キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

結婚式

2010年10月29日 | Weblog
明日、結婚式を挙げる。

箱根神社で親族のみで行う神前式。

台風の上陸と重なる予定で、なかなか波乱含み。




小さい時から、結婚式なんていうものは本当にただの形式だけで、みんなやるからする、それが二人の永遠の保障になんてなるわけじゃなし、そんな思いから結婚式自体を軽く考えていた。
むしろ、法的な根拠ができる婚姻届のほうがよっぽど実際的で意味のあるものだと。

だから、極端な話、結婚式自体挙げないのもありかなとさえ思っていた。
ただ、お世話になった人への報告会はしたいと思っていたけど。




今年の一月に相方と籍を入れた。
まだ正月休みのときで、だれもいない小さな区役所の夜間窓口で、正月番組を一人で見ている係のおじさんに婚姻届を手渡した。

それからカタール赴任を挟んで約5か月、新しい街で相方と二人で暮らした。
もうすっかり気分は夫婦。
だから今度の結婚式もこれからのステップの一つのように思っていた。

でも、いざ結婚式が近づくにつれじわじわと緊張してきた自分に驚いた。
婚姻届を出すときとは全く異なる緊張。

厳かな、心が静まるような緊張。

結婚式を挙げることで、確かに何か精神的な面で変わる気がする。
それは、まだ自分の中で、結婚式が大切な文化として残っている証で、それにも少し驚く。




むかしから、人生の中で一番祝福されるのは結婚式だった。
成人式でもなく、出産でもない。
別々の男女が夫婦になること、それが最も大きな意味をもっていたようだ。

逆に、それだけ結婚に対する周りの期待が高いということだろうか。
しっかりお祝いをして、多くの人に立ち会ってもらい、その分だけ二人の絆を強くする(責任を重くする)。
それが大いに祝福する目的なのだろうか。

もしそうなら、今の僕はぴったりその目的に沿っているようだ。




これまで相方とは結婚式に向けていろんな意見を出し合い、議論し、じっくり計画をたて、お互いの納得のいく式をつくろうとしてきた。
そのステップは確かに貴重で意味のあるものだった。

ただ、結婚式当日、大切なのはどんな式になるかではなく、お互いがどんな気持ちで挑むのか、どんな責任と誓いをたてるのか、そして式の後にどんな新鮮な気持ちでいられるのか、だと思う。

それを考えれば台風が上陸しようが、槍が降ろうが関係ない。
心の中を大切に、いざ結婚式に挑みたいと思います。


走る考察~根性練習~

2010年10月21日 | Weblog
『根性練習』という類の練習が(たぶん)どのスポーツにもある。
その多くが、体力や筋肉を追い込んで、ぎりぎりのところでなおその状態をキー
プするもの。
それに必要なものは『根性』だという。
もう少しかっこいい言葉は『精神力』か。

この根性練習の目的ってなんだろうか。
そもそも根性ってどういうときに発揮すべきものなのか。
別に根性論を否定するつもりはない。
ただ、もう少し冷静に根性の御利益を考えてみたい。

短距離走で考えてみると。

まずはスタート → 根性はいらない。
加速 → 根性はいらない。
そのまま前に進むからだの動的な体勢を作る → 根性はいらない。
接地するごとに、腹筋や背筋、肩甲骨、体幹の筋肉をフル稼働して力を増幅し、
それをしなやかに地面に伝える → まだ根性はいらない。
そして、70mが過ぎる。
筋肉が弱る。
動的な体勢が維持できない。
集中力も落ちる。
そんなとき、いわゆる根性、精神力が必要なのではないか。
からだを、できる限り、フレッシュな時と同じように保つ精神力。
それだって、その90%は練習の繰り返しで身につく『自動化』が補ってくれるは
ず。

こうしてみると、100mの中で根性が果たす役割って辛くなった時の「体勢の維持」
くらいなものだ。それも、全体で見れば2%くらいの要素しかないのではないか。

ならば、単純に考えて、根性練習は練習全体の2%でいいのでは?

