キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

がんばる

2011年05月30日 | Weblog
「『頑張れ』と言われることがどれほど辛いことか、あなたには想像できますか?」

新聞に紹介されていた東北の被災者の声だ。

「頑張れ」
直訳すると、頑なに張れ。
ただでさえ気を張りつめ続けていて、リラックスのできない、不安な日々を送っている人にとって、これ以上「気持ちでも体でもとにかく頑なに張りなさい」と言われるのは、確かに苦痛で辛そうだ。

僕自身は、スポーツでも受験でも就活でも、頑張れと言われて嫌な気になったことはないが、それは極限まで追いつめられたことがないためだろう。

よし、もう「頑張れ」と言うのはやめよう。

とそう思っていたら、「がんばれ」の語原は、実は「頑晴る」なのだという記事があった。
あくまで一つの説に過ぎないそうだが、その真偽は別としても、なんだかいい言葉だなと思った。

「頑なに晴る」

それでも、被災者の方々に気安く「頑なに晴れていて下さい」とは言えないけど、せめて自分だけはいつも晴れているよう心がけたい。

その方が、頑なに気持ちや体を張っているより、自分も周りもいい雰囲気の中で生きていけそう。

これから僕の一番苦手な梅雨の季節だ。
それでも心の中は、頑晴って過ごしたい。

山中湖ハーフマラソン2

2011年05月29日 | Weblog
ちょうど台風と鉢合わせた今回のハーフマラソン。
出場者ばかりが泊まっていた宿の食堂では、朝食時に半数近くが既に棄権を表明。
それくらい、外はざんざん降りだった。

なにはともあれ、始まった山中湖ハーフマラソン。
これまでのマラソンにはなかった初めてのことがいくつか。

1) 夕夏と初めて同じスタートラインに立てた。
これまで、マラソンや駅伝など同じ大会に出場することはあっても、同じ距離として一緒にスタートできたのは初めて。
これはうれしい。

2) どしゃぶりの中の長距離試合。
短距離で大雨というのはあっても長距離は初めて。
直前で帽子を買って正解だった。
目に水が入ってこない。
そのせいか、それとも気温がそんなに低くならなかったせいか、あまり雨を意識することなく走ることができた。

3) 前足部で走りきることができた。
『Born To Run』を読み、五本指の靴、そしてNikeのFreeを履いてのトレーニングを踏まえ、踵から接地することを極力避けた。
踵からの接地だと、特に疲れたときに体(腰)が沈み込むような感じになり、接地時間も長くなり、疲労がそのまま失速につながっていくようだった。
それが、前足部で接地すると、疲れていてもいい姿勢が保て、接地時間が短く、楽に前に進むことができる。
問題はふくらはぎや足裏の筋肉がどこまで持つかだが、なんとかハーフまではいけるようになった。

4) イーブンペース。
前回の青梅マラソンでは、人生最大の失速をやってしまった。
失速していく一方で、ゴールすることだけが目的になっていた。
その辛かったこと、辛かったこと。
その反省から、今回はとにかくイーブンペースを心掛けた。
アップダウンのせいで多少の上下はあったが、最後までキロ4分45秒平均を維持できた。

走っているときには、いろんな事を考えた。
考えたというよりも頭をよぎった。
仕事のこと、将来のこと、夕夏のこと、子供のこと…
そのどれもがポジティブな方向へ考えが進んでいった。
それらは、ふっと頭の中を通り過ぎただけで、ほっておいたらすぐに忘れてしまうものばかり。
でも、一応考えたということ自体は残しておきたくて。

刹那的な考えだけど、この走っている瞬間がすごく楽しくて幸せに思えた。
雨でもそんなの関係なくて、むしろこれだけ大勢の(夕夏や僕も含む)人たちが、等しく同じ受難の中でそれに挑戦しようとしている、そのことがなんだかうれしくて、面白くて、やってやろうという気にさせる。

激しい雨にもかかわらず、沿道には子供からおばあちゃんたちまでが元気に「がんばれー、がんばれー」と応援をしてくれる。
僕も手をふって「ありがとう」と、それに応える。
すると不思議なことに、自然と力がわいてきて、足取りに力強さが戻ってくることに気がつく。
マラソンブームが終わって、今ほど参加人数が多くなくなって、少し寂しい感じになったとしても、この山中湖の(雨でも)美しい景色と、こうして応援してくれる人がいる限り、たぶんずっと楽しく、幸せに走れるだろうと思う。

