キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

カタールで走る理由

2010年01月29日 | Weblog
今日はカタールに来てから初めての休日。
早速、キャンプから海岸まで走った。

1年前も黙々と走っていた見慣れた道。
ときには相方とも走った思い出の道。
そんな感傷に浸りながら走ろうと思っていた。

そしたら、あれ、なにか変だ。
体が重い。
前に進まない。
息が苦しい。

横浜で走っていたあの軽快で楽しい感じがない。
ぐっと加速する喜びがない。
風をきる爽快感がない。

なんだこれ。

結局理由もわからぬまま1時間走ってもうくたくた。
くたくたというよりどろどろ。
でら、えらい。
全然、スピード出てないのに。

考えられるいくつかの理由。
1) 時差ぼけ、移動の疲れが残っている ---> それはもうないだろうな
2) 工事用大型車がよく通る道のため排ガスがすごい ---> 横浜も多かれ少なかれ排ガスはあるし
3) 土漠地帯で起伏のないどこまでも平らな地形なため、景色が変わらず退屈 ---> それもないかな
4) 気温が日本より高く、日差しが強い ---> といっても今は日本の春くらいの陽気だ
5) アスファルトだけでなく、けっこうやわらかい土の上も多く走る ---> これが大きい気もするけど…それにしたって疲れすぎ。

こうかんがえると、なにかどれも決め手に欠ける。
いずれにせよ、横浜に比べて走ることがひどく辛い。

もし、僕がこの環境で育っていたら走ることが好きにならなかったかも。
カタール人、ひいてはアラブ系の人たちが元来走るスポーツをやらない理由がそこにもあるのかも。

とりあえず、僕がこの変な土地で走るのは、日本でまた楽しく走るため、と決めた。

涙の出し方

2010年01月29日 | Weblog
こんなとき、ちゃんと泣くことができたらいいんだろうな。
そう思うくらい寂しかった。
そういえば、いつのまにか涙の出し方を忘れてしまっていたと気付いた。

映画で感動して泣いてしまうことがある。
スポーツを見ていて、涙が出ることがある。
でも、そのどちらもうれし涙の部類に入る。

「努力したことが報われてよかったね」

という、類の涙。

考えてみたら、悲しくて、悔しくて涙を流したのはいつだったろう。
はっきりと覚えているのは高校の試合かな。
でも、そのときは涙は結局出なかったのかな。

それ以前にさかのぼると中学のバレー部の練習中。
あのときは、悔しくて泣いたことをはっきり覚えている。

でも、そのころから泣きたくない、泣いてはいけないと強く思うようになって、涙を堪える方法を覚えて、そしていつか泣き方を忘れていた。
どうしてそんなふうに思ったんだろう。
そこが、思い出せない。

涙が出ると、感情も一緒に外に出て、どっと溢れて、心の内がすっきりするように思う。
涙が出ないと、泣き方がわからないと、悲しくて寂しくても自然に体が、顔が、心が勝手にコントロールして涙と泣く感情を心の奥に押し込んでしまう。
心に悲しさと寂しさを残したまま。

うーん、小さい頃はあんなに泣いていたのに。

尊敬したい人

2010年01月29日 | Weblog
昔から思っていたこと。
そして、特に今思うこと。

言い訳ばかりする人は嫌いだ。
加えて、人のせいにばかりする人はもっと嫌いだ。
さらに、それが上の立場の人だと目も当てられない。

どうしてか、自分の上の人には尊敬できる人であって欲しい。
どうしてか。

どうしてか…。

また、カタール

2010年01月27日 | Weblog
突然の事ながら、またカタールに赴任となった。
とりあえずはその報告。

あと、一年くらい前になるが海外旅行中に携帯電話をなくした。
なくしたというか盗られた。
タンザニアから成田までのフライトで機内預けにしていた荷物が知らないところで開けられていて、携帯電話がなくなっていた。
そのせいで、今は高校と大学の友人の連絡先がごっそりとわからない。
この春くらいにはそういう連絡先のわからなかくなってしまった友達も新たに見つけていこうと思っていた矢先の赴任なので、友達探しは夏くらいに始めようと思う。

とにかく、またしばらくカタールなので、どうせならこちらでしか考えないようなことをしっかりと考えて、ここにも記録しておこうと思う。

新しい町の食堂

2010年01月16日 | Weblog
新しく住み始めた町で明るくて感じのいい大衆食堂を見つけた。
そこへ夜に一人でのそのそと夕食を食べに行く。
初めはお酒なんて飲まないつもりだったけれど、好きな焼酎があったのと、周りがめっぽうおいしそうにお酒を飲んでいたため一杯だけ注文する。

いろいろなお客がいる。
5人のおばさんと1人のおじさんが世間話をしているテーブル。
夫婦と小さな子供2人(姉と弟)のテーブル。
広い座敷席では3団体ほどが大いに盛り上がっている。

そのそれぞれのグループを交互に眺めながら、ご飯とチャンプルを食べながら焼酎を少しずつ飲んだ。

夫婦と兄弟のテーブルでは、大人二人がビールを飲みながら熱心に話している脇で、申し訳程度に与えられたラムネをちびちび飲みながら退屈そうに子供二人が顔を見合わせたり、テレビを見たりしている。
そういえば、兄弟同士で見つめ合うって言うのはどういう気持ちなんだろうか。
少し真剣に考えてみたけど、答えは出なかった。
でも、目の前の二人は特に面白そうでもなく、でも恥ずかしさや気まずさで目をそらすこともなく、ただただ家族で結ばれたお互いを不安も期待もなく見つめているように見えた。

もうすぐカタールへ再赴任となるため、その前に少し文庫本を買いだめした。
でもあれば読みたくなるのが人間の性で、何冊か読んでしまったが、また何回目かの村上春樹熱が再来してきたようだ。
しばらく遠ざかっていたあの世界に、また帰って来たんだなあという妙なうれしさがある。
村上春樹の、あれくらい主人公の目線なのに客観的で冷静な気持ちでいられたらこの食堂の様子は随分と違って見えるんだろうなと思った。
一度、村上春樹氏にこの情景を書いてみて欲しいなと思う。
自分の似顔絵を観光地の画家さんに書いてもらうような感覚で。




山あいの小さくてセンスのいいお店

2010年01月11日 | Weblog
金沢と能登半島を旅行してきた。
雪景色と日本海と寒ぶりに期待して。

一泊目は湯桶温泉という能登半島にある山間の小さな温泉街に泊まった。

金沢からバスで1時間くらいの場所。
夕方に宿に着き、100mくらいの短いメインロードをぶらぶら歩いてみた。

すると、温泉宿くらいしかないこの通りに一店だけ小さくてお洒落な小物屋さんがある。
『ひぐらし』という名前のお店。

店内には数こそ多くはないがセンスのいい小物がずらり。
陶器から織物まで。
一つ一つには作家さんの名前がある。
中には明らかに実用性度外視の奇抜なコップもあるが、これがまたなんともいえない魅力。

女性の店員さんが一人。
その人は日本各地を周って、気に入った作家さんの作品を集めているのだそう。
そのセンスが僕にも夕夏さんにもどんぴしゃ。
ラオスやブータンの古布を使った作品や、小さな車を模した陶器など数点を購入。

お店は土日だけの営業。
平日には誰も来ないからなのだそう。
確かに、土曜日の夕方である今でさえお客は僕らだけ。

それにしても、どうしてこんな山間の人が少ないところにお店を出しているのだろうか?
「この静かな地域が好きなんですよ」

その考えを持っている限り、世間摩れした僕の感覚なんて通じないんだろう。