆかりの岩とは知らないで登っていました。

ぐるりと回って眺めます。大きな松が枯れています。

大人になって見ると低い岩ですが、

数年前に登ってみたら、上で立つと結構高いです。

今日は、止めました。由緒ある岩ですもの。

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桜井お台場跡

2024年06月20日 | 散文

東京の「お台場」が有名ですが、当時日本の沿岸に多くの台場が設けられたのではないでしょうか?

そんな名残りです。

少し高くなっていて、台場の名残りを留めています。江戸末期の遺跡がこんな風に残っています。

子供の頃、周辺は海水浴場で賑わっていました。保養所が朽ちています。

こんな施設と料理屋が界隈に沢山ありました。

太平を謳歌していた江戸末期にあわただしく台場が造られて、昭和のレジャーブームが到来して、やがて誰も海水浴をしなくなりました。時代の変遷を感じます。

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桜井漁港の昼下がり

2024年06月20日 | 散文

あれっ⁉ 防波堤には行けなくなっていました。残念です。岸を散策します。

昼下がりの漁港は誰も居ません。無人の作業小屋です。

漁船が繋がれています。舫い綱です。防波堤の向こうには兵市島です。

梅雨の晴れ間の、昼下がりの漁港です。

網の修理の途中です。昼寝の時間でしょうか?

岸を歩きます。

子供の頃から変わらぬ風景です。

新しい桟橋が出来ていました。昨年は無かったものです。

タコ釣り船です。

古老が、梅雨ダコは旨い、と言っていました。今がシーズンですね。

陸にもタコつぼです。

漁船の向こうの兵市島を眺めます。故郷の海岸の何処からでも見える島です。

作業小屋です。魚をさばく台でしょうか?今も漁民の営みは変わりません。

廃屋が目立ちます。後継者も漁獲量も減っています。

農家と同様、離職が進んでいます。

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漆器の町を行く。

2024年06月19日 | 散文

桜井は漆器で栄えた町です。往時程の勢いは有りませんが、今でも漆器製造・販売の家が在ります。数年前から売りに出されていた民家です。売れたようですね。今治市はここ数年間、「移住したい町ナンバーワン」らしいです。

酒屋の蔵です。漆器職人が多く居ました。需要があったのだと思います。立派な蔵です。今は廃業しています。

左右の大きな家が、今でも漆器の家です。

「小谷屋」は椀船を所有して、九州や中国・近畿に漆器を販売していました。

「椀船」とは、お椀型の船ではありません。漆器のお椀のことです。お椀を積んで商売していました。

今でも漆器蔵を持っています。

向かい側は同級生の生家です。昼なお暗い大きな家だったのを覚えています。

彼女の弟が家を継いで、今ではその子供の代になって、漆器の製造・販売を商っている様子です。

漆器蔵です。

商売が順調のようです。

振り返ります。

昔と同様、静かな通りです。

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綱敷天満宮絵馬堂

2024年06月19日 | 散文

綱敷天満宮には大きな絵馬堂があります。私が保育園生の時から在る絵馬堂です。

いつものように絵馬を見ようと見上げました。

・・・有りません。絵馬が・・・?

ぐるりと見回しても、何にも有りません??

後日報告する(たぶん)「石丸忠兵衛」の墓と石碑を訪ねた際に出逢った、綱敷天満宮氏子の某部落総代の青年が教えてくれました。全く偶然の出逢いです。

「絵馬が古なって、落ちそうになっとったんよ。危ないけん絵馬を下ろしての、氏子の代表が集まって相談したんよ(有名な天満宮なので多くの氏子を持っています)。そりゃ全部古い歴史のある絵ばいよ。最初はの、どこか文化施設に寄贈しょうや言うて問い合わせたらの、『絵が不鮮明じゃけん修復してからじゃないと預かれん』言うんよ。補修の費用を調べてビックリよ、ムリムリ。下ろしたまま放っとけんけん、『誰かが決めないかんわい。わしら氏子代表の代で燃やそや』と決まったんよ。反対意見もあったけんどの、家に飾れる大きさじゃないわい。皆いなしぶしぶ承知したんよ。そがな中でわしは1枚持って帰ったんやけど、『そがなん何処に置くんぞ。汚いし、何が描いてあるんかよう分からんもんを』と嫁が言うんよ。それでしょうがないわい、部落会場に置いとんよ。会場やて広ろないわい。部落の皆いなから『総代、これどうするつもりぞ!?』と責められとるんよ」(方言風に脚色あり)

<在りし日の絵馬です>

何が描かれていたのか分からないくらい古いものが奉納されていました。美術的、歴史的、文化的価値があるものと私も思います。

 

 

 

 

あの部落総代がどれを持っているかは不明ですが、大切にしてくれることを祈ります。

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綱敷天満宮

2024年06月18日 | 散文

北参道を行きます。

中央部から見る東参道です。

桜井は漆器の製造販売が盛んでした。その販売の過程から「月賦販売」が興ったと、小学生の頃習いました。「月賦販売発祥の地」碑です。

拝殿です。

菅原道真公が太宰府遠流の途中、嵐に遭ってここの海岸に流れ着きました。救出した漁師たちですが、敷物がありません。漁で使う綱を丸く巻いて座布団としました。その謂れから「綱敷天満宮」と言います。