ゴールまであと1㎞という表示が見えた。
腕時計に目をやると、目標まであとちょうど4分半。
おもわず笑ってしまう。
いけるか?
とにかく飛び出した。
こんなに力強いスパートは初めて。
事前に注意されていた激しいアップダウンや雨のせいもあり、自重気味に走っていたせいもあるが。
前足部でしっかり接地。
姿勢が崩れることなく、体幹もまだ元気だ。
ゴールのある中学校に向かう最後の坂が、長い、長い、長い。
もう、こうなったらどこまででも登り続けてやる。
校門手前で、実況中継の「お兄さんかっこいいよーー」という声が聞こえる。
手をあげてそれに応えるが、顔はひどいことになっている。
どろどろの校庭に飛び込んだ。
ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、最後の直線を走りきって、ゴール。

目標よりも19秒速い、1時間39秒41秒。

山中湖ハーフマラソン

2011年05月28日 | Weblog
雨である。
台風である。
そしてハーフマラソン。

写真で見た新緑の景色がすごくきれいで申し込んだ山中湖ハーフマラソン。
よもやこんな土砂降りとがちんことは。
今は山中湖へ向かうバスの中。

大自己ベストのフルマラソンから始まった今期の長距離シーズン。
震災の影響でいくつかの大会が中止となるも、駅伝3つと青梅マラソンに挑戦できた。
会社の仲間たちでの練習会も2回行い、会社からの帰り道など新しい練習コースも開拓した。
そして今期最初で最後のハーフマラソン。
昨シーズンの板橋区リバーサイドでの初挑戦では1時間32分29秒。
今回は雨の影響もあり、目標は1時間40分。
タイムというよりは踵から接地しないベアフット的な走りでどこまでいけるか楽しみ。

これが終われば、だいぶ出遅れたがそろそろ短距離の練習にシフトしていく予定。

年齢と能力

2011年05月26日 | Weblog
人はある年齢を境にその能力が衰えていく。
そんなことを実感する日々。
昔はばりばりやっていたと周りから言われる人でも、その昔がもう何十年も過去のことのように、その面影もなく、それまでの経験と知識ばかりにすがり、言い訳を繰り返し、なんとかその場をしのごうと逃げるばかり。
その姿は、弱々しく、自信がなく、薄くて危うい虚勢ばかりが見えて、痛々しい。

その年齢の境が50歳なのか55歳なのか60歳なのか、それは人によって異なるけれど、その境が必ずある。

だから、重職に就く人がいつも高齢なのは納得がいかない。
ぜひ40代を部長なり社長なりにするべきだ。
国会議員や総理大臣だって40代でいいと思う。
知識と経験は、部下とする専門家に任せればいい。

僕がチームを作れるとすれば、とにかく若手と中堅を中心にする。
50を過ぎた人は一人だけにしたい。
それもアドバイザー的なポジションにして、若手を抑え込ませないようにする。
理想はピラミッド型。
20代を3人、30代と40代で2人、そして50代を1人。

ううむ、早く自分でチームをリードできる立場になりたい。
そしたら、ものすごく大変だけど、一つの大きな目指すところに行ける気がする。

日本人の会議

2011年05月26日 | Weblog
最近、いろんな業者さんたちと打ち合わせをすることが多い。
それも朝の9時から夜の8時まで、なんていう長丁場。
これだけ長く一緒にいると、ついついそれぞれの業者さんたちを比べてしまう。

欧米や中国、東南アジア、つまり日本以外の国の人たちは、もう見るからに堂々としている。
アジア系の人たちは、腰が低く丁寧だけれど、押されても崩れない強さを感じる。
言葉にも自信があって、わからないことははっきりとわからないという。

それに比べて日本の業者さんたちは…。
もちろん全員が全員そうというわけではないけれど、明らかに外国人たちよりも会議慣れ、プレゼン慣れしていない。

1) 自信がなさそう。
2) 準備が悪い。
3) 声が小さい。
4) 質問にその場で答えず、会社に持ち帰りたがる。
5) 外国人のいる席で日本語を使おうとする。
6) 大勢で来ているのに、助け合えない。
などなど。

