東電の旧経営陣に巨大な津波は予見できないと無罪が言い渡された。なんだかおかしい。いくつかの取り違えというかすり替えがあると感じた。
まず、無罪とは言えないと思う。全く申し訳ないという気持ちがないのなら、形式的な無罪という絡繰りが通るかもしれない。しかし、全く申し訳ないという気持ちがないとは思えない。何らかの責任は感じているだろうと忖度する。とすれば、無罪はしっくりしない。一方で有罪とするのも難しい。懲役一年執行猶予三年とすれば、なぜと聞かれてうまく判決文が書けないので力不足の裁判長は無罪に逃げたようにも思われる。
個人を責める気にならないという住民のコメントも紹介されているが、人を責めても元に戻らないという気持ちからだろうか。有罪というのは責めるのとは違うと思う。責任者には何らかの責任を取ってもらうということだ。そうしないと失われた故郷や資源は稀な事故に遭遇で終止符が打たれてしまう、原因が追及されず、又いつか同じ過ちが繰り返されてしまう。失敗に反省がなければ原因が究明されなければ、何の改善進歩も残らないだろう。不運に打ちのめされた人は浮かばれない。
判決文を読んでいないし福島原発事故を調べている訳ではないので思い違いがあれば、容赦していただきたいが、福島原発の事故は津波だけで起きたわけではなく、冷却水を供給できていればメルトダウンには至らなかったと聞いている。総合病院には必ずある自家発電装置が専門の電力会社なのに万全の準備が出来ていなかったと聞いている。落ち度があったのは明らかで、それを千年に一度の津波という、自然災害にすり替えてしまっている。
裁判長は無謬を求められては原発はできないなどという無理な比喩をしているらしい。科学技術に深い理解のない人に電力会社の事故判断や経営を任せるのは賢明とは思えない。ファイブナインが無理ならフォーナイン、それも難しければスリーナインと正直に対応して、スリーナインが出来たらフォーナインと改善してゆくのが科学で、無謬などと言い出したら何もできない。部屋に閉じこもって生きていることさえ無理だろう。