しかも、「体勢の維持」が目的ならば、そもそもその正しい体勢の維持ができな
い人は根性練習をする以前にまずその練習からだ。
厳しい言い方をすれば、根性練習ができるレベルではない。

ひたすら集中して動的体勢について考え、繰り返し練習をしたほうがよっぽど身につくと
思う。

極論かもしれないけど、要は根性練習の比率があまりに多くなってくると、ちょっ
と注意、と思うってこと。


『貧者の兵器とロボット兵器』

2010年10月21日 | Weblog

『貧者の兵器とロボット兵器』というNHKの番組を観た。

イスラム原理主義の使う貧者の兵器(自爆)とアメリカが使うロボット兵器の終
わりない争いを解説する番組。

これを観ていて、すぐに思い出したのは15年前放送していたSFアニメ。
驚くほど状況が似ていた。
舞台が宇宙か現実の地球かの違いだけ。

番組は、イスラム原理主義にもアメリカにもよらず、ひたすら双方(自爆とロボッ
ト兵器)の現実を流し、視聴者にこの現実を変える必要性を訴えかける。

しかし、アメリカ側に自分たちの行いを見つめなおして欲しいという意図のほう
が強いように思えた。
この戦争は、どうして続いていくのか。
富、技術力、なにもかもが違う二つの立場がなぜ争い続けているのか。

もともとの戦争(争い)は土地や富の奪い合いではなかったか。
いまではそれが正義(民主主義)の戦いになっている。
戦地になっている土地の住民が(誤爆で)大勢殺され、米軍に出て行って欲しい
と訴える、それがその国(土地)にとって正義の戦いなのだろうか。
その実情をアメリカの市民は知っていて、それでもなお、その国に自分たちが理
想とする国家論を植えつけることが唯一の正義だと考えているのだろうか。

アメリカだけの問題ではない。
正面から反対していない日本を含め、少なくとも市民レベルでは「見てみぬふり」だ。

自分たちの正義を他国に押し付けるよりも先に、自分たちの正義とはなにかをも
う一度見直すべきだと思う。


走る考察~早く進む動的な体勢を作ること~

2010年10月07日 | Weblog
走っていて思うこと。
特に短距離と長距離を交互にやっているこの頃。
短距離にも長距離にも共通する基本的な考え方。

まずはルールから。
短距離でも長距離でもそれは同じ。
スタートの合図からゴールに着くまでの時間が短ければ短いほどいい。
つまり、体の移動が速いほどいい。

大学のころ、速い先輩に何度もそう言われたけれど、今一つピンとこなかった。
今は、少し納得する。
妙なものだ。

要は、早く進む体勢を作ること。
静的な体勢ではなくて、動的な体勢。
足が地面に接地した瞬間に大腿、股関節、腹筋、背筋、肩甲骨が連携し合った大きな動きをし、それがずらずらずらとつながり、それらがバネのように、鞭のように、しなやかな大きな力になり、増幅された力が無駄なく集中されて、さっき接地した足から地面に伝わり、反作用で体が前に進む。

「走る」ということを意識的に行ってはいけない。
速く体を前へ進ませるための動的な体勢を作り続けていたら、体が前へ進み、結果的に外から見ると走っている。
それが本来の姿だと思う。

走ることは目的ではなく、結果。
ここ大事。
目的はあくまでも前へ速く進むこと。
そのために体を最適な体勢にして、動的な動きの中で足が地面に接地するするのを待っているだけ。
接地した瞬間に最も効率よく全身を使って地面に力をお返しできる動的な体勢を作りながら。

同じことを何度も言っているようだけど、もう少しお付き合い。

走ることに慣れていない人が、速く進もうとして、走ろう、走ろうと、「走る」ことから入っていくのは危険な気がする。
「走る」ことが目的で、「走る」ことから入ると、右足と左手を同時に前に出して、腰を高くして、足を高く上げて…
そんな風に、体の部品ひとつひとつの動きを考えてしまう。
現にアメリカから輸入されて一世を風靡したマック式なる考え方はまさにこの部分最適化。
そうすると、それぞれが協調をとることなく、ばらばらに動いているだけになってしまう。
もちろん、できるやつはばらばらにならないし、練習をたくさんすればつながってくるんだろうけど。


別に右手と右足が同時に前に出たっていい(出なくてもいい)。
腰が低くてもいい(高くてもいい)。
足を上げなくてもいい(上げてもいい)。
要は、体が前へ進む動的な体勢を作って接地を待って、接地して、地面からの力を増幅して地面に戻し反作用の力をもらい、また前へ進む動的な体勢を作って…
その繰り返しの結果、もしかしたら右足と左手は同時に出るかもしれない。
腰は高くなるかもしれない。
でも、そんなことはどうでもいいことで、ただの結果。