しかもこの業者さんたちはいつも国内で活動している人たちではなく、主な顧客は外国人のはず。
よくもこんな営業的に見劣りする中で日本は工業製品の輸出大国になったなと思う。
よっぽど日本の製品がよかった、ということだろうか。
でも、それだけではもはや勝っていけない環境になっていると思うのだけど。

なんだか最近、仕事のいろいろな部分に対して不満が多いように思う。
まあ、不満なきところに改善も進歩もないわけだから、これら不満、憤り、疑問などを糧に頑張っていくんだろうな。


写真は、先週末に会社の登山部で登った丹沢の鍋割山にて。
山小屋の鍋焼きうどんが絶品だった。

人生のひらめき

2011年05月22日 | Weblog
カフェで流れていた音楽でサビとして繰り返されていたフレーズが、
"German doesn't like a Russian plastic"
と聴こえた。

もちろん空耳だが、妙にそんなものかと思った。


似たようなところで、バスの停留所で待っているときに、トラックが信号で鳴らす「左に曲がります」というフレーズが、
「東神奈川」
にしか聞こえなかった。

人生のちょっとしたひらめきなんて、そんなものかも。

ホテル・ルワンダ

2011年05月16日 | Weblog
ルワンダに行った時から、絶対に観たい、観ないといけない、と思っていた映画をようやく観た。

『ホテル・ルワンダ』
ルワンダでのフツ族によるツチ族への虐殺があった期間、命がけで避難民をホテルに匿ったという実話の映画。

本当に息もできないくらい、映画に引き込まれた。
その映し出される事実に対して、衝撃や怒り、憤り、悲しみ、混乱、疑問、そんな負の感情の連続で心が押さえつけられるようで、息もできない。

特に印象に残った場面は、外国人たちを乗せたバスが、ルワンダ人たちの見つめる中で避難していくところ。

虐殺を止めに来てくれたはずの国連部隊は、実はルワンダにいる外国人を国外に避難させるだけのために派遣されていた。
明日にも殺される人々の前で、国連は虐殺される対象者を見捨て、外国人の安全を優先した。

ヨーロッパがルワンダを植民地とし、ルワンダ人をツチ族とフツ族に分け、支配のためにお互いをいがみ合うように誘導した。
その結果として、大虐殺が起こった。
多くの責任がルワンダを支配をしたヨーロッパの国(特にドイツ、ベルギー、フランス)にはあるのに、ツチ族を救出することも、フツ族を止めることもせず、外国人だけをルワンダから退避させて、あとはルワンダの責任でなんとかしてください。
そんな人道に反する決定を国連が、世界中の国が公然と行った。

退避していくバスの中からルワンダ人を見つめる欧米人の、申し訳なさそうな、気の毒そうな、そんな表情が印象的だった。
あのとき、彼らは、そしてその報道を受け取った世界中の先進国の人々は、自分たちの国が犯してしまった大きな犯罪を自覚したのだろうか。
それとも、ただテレビの前で「かわいそうだね」と思っただけなのだろうか。

ルワンダで見た虐殺の跡には、「もう二度と繰り返しませんから」という言葉が添えてあった。
同じ言葉を誓いながら、人類は何度同じ過ちを犯しているのだろう。
この映画は、少なくとも僕らに、もう一度このことについて考えさせてくれる力を持っている。

アラビアのロレンス

2011年05月15日 | Weblog
『アラビアのロレンス』を観た。

中学の時に一度観たが、その時はさっぱり流れが見えず、砂漠が舞台の長い戦争映画という印象だった。
今回、ちょうど大英帝国衰亡史を読んだばかりなので、その辺の歴史的な背景を知ったうえで観ると、ほんとにすごい映画だなと舌を巻いた。


ただ単に歴史を追っていくだけでなく、イギリスとアラブの間で苦悩するロレンスの、徐々に精神が崩壊に向かっていく様子などを、迫真の演技と演出で描ききっている。
あれだけスケールの大きい映画にもかかわらず。

また、CGを全く使わずに、あれほど広大な砂漠でのキャンプや移動、戦闘を演出していること。
現代のCGを使えばきっともっと迫力のある、きれいな映像が撮れるんだろうけど、そうではない、生の凄味というか暑苦しさというか、そんなものが伝わってくる。

