家の最寄駅である大倉山駅の隣に、長くて急な坂がある。
そこをずんずん上っていくと、大倉山記念館という洋館がある。
地域の発表会や集いの場となっている建物だ。
その大倉山記念館で毎年、大倉山ドキュメンタリー映画祭というものが催される。
昨年、そこで二本の映画を観ていたく感動したため、今年も足を運んだ。
まず観たのが、『タケオ~ダウン症ドラマーの物語~』という映画。
タケオというダウン症の青年が、アフリカのセネガルでアフリカンドラムのワークショップに参加する。
その模様を追いかけながら、これまでのタケオの音楽を通したいろいろな出会い、体験を振り返る、そんなドキュメンタリー映画。
タケオは言葉を使った長いコミュニケーションはできない。
それでもみんなと心を通わせている。
そこで見せる、タケオの自信にあふれた姿が印象的だった。
音楽という、自分が信頼できて、自分に自信が持てるものがあるということが、きっとタケオの積極的に人や音楽に関わってく姿勢に現れているんだと思う。
それが、うらやましくもあり、なんだか希望にも感じる。
映画の中で、セネガルの人間国宝第一号と呼ばれるアフリカンドラマー演奏者のおじいさんが、
人間それぞれが持っているリズムを最大限引き出すことが大切なんだ、
と言っていた。
それは、これまで僕が学校の音楽の授業で教わったこととは随分違うことだ。
体系的に完成された西洋音楽の型。
五線があって、ドレミファの音階があって、オタマジャクシの音符がある。
この型にはまらない音楽はない。
はまらないものは音楽じゃない。
そして、その型通りに、楽譜の通りに演奏できることが優秀で、いい音楽だと教えられた。
決して、自分のリズムで自分の音楽を演奏することは教えられなかった。
だから、このおじいさんの言葉には、すごく魅力を感じた。
たぶん、音楽だけじゃなくて、絵画でも彫刻でも写真でも生け花でも、そんな人間の創作活動全てに当てはまるんじゃないか。
体系的に築き上げられた型にはまることではなく、上手だと評価されなくても、自分が本来持っているリズムを外に表現できることが大切だということ。
合唱や合奏には向かないかもしれないけど…。
もう一つ、タケオのお母さんの言葉。
親は、子供に場をつくってあげることはしないといけない。
それは、子供にはできないことだから。
その場の中でどうするかは、子供の好きなようにやらせるけれど。
なんとも謙虚だけど、気持ちのいい言葉。
これまで、ピアノ教室とか水泳教室とか、そういうものに対してなんだか親の理想や横並びや子供への押しつけみたいなイメージがあって、ネガティブな感情を持っていた。
でも、確かに子供が自分で場を作ることはできない。
場がなければ可能性はゼロだ。
ならば、せめて親は場を作ってあげる。
いくつもは無理でも、せめて子供が興味を持ったことに対しては、できるだけの場を作ってあげたい。
タケオのお母さんも言っていたけど、子供の喜ぶ顔を見るのが親の幸せだから。