その結果から追いかけようとすると、それぞれの部品ばかりが空回りして、前に進まない。
フォームはきれいに見えるのに、タイムはよくない人は多分これが原因。
目的と目標を取り違えている。

自分が(結果的に)走っているとき、大腿と腹筋だけで動いているような気がする。
実際に接地しているのは足の裏だけど、意識としては大腿で接地して腹筋でその力を地面に跳ね返す。
でも、今これができるのは80%の速さまで。
今はそれ以上の速さを出すと体が制御できなくてこの意識では動けない。
現役のときとの一番の違いだと思う。
話がそれたけど…
この動きがもっと広がって、背筋や肩甲骨までを全部使えたらもっと大きな力が生まれるんだろうな。

長距離シーズンが始まったけど、もっと体を意識して走ることにしよう。

瀬戸内旅行2010

2010年10月04日 | Weblog
少し遅めのシーズンホリデーを先週にとった。
その約一週間、瀬戸内を相方と旅行した。

初めは東欧とか南米とか海外へ行く計画をしていたが、ふと見た雑誌にあった「瀬戸内国際芸術祭」の記事に興味を持ち、相方と意気投合、これまでちゃんと歩いたことのなかった瀬戸内を廻ろうということになった。

以下、その概要。

<尾道>
広島県は尾道で一泊。
翌日の午前中に尾道を散策。
坂の多い街(まるで長崎)。
猫の多い街(猫のアートも)。
そして、カメラを持って歩けばいくら撮っても撮り足らない魅力のある街。

<しまなみ海道>
しまなみ海道をレンタサイクルで渡ることが、この旅の一つの挑戦。
このサイクリングコース、全国で現在人気ナンバーワンだそうな。
合計70㎞、6つの島と7つの橋を経て愛媛は今治までを目指す。
走り始めてすぐに雲行きが怪しくなる。
土砂降りの中、走り続ける。
がたがた震えだしたころ、まだ道の半分くらいだと知り、相方とともに心折れリタイア。
次回のリベンジを誓ってバスで今治へ。

<サンライズ糸山>
今治のホテル、サンライズ糸山へ。
このホテル、サイクル・ツアラーのための、合宿所のような趣。
なのに、併設のレストランがお洒落、おいしい、それでいて良心的価格。
なんとも、シンプルで清潔で良心的で、個人的にこの旅でのベスト宿。

<讃岐うどん>
香川県は丸亀で讃岐うどんを堪能。
お昼時に3つの店で食べ比べ(中村、おか泉、どこかの学食)。
この麺の感触はやっぱりいい。
味っていうよりも食感か。
ちくわの天ぷらもよし。

<小豆島>
小豆島で2泊した。
知らなかったが、小豆島はそうめんが名物。
宿の夕食でそうめんが出たが、こし良し、にゅうめんにしても伸びない。さすが。

<二十四の瞳>
小豆島を舞台にした『二十四の瞳』を旅の途中で購入し読んだ。
小豆島という島を舞台にした戦争前後の物語。
島が島に思えない、それだけで大きな世界のように感じる物語。
映画も観てみたい。

<瀬戸内国際芸術祭>
ここ何年か、毎年夏に行われている瀬戸内国際芸術祭。
直島や小豆島をはじめとした瀬戸内の7つの島に芸術家たちが多数やってきてそれぞれ個性的な作品を作る。
田んぼの真ん中や、山の中、海辺、廃校などに芸術作品が点在する。
小豆島と豊島、直島を3日かけて廻った。

<ジェームズ・タレル>
いろいろなアーティストの作品を見たが、ジェームズ・タレルという人の作品に一番興味を持った。
彼は、光をテーマにいろいろな作品を作る。
光をテーマにするから自然と影もうまく使う。
空を切り取ったり、暗闇にわずかな光を残したり。
そういう発想だけでわくわくする。

<ベネッセハウス>
ベネッセの社長が直島に建てた芸術鑑賞のためのホテルがある。
とっても人気なのだが、なんとか一泊を予約、宿泊した。
部屋も庭もレストランも作品に囲まれて素敵なのだが、中でもホテル内の作品を紹介するツアーが面白かった。
普段、観光地でガイドをやとったりガイドレコーダーを借りて説明を聞くことはないんだけど、芸術作品の説明をこれだけ面白く、興味深くやってくれるとは、開眼もの。


以上、駆け足の旅の記憶。
瀬戸内、とってもいいところだった。
早く写真をまとめて、アルバムにしたいなと思う。