すごい、すごいとは言われているけど、これはすごい(ボキャヒン)。

吉本のステージ

2011年05月08日 | Weblog
先日、吉本のステージを初めて観た。
品川よしもとプリンスシアターというところ。
品川の水族館に行ったついでに、思いつきで。

こういう漫才やコメディのステージをお金を払って観るのは初めてで、吉本が実際どれだけ面白いか見てやろうじゃなか、という気分。

正直、面白かった。
面白すぎて、眉間が痙攣するなんていうのは初めての体験だった。
もちろん、はずれもあったけど、それでもここまで笑わせてくれるライブのすごさには感銘を受けた。

これだけ面白くて、肩ひじ張らずに、何も考えずに笑わせてくれるのなら、たまに観に行くのもいいなと思った。


久しぶりに、短くまとまった。
やはり、ブログは短くないと。

東北地方のボランティア -8- 気仙沼での写真

2011年05月07日 | Weblog
これまでに載せてこなかった写真を並べます。


気仙沼駅前。

駅前は食堂や個人経営のコンビニなどいくつかの店が既に営業していた。


気仙沼駅前の食堂にあった日本各地のCoffeeの呼び方一覧。


コッヒイやコーピ、ココヒ豆など。
面白いところでは、「豆の湯」


気仙沼駅からボランティアセンターまでの道。




テント村から見える景色。
手前には小学校。



テント村で遊ぶ子供たち。




テント村。
漁火パークという展望を目的とした施設の広場を利用している。



夕食はみんなでキャンプ形式で。





朝はみんなでラジオ体操。


あっていませんよ!



桜並木の下を歩く若いボランティアたち。




ボランティアセンターに東京の子どもたちから千羽鶴が届いた。
スタッフがはりきって飾る。





ボランティア活動を終えた直後。
泥だらけのカッパが作業の大変さを物語る。





若手の仲間たち。





ボランティアセンターの脇にたたずむ、誰もが目を奪われる鮮やかな桜。




東北地方のボランティア -7- 陸前高田

2011年05月06日 | Weblog
二日目のボランティア活動後、気仙沼から車で30分くらいのところにある陸前高田へ行った。
ボランティア先のお宅で被災者の方からそこの惨状を説明され、時間があるなら見るだけでもその姿を見ておきなさいと言われたのがきっかけだった。

陸前高田。
そこは町が、村が、全て津波に流され、吹き飛ばされ、破壊されていた。
あまりに何もかもが無茶苦茶に変形していて、何がどうなっているという表現も思い浮かばない。

ボランティアの候補地に陸前高田の名前が挙がってこないのは、ここでは素人のボランティアが瓦礫を撤去したり泥をかき出したりできるレベルではないということだ。

町が丸ごとかき消されている。
恐ろしいという言葉は不適切かもしれないが、心の中の気持ちは確かに恐ろしいと言っていた。
一瞬にしてここで多くの人が亡くなったのが直感的にわかる。
道の隣の膨大な瓦礫の中に、まだたくさんの遺体があることも直感的にわかる。


車に乗っているときに、つい僕はカメラを外に向けた。
そのときに、運転をしていた方から「写真はやめましょう。」と言われた。
はっとして、恥ずかしくなった。
この運転をしている方は、神戸で被災した方だった。
その時、被災地に車でやってきて、写真を撮って帰っていく人に大きな憤りを感じたという。

僕はここへ写真を撮りに来たわけではないのに、なぜかこの景色は撮っておかないとという気持ちだけでカメラを向けてしまった。
そんな自分がすごく恥ずかしかった。
この街を写真で撮っても、それは新聞やテレビで見ているあの景色と何も変わらない。
今、僕がここにいる理由は、自分がここにいて、それを見て、感じている、ただそれだけのはず。


そこは、まともに建っているものなんて一つもなくて、瓦礫と一言では言い切れないくらい滅茶苦茶にモノが破壊されつくされていて、きっとその下にはまだたくさんの人たちの遺体があって、海の臭いが強くて、海鳥がたくさん飛んでいた。
そして、塩水をかぶった土地のはずなのに、それでも立派に咲いているタンポポや桜はすごくきれいだった。


