キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

怒りのバロメーター

2009年05月31日 | Weblog
こっちに来る前は、憤りを感じることはあってもそれを表に出すということはそうそうなかった。
それが、こっちに来てからは仕事中にしょっちゅう怒りを爆発させている。
我慢の限界値が低くなっているんだろうか。

もちろん、暴力はタブー。
このエリアでちょっとでも殴ろうものなら即本国へ強制送還。
そのかいがあってか、いろんな人種がごちゃごちゃで働くこの現場でも暴力沙汰の喧嘩というのはほとんど聞かない。

でも、日本人の常識から言ってあまりに理不尽なことが多すぎて、ついかっとなってしまう。
どうしても、日本人の常識は世界のマナーだと思ってしまう。
いや、そう信じたいだけなのかも。

一つは、英語が原因なのかもしれない。
それは、僕の語彙が少ないためにストレートな表現で会話をしてしまうからか。
日本語のように、これは失礼な言い方だからとか、敬語にするとどうなるんだっけとか、余計なことを考えず、オブラートに包まず(包めず)、言いたいことをただただストレートに言ってしまうからだろうか。
たぶん、それは相手も同じで、日本語にしたらあまりに失礼な言い方を平気でする。
たとえそれが冗談のつもりであっても。

何が理不尽かをそのまま書くのは難しいけれど、例えば
「我々がXXを全くサポートしていない」
などと多くの人の前で言われたとき。
もう、その瞬間にかっちーんときて、猛抗議。
「我々がどれだけの余分な時間を使ってXXの追加リクエストに答えようとしてるのか知ってますか?」
「どれだけ多くの人が一人の無責任な思いつきやこだわりや体裁のために帰る時間を削って、中には帰国の時期を遅らせてまでそれに答えようとしていることを知っていますよね?」
「そもそも、YYが本来の仕事をきちんとできていないからこういうことになっているのも知っていますよね?」
「それをあなたが一番よくわかっているのに、よくそんなことをここで言えますね?」
書いていて、再度頭にきた。

こう考えると、「理不尽なこと+仕事を共にする者として誠実さにかけること+自分たちのグループが非難されたこと」
の条件が揃うと我慢できずに必要以上に相手に抗議してしてしまうようだ。

冷静に考えれば、いくら理不尽でもぐっと我慢しておいたほうが全体としてはいい場合がある。
理不尽なことを誰かが言えば、周りの人はみんなこの人はダメだとわかっているから、わざわざ火に油をさして面倒くさいことにしないほうがいい。
それでも、我慢できずにつっかかってしまうのは、こっちで働くようになってからだ。

どちらが素の自分に近いんだろうか。

旅のかたち ~車、バイク、電車、飛行機~

2009年05月28日 | Weblog
『旅のかたち』を考えた後半。

5) 車は、大学のときに対校戦で他県へ行くときにあえてみんなで車を借りて遠出をした。
あのころは、車への憧れや興味が今より強くて、とにかくみんなで車を使ってどこか行きたいって思いがあったんだと思う。
今では、あの頃車に乗ってはしゃいでいた仲間も当たり前の様に車に乗っている。
そういうところで、大人になっているんだなって思ってしまう。
最近思うのは、車の一番のいいところは閉じられた空間で、近い距離で、長い時間同乗者と話ができること。
車の本格的な旅もしてみたいな。
一人なら、カラオケルームになってしまうけど。

6) バイクはまさに浪漫の乗り物だと思う。
四つのタイヤという絶対的な安定をあえて捨て、二輪という不安定さを自ら操るところとか。
音楽も同乗者もなく(二人乗りはバイクでは特別)、一人で黙々と走り続けるところとか。
雨が降っても風が吹いても、その自然の環境をそのまま受け入れて、自然と一緒に走り続けるところとか。
バイクは四輪車よりもよっぽど人の身の丈にあった乗り物だと思う(自転車はもっと)。
けれど、僕はその浪漫と自由の喜びよりもその危険さにびびってやめてしまった。
特に寒さに弱い僕にはふきっさらしは辛かった。

7) 電車と言えば最初に浮かぶのが青春18切符。
この名前をつけた人はなかなかの詩人だと思う。
なんだか訳がわからない名前ではあるけれど(18歳以上も使えるし)、なんだか旅へのわくわく感を喚起させる不思議な名前。
これを使って旅をすると、とにかく寝る(笑)。
そのうちに虚しくなって、たまらなくなって、適当な駅で降りるとそこから新しい旅が始まる。
なぜか、海に近い町が多い。
自然と海に魅かれるんだろうか。
こんな旅を海外で、それもヨーロッパなんかでできたらすごくいいだろうなと今思っている。
日本という、ただ電車があるだけじゃなく、電車に情緒や浪漫を感じられる国に生まれてよかったなと最近思う。

8) 飛行機
バックパッカーによくあるアンチ飛行機だった。
というより、単に面倒くさがりなだけ。
遠いところにある飛行場まで行き、搭乗手続きをし(その前に予約も)、荷物チャックをして…、到着しても荷物を受け取り街まで車か電車で出るという行動が大変だった。
また、着陸するときにほんの少しでも不安を感じてしまうことも事実。
そして、あの巨大な物体がものすごい力を使って空に浮き上がるところを想像すると気が重くなった。
それよりは、電車なりバスに乗っていたほうが気が楽だと思っていた。
でも、最近よく近距離の飛行機にも乗っているせいか、前よりはその一連の行為に慣れてきたように思う。
それでも、まだ電車&バス派かな。可能なら。


旅のかたちはいろいろ。
そのうち、宇宙船っていう選択肢も出てくるのかな。
ああ、旅行したい。

ティーダとボーラ

2009年05月27日 | Weblog
これまで会社から借りて乗っていた日産のティーダをフォルクスワーