キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

河口湖マラソン

2009年11月30日 | Weblog
河口湖マラソンに出場した。
2回目のフルマラソン。
3時間38分だった。
自己ベスト!
頑張った。

前回が2年前の東京マラソン。
そのときは、週に2回はカタールのキャンプで走っていたし、夏に短距離の練習もしていた。
それで、全力を出し切って4時間20分だった。
サブ4を生涯の目標にしようと思っていた。

その目標が意外にも今回の河口湖で達成できた。
10月のオクトーバーマラソンで走りこんだのがよかったとしか思えない。
自分のペースで走り続けられた前半から、20キロを過ぎたあたりで膝や足首がいたくなり失速し始めた。サブ4から一時は15分も貯金があったのに、20キロから35キロの間で貯金が5分にまで減った。
これはまずいと気を引き締め、自分より少し速い黄色いTシャツの元気なお兄さんに40キロまで着いていき、なんとか貯金を増やした。
課題は東京マラソンでも感じたことだが、心肺昨日よりも膝や足首の強化だと思った。
この部分の痛みでの失速が大きい。
単に我慢の問題かもしれないけれど。


でも、もう一つベスト記録につながった大きな要因が一緒に出場した先輩たちだった。

カタールのプロジェクトでお世話になった先輩が中心になって方々の知り合いへ声をかけ、毎年けっこうな人数で出場している。
その多くが30台後半から40台のおじさんたち。
奥さんと子供たちも総出で応援にくる。
そして何より驚くのが、この中年のおじさんたちの多くが今でもサブ4をコンスタントに出し続けていると言うこと。

この人たちは学生時代に陸上部だったわけじゃない。
日常的に走っている人たちでもない。
ただみんなに会いたい、楽しみたい、自分自身を確認したい、理由は様々かもしれないけど、一年に一度だけこの大会に集まってくる。
そして、コンスタントにサブ4を出す。
すごい人は18年連続でこの河口湖マラソンに出ている。
しかも、彼の生涯で出場したマラソンは合計20回で、そのうちホノルル一回と東京一回を除く全てが河口湖。
むろん、彼の趣味はマラソンではなく、河口湖マラソンは彼の年中行事の大切な一つであるにすぎない。

そんな先輩(会社の先輩という枠を超えた先輩)たちのマラソンへの楽しみ方の姿勢を見て、純粋にいいなと思った。
応援も含めて家族で参加しているのもいい。

一緒に行った相方も11キロを見事に走りきった。
これからも、こうして一つの楽しみとして、自分へのごほうびと走れることへの感謝として、マラソンやいろいろな行事に参加していけたらいいと思った。

大菩薩峠 w/ VQ1015

2009年11月17日 | Weblog
大菩薩峠という山に会社の仲間と登山に行った。
めったにないような素晴らしい秋晴れの日。
富士山がとても大きく見えた。

富士山って、どこからみてもすぐにそれと分かり、こんなにきれいな形をしていて、本当にすごい山だと改めて思う。

今回もVQ1015で撮った。
青がすごくあお!!って感じに写るところとか、まだしばらくはこれで楽しめそう。
下記のFrickrに写真をアップしました。

http://www.flickr.com/photos/27366893@N04/

坂の上の雲2~日本の詩~

2009年11月14日 | Weblog
『坂の上の雲』では実在の3人の人物を中心として話が進む。
その一人が正岡子規。
正岡子規については小中学校のころに俳句と言えば松尾芭蕉と正岡子規と習った、それくらいの知識しかない。
俳句や短歌ってどんなものだったろうと思い、中学校の時に習って好きだった短歌や俳句を思い出してみた。


白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ (若山牧水)

幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく (若山牧水)

鴉啼いてわたしも一人 (種田山頭火)

曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ (河東碧梧桐 )


正岡子規の句は、すごいすごいと言われつつ昔からあまり馴染めなかった。
その代わりどうやら旅の詩や寂しさを歌っている詩が僕は好きなようだ。
でも、旅の詩でも観光名所の名前が入っている詩はあまり好きではないよう。
だから、

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 (正岡子規)

は、いまいちぐっと来ない。


短歌や俳句を全く知らないで、例えば今ぱっとそんな作品を見たとしても、おそらく興味は持てないだろうと思う。
何も知らずにぱっと源氏物語を見たときのように。
興味を持てないというよりも、言葉の意味すらわからずに、敷居が高くて手をつけられないんじゃないか。

そういう意味で、あれほど将来意味のないと思っていた短歌や俳句の授業も、人の心の中に少しだけでも生きているという意味で、必要だ(あったほうがいい)なと思う。
日本の全ての人が、短歌や俳句を、そして代表的な詩を共通の知識、感覚として持っているというのは大きいと思う。

走る考察~走りの周りのスポーツ~

2009年11月10日 | Weblog
スポーツに関する本に書いてあったが、アメリカの大リーガーの多くは子供のころから野球をやっていたわけではないそうだ。
バスケットボールやアメリカンフットボールなどいろいろなことをやった結果、最終的にプロの野球選手になる。
そして、球団も野球以外のスポーツをやってきた経験を評価する。
それに対して、日本のプロ野球選手で高校や中学のときに野球部ではなかった選手が何人いるだろうか。
ちょっと考えにくい。
とにかく野球一筋の人生、それが日本の野球選手のイメージだ。

これは、転職がキャリアとして評価される欧米の考え方に通じるようにも思う。
欧米の考えがなんでもかんでも日本より優れていると思いがちな流れに陥りたくはないけれど。

走ることに目を向けると、当然短距離選手と長距離選手とでは筋肉のつきかたも体の使い方も体を動かすこと自体への考え方すら違っている。
同様に、走るだけでなく野球をしたり、サッカーをしたり、泳いだり、面白いところでは弓道や剣道はたまた座禅なんかをすれば、それはこれまで自分にはない筋肉や体の使い方、考え方を身に着けることになる。
それも、かなり劇的な変化が期待できる。
もちろん、その新しい筋肉が本職の走るという動作に必要なく、むしろ可動域を狭めたり、重りになってしまうかもしれない。
それはそれで、諸刃の刃とするよりも、考えて筋肉のマネジメントをしていかなければいけないのではないか。
でも、それ以上に新しく体に現れる変化は、本職の大きなサポートになってくれるように思う。
本職の「走る」という動作を周りからいろいろと刺激し、保護し、時には精神的な余裕すら与えてくれる装備になるように思う。

今、僕の本職が何かと聞かれれば答えるのは難しい。
短距離だと言いたいけれど、実際には長距離ばかり。
その周りを取り巻く種目としてバレーボールとボートがある。
どちらも週一回。
どちらも、長距離では使わない筋肉、動き、考え方の連続で面白い。
これが、走ることへのいいサポートになれば、なかなかうれしい。

『This Is It』

2009年11月10日 | Weblog
『This Is It』を観た。
元々、Michael Jackson自体、なんとか名前を知ってるくらいの素人だったが、彼の死の世界的な反響の大きさにびっくりして興味がわき、とりあえずCDやDVDを買って聴きはじめたいわゆるミーハー的なMJファンである。
それにしても、『This Is It』はいい。

50歳でこんなライブをやろうとしていたのかと思うと、それだけで映画を観ていてぐっときた(しかも50公演!)。
ダンサー、ミュージシャン、スタッフに対して、謙虚だけど妥協のないリクエスト。
みんながチームとして一丸となってプロフェッショナルにライブを作り上げていく姿。
本当に、このライブが現実になっていたらすごいものになったんだろうなと思わせる。

このライブをやったからといって自然破壊がどれだけとまるかは分からないけれど、少なくともMJは本気で世界を救いたいと思っているし、本気でスタッフたちにもそれを話しかけているように見えた。

この映画を編集した監督がきっとうまいんだと思う。
それでも、MJの歌、踊りを観て、すごく興奮した。
マイケルってすごい。

坂の上の雲1

2009年11月10日 | Weblog
ブータンでは数学や理科の授業を英語で行うと聞いて度肝を抜かれた。
だって、あんな山に囲まれた小さくて殆ど鎖国のような国がですよ。
フィリピンも同じように理系科目は英語で行うそうだ。
インドも。

こういう国ってすごいなぁと思っていたら、日本でも100年以上前から授業で英語を使っている学校があったことを知って驚いた。
いや、授業だけではない。
生活一般の全てを英語で行うこととなっている学校が明治初期の日本にあった。

海軍士官学校。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み始めた。
司馬遼太郎の中でも特にいいと評判なのでずっと気になっていたが、ようやく重い腰があがった。
書評の中でも、
「国が大きく変わっていく中で、若者がどうやってその時代を生きたかということを知り、今の自分もがんばろうという気持ちになった」
という感想が多く、では勉強のつもりで読んでみるかと思った。

話を言語に戻すと、当時の日本では海軍が英語だったのに対して陸軍がフランス語(後にドイツ語?)を勉強していたそうだ。
よく僕は、日本の英語教育があまりよろしくないので中学、高校の6年間勉強してもなかなか身につかないのだと愚痴を言っているが、いやいやそんな甘いことを言っていてはいかんなと思った。

海軍の学校でも陸軍の学校でも、はたまた普通の中学や大学でも、この時代は語学や数学、理科の日本語で書かれた教科書なんてないから全て英語など外国の原書を使っていたそうだ。
それどころか、先生まで外国人。
そのころの学生は、下級士族出身でお金がない苦学生が多く、それでも必死にわけのわからない言語で勉強をしていた。

現代日本にいる僕も、ブータンやフィリピン、はたまた明治の日本の若者にも負けてはいけないなと単純に思うのでした。