東北地方のボランティア -6- 被災者のお話

2011年05月05日 | Weblog
二日目のボランティア活動のお昼時、依頼主のお宅に上がってお昼ご飯を頂いた。
親せきや近所の方々も応援に来ていて、約10名分のお昼ご飯を作ってくれたようだ。
こんな大変な時に、そこまでしてもらっては申し訳ないし、お気を使わずにと最初は遠慮していたが、家主のおばちゃんの言葉は全く反対のことだった。
「あなたたちがここでわいわいご飯を食べてってくれるのもボランティアなの。
にぎやかに話してくれることがすごくうれしいんだから。
いつもは、二人で静かに、寂しく食べているんだよ。」

うーむ、なるほど。
それならば遠慮なく。

料理は、五目御飯やおでん、ニラのおひたし、ポンカン。
「おいしいでしょ?おいしいと思ったら全部食べなさいよ。」
と、どんどんと出していただいた。
確かにおいしい。
ニラなんかは野生のニラで、味も濃くて逸品だ。




お昼をいただいている間、ここのお母さんがとめどなくみんなに語りかけていた。
その内容は様々だったが、以下印象に残っていること。

「命について」

昔から、ここら辺一帯に伝わる言い伝えがある。
友人でも、家族でも、命はみんなで一つではない。
命は一つ一つ、それぞれ、別々。
だから、誰かを助けようなんて思うな。
誰かを待とうなんて思うな。
そう思った人たちが亡くなったんだ。
自分の命をとにかく大切にしなさい。


「車について」

津波が来たら車に乗るな。
すぐに車から降りろ。
ここに停めたら、後続の車が迷惑するなんて考えるな。
君が道端に停めれば、後続の車も停めざるを得なくて、みんな走って逃げるようになるんだから。
走って逃げれば、階段だって上がれるし、なにかにつかまったりできる。
車に乗っていたら、出られなくなるし、つぶされる。
そうしてみんな亡くなったんだ。


「津波対策について」

コンセントは壁の上方についていた方がいい。
下だと使えなくなるし、漏電する。


「政治について」

テレビで管首相が映った途端、
「管さんは何もわかっていないよ。甘いよ。
被災地の人たちが何を求めているかわかってない。
そういうことがわからない人は、ここに直接来たってわからないんだよ。」
と、痛烈な批判だった。


食後に外をぶらぶら散歩していると、お昼ご飯の準備をお手伝いしていたおばちゃんが近くの公園について教えてくれた。
「あの公園は、駒場公園といって、気仙沼で一番きれいな公園だったんだ。
ここの管理人のおじいさんがいて、その方が毎日ゴミ拾いをしていたから。
でも、今はこのありさま」

公園は泥で覆われていた。
でも、ブランコと滑り台のところだけは、誰かによって泥がかき出されていた。
公園の周りは、桜が咲き誇っていた。
ここもまた気仙沼一きれいな公園に戻る日がきっと来る。



ボランティアセンターにボランティア共有のノートがあって、その表紙にはこんな言葉が書いてあった。
「五年後 気仙沼で 桜を見よう」



東北地方のボランティア -5- スタッフとボランティア

2011年05月04日 | Weblog
キャンプ村に到着したその晩、ボランティアセンターのスタッフとボランティアの人たちでの懇親会が行われると聞いた。
早くにキャンプ村に到着していた僕と夕夏は早速参加してみた。

お化けのような担担麺を出すお店だった。
キャンプ村は唐桑という地域の高台にあるそんなに大きくない広場だったが、そこに少し不釣り合いに営業しているそのお店。
ボランティアセンターのスタッフには常連の店のようだ。
とはいっても、集まっているのはいわゆる正規のスタッフではなく、元々は一般のボランティアとして参加し、そこから一本釣りのような形で運営側に引き入れられた方々。
そのため、年齢や個性、考え方、そしてバックボーンも様々。

以下、特に印象に残った方々について。

Sさん

最初にキャンプ村やこれからのボランティア活動について説明してくれた方。
この飲み会の発起人でもある。
非正規(この言い方が正しいかわからないけれど)のスタッフとして人望が厚い。
大変な毎日の中で、それでもスタッフやボランティアの人たちに気持ちよく活動してもらおうと、笑顔を絶やさないその強さに感銘を受けた。