拝殿の正面が南参道です。鳥居の先は「椀船の港」に通じます。広大な境内は瀬戸内海国立公園の松林です。

菅原道真公ゆかりの天満宮です。

公にちなんだ銅造の牛や、鷽や筆塚の石彫が有ります。

とても大きいものです。前述のとおり、当所は漆器の町です。石彫の大きさは豊かな町だったと思わせます。

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漁師町を行くと、

2024年06月18日 | 散文

漁師町の路地に「四国のみち」があります。サイクリングロードです。

サイクリングロードから漁師町の路地に入ります。

だんだん住民が減っています。

そんな路地を行きます。

海が近いです。

路地に戻ります。子供の頃に多くの友人と遊んだ路地です。

銭湯跡が在りました。

「梅田湯」だっと思います。従兄弟と入浴した銭湯です。

こう見えて、営業中の理髪店です。左に曲がります。

大きな鳥居に出逢いました。

綱敷天満宮北参道です。

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屯田川河口から

2024年06月17日 | 散文

帰省すると必ずここに来ます。屯田川河口です。この川が町の境です。左(北)が富田で、右側(南)が桜井です。ちょうど良い具合に干潮です。

いつものように桜井側から砂州が露出した砂浜に降ります。

南側を眺めます。海の向こうに四国山脈が望めます。その下には、新居浜の工場地帯です。

靴で行ける所まで行きます。足元を潮が洗います。沖には「比企島」や「魚島」等々の、瀬戸の島々です。

上流です。川底が露出しています。こんなに潮が引きます。

北側の砂は細かいです。背後は「しなまみ」街道を形作る島々です。

振り向けば私の足跡です。

目を上げれば故郷の山河です。「霊仙山」です。長曾我部元親の四国統一事業で滅ぼされた城がありました。

北側には「日本食研」の工場です。

目を南に向けます。赤灯台の先に「唐子山」、右の山塊が「世田山」、背後に「石鎚山」と四国山脈です。

更に右を見ると、「世田山・笠松山」の連山です。太平記の「世田山合戦」の舞台です。沢山の人が死に、北朝の世になった歴史の転換点となった場所です。特に笠松山の「野々瀬口」の戦いが苛烈で、敵味方の死体が折り敷いて地面が見えない、と記されている場所です。

「唐子山」です。あそこに福島正則が城(国分城)を築き、後に入って西軍に付いた小川祐忠が関ケ原の戦いで敗れ、東軍に付いた藤堂高虎が入領後、取り壊して今治城築城の材料にした歴史があります。「唐子山」の命名者は、その国分城を壊した藤堂高虎です。頂上の松の木が唐人の子供の頭に似ていたそうです。今は数本の木ですが、当時は城を取り壊した後のボウズになった山頂に、1本の松が残っていたのではないでしょうか?関ヶ原の戦い直後の話です。

サイクリングロードを行きます。桜井漁港へ行く道です。

白砂青松の砂浜の向こうの兵市島を望みながら走ります。

故郷の山川海はありがたいです。帰ればいつもそこに居ます。

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「猿飛佐助」の作者「山田阿鉄」の墓

2024年06月17日 | 散文

やって来ました「観音禅寺」です。今治北高の隣に在ります。

三門を入ったら正面にこれが有ります。。

左右から眺めます。

その隣にも像が有ります。こちら「こぼすなさま」です。

ひょうきんな顔です。

猿飛佐助像の左側です。こちらは「當り童子」です。

こちらも同じくひょうきんな顔です。

裏を見ました。猿飛佐助像も含めて同じ作者です。顔と雰囲気がよく似ています。

さて、肝心の「山田阿鉄」の墓を探します。広大な墓地でした。やっと探し当てた墓です。石崖を背景に立っていました。「山田阿鉄」の文字は無いけど、スマホで検索したので間違いありません。

帰り際にもう一度見ます。誰かに似ていませんか?

奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者が作ったそうです。

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猿飛佐助の像

2024年06月16日 | 散文

私も含めて、先輩の方々は皆さん知っていると思います。

「猿飛佐助」の像です。

設置場所はJR今治駅の東口の前です。

説明碑が有ります。「猿飛佐助と山田阿鉄 明治・大正時代、空前のブームとなった大衆娯楽小説『立川文庫』の原作者は、今治市出身の山田一族である。そして、その執筆の中心として活躍したのが、山田阿鉄である。 立川文庫は明治44年から約13年間に196巻出版されたが、どれも人々の心をとらえ、爆発的な売れ行きであった。中でも、大正3年に発売された第40巻『忍者名人猿飛佐助』は大ベストセラーとなった。ここに、忍者といえば猿飛佐助といわれるほどのスーパースターが誕生したのである。その猿飛佐助は、真田十勇士とともに映画やドラマ、漫画などに次々と登場し、後世の文壇にも多大な影響を及ぼしている。 

日本全国、猿飛佐助を知らない人はいないといってもよいだろう。時代を越えて人々の心の中に生き続け、これからも語り継がれていくことだろう。 この偉業を成し遂げた山田阿鉄の遺骨は、今治市の観音禅寺に静かに眠っている。」

雲に乗って大活躍する佐助像です。

ここは「瀬戸内バス」の停留所です。

今日私が利用するバスです。なんと、最終便は20時です。東京の繁華街だったら宵の口、これから盛り上がる時間であり、サラリーマンだったら仕事が終わって1軒目に入る時間です。

5時半に落ち合って、ちょっと物足りない状態でお開きにしました。タクシー代が3000円を超える場所に住んで居る私です。バスだと480円です。現役時代はタクシーでの移動だったけど、年金生活です。で、乗った最終便車内です。

田舎の人は仕事でも遊びでも自家用車を使います。従って利用者の少ないバス便ですが、数人の外国人旅行者を含めて20人くらいの乗客がありました。

予告:後日、「猿飛佐助」の作者「山田阿鉄」の墓所を訪ねました。

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