Iさん

通称ちゃらお。
21歳というその若さと、渋谷を歩いていそうなそのファッション、そしてノリの軽さから、みんなにちゃらおと呼ばれてかわいがられている。
仕事をやめ、久しぶりに母親に電話をかけ「2か月間東北でボランティをしてくる」と告げると
「2か月くらいで何ができるっていうの。少なくとも3か月は行って役に立ってきなさい!」と叱られたそう。
久々の電話だったこともあり、お互い溢れるものがあり、その電話はお互い泣きながらのものになったのだそうだ。
そのエピソードだけで、僕も涙出そうになった。
どれだけ分厚い心を持っているんだ、この人は。
昼間、ボランティアセンターのスタッフとして活動しているちゃらおさんは、ほんとにかっこよかった。


母親と高校生の男子の二人組

高校生は放送部。
母親はふっくらして大学生みたいに若く見える楽しいお母さん(最初は本当に姉弟かと思った)。
なぜ、ボランティアに来たのかと息子に尋ねると、お母さんから
「あんた、ほんとに募金とかしてるだけでいいの?
いつもボーイスカウトとか行ってたのは、こんなときに募金するためだけなの?
何かしたいとかぐちぐち言ってるんだったら直接行って直接見てきなさいよ!
ただし、向こうに行ったらきつくても一人なんだからね。
いつもみたいに私に頼れないんだからね!」
と発破をかけられて二人で来たそうだ(旦那は家で犬のお守りだそうだ)。

息子に、これだけのことが言えて、しかも一緒に車中泊の泊りがけで来てくれるお母さんって。

街でもし見かけたら(申し訳ないけど)ただのすごく甘そうな、ちゃらちゃらした、平和を謳歌する女の人、くらいにしか見えないのに、どうして、僕の目ってほんとにまだまだ節の穴だと思う。
どこからこんなどっしりとして、遠くまでの将来を見据えた、子供を前向きに歩かせるいい言葉が、しかも行動を伴って出てくるんだろう。
僕の母親とはいろいろな部分で似ていないが、「言葉」と「行動」という意味で、似ている気がした。
そして、理想の親の一つの形だと思う。




Yさん

普段は陶芸家。
もと、国境なき医師団のスタッフ。
阪神大震災でも独自のボランティア活動を展開。
そして関西でボランティア集団を設立。
現在は東北で子供たちの「すきま」を埋める活動を展開中。
お祭りや綿あめ、ポン菓子など。

風貌はモヒカンに迫力ある体格、赤ら顔で近寄りがたい。
最初は、話の長い、少しうさんくさいおじさんのように思っていたが、話している言葉に力があり、含蓄があり、なるほどと思う点、共感する点、はっと思う点が多いことに気付いた。
口癖は、「なによりもまずは挨拶。犬にも挨拶を。特にリーダーはどんなときにもメンバーに声掛けを。」
また、「被災者にも率直にいろんなことを聞いていい。その代わりに、全てちゃんとしっかり聞いてあげること。向こうは、聞いてほしいことがたくさんある。」
と教えてくれた。
この人、存在が大きすぎてつかみきれないけど、活動内容を報告するHPがあるようなのでもっと見てみたい。




こんな小さな飲み会の、しかも僕が話した人だけでもこんなに分厚い心と大きな生き方をしている人ばかりなのだ。
この東北にはどれだけのツワモノが集まってきているのか。
この未曾有の天災が起こり、それが磁力となって、日本全国、そして世界中から多くのそんな人たちがここに集まっているのだ。

東北地方のボランティア -4- 気仙沼での活動

2011年05月03日 | Weblog
宮城県気仙沼市へ夕夏と会社若手たちと3日間ボランティアへ行ってきた。
まずは一通りの流れから。

今回は、僕の会社と同業の会社の若手の有志による「GWにぜひ東北でボランティアを!」という計画に参加させてもらった。
前回の石巻よりも交通の便が悪い気仙沼で活動できたのも、このグループに入れてもらえて行動したからこそで、感謝感謝。


金曜の朝7時に夕夏と大倉山を出て、東京駅から復旧したばかりの東北新幹線で一ノ関へ。
そこからこれまた復旧したてのワンマン電車大船渡線で気仙沼へ。
ここは今ちょうど桜の季節で、電車から見る桃色の淡い景色はきれいだった。
気仙沼に到着したのがちょうどお昼。




そこから歩いて気仙沼のボランティアセンターへ。
この約15分の田舎道も、心に残るきれいな道だった。
単線の線路沿い、桜や菜の花、タンポポが咲き誇る緑いっぱいの道。
津波の被害のないここは、まるで震災が嘘のような、平和な春だった。
そして、これから見る、たくさんのものが破壊された被災地でも、やはり桜や菜の花、タンポポなど、自然は本当に強く生きていて、唯一といっていい「色」をその景色に添えていた。




ボランティアセンターでは、今日から泊まるテント村や明日からのボランティア活動の説明を受けて、タクシーでテント村へ。
テント村にはたくさんの大きな鯉のぼりが海風に舞っていた。


僕と夕夏以外のメンバーは、車で関東から向かっていたが大渋滞のために大幅に到着が遅れてしまった。

テント村には、意外にも食堂兼居酒屋が営業していた。
その日の夜は、そのお店でボランティアセンターのスタッフやボランティアたちでの飲み会に参加した。


翌日からはいよいよボランティア活動開始。
朝8時半にボランティアセンターに行き、その日の活動とグループを決める。
センタースタッフの「男の方○○人、女性の方○○人」
という呼びかけに、集まったボランティアたちが
「はいはい!!」と手を挙げ、グループが決まっていく。
その繰り返しで、200人を超えるボランティアたちのグループと活動が次々と決まっていく。
さながら、鉱山近くの道に集まった日雇い労働者たちを数人を選んでトラックに乗せていくあの光景だ。

僕は、10人グループで津波に被災した家の泥出し作業。
家からは既に家財道具が運び出されており、床板もはがされていた。
作業は床下の泥をひたすらかき出し、土嚢袋へ詰め、外へ運ぶの繰り返し。
単純作業だからこそつらい。
11時ごろから30分のお昼休みを挟んで15時までの作業。
最後は、あと少しで一通り泥を出し終わるということで、メンバー総出での猛スパート。
さすがに体力的にも筋力的にも悲鳴をあげた。
これこそ短期ボランティアの瞬発力だ。


翌日の作業は、6人のグループで同じく民家の泥のかき出し。
ここでは、床板をはがす作業から始まり、泥出し、石灰撒き、白蟻駆除剤撒き、黒炭撒きを経て、床板をはめる作業まであったが、非常に効率よく作業が進んだためお昼までには全ての工程が完了した。
ここには、親戚の方々や近所の方々も応援に駆け付けていて、みんなが準備されたお昼ご飯までいただいた。
五目御飯やおでん、ニラのおひたし、ポンカンまでこんなにおいしい料理をボランティア期間中に頂けるなんて思ってもみなかった。
料理をいただいている間、この家の方がしてくださったお話は、いろんな言葉が心に残った。

この日の作業がお昼までで終わったことで、15時まで時間が余った。
このため、メンバー4人で津波の被害が最もひどかった陸前高田まで車で行ってみることにした。
今日のボランティアをした家の方が、ぜひ見るだけでも見てきた方がいいとアドバイスをしてくれたからだ。

気仙沼から車で約30分。
そこは石巻や気仙沼とは比較できない、本当に町が丸ごとかき消されていて、あまりにも何が何だかわからないくらいに破壊されていて言葉にできない場所になっていた。
ここでの気持ちは、あとで少し詳しく書こうと思う。

陸前高田から戻り、会社の若手のメンバーに別れを告げた。
僕らはこの夜の電車で横浜に戻るが、彼らはまだ残る。
長い人はGWの終わりまで活動する。
ボランティア活動そのものももちろんそうだが、キャンプ生活だけでも肉体的、精神的な疲労が大きいと思う。
本当に、無事でがんばれ。

夕夏と気仙沼駅前の銭湯で三日分の汗を流し、一路横浜へ。
家に着いたときは翌日の1時近くなっていた。

まずは流れだけをと思っていたが、結局長文となってしまった。
うーむ、よくない。
このあと、個別の印象に残ったことをいくつか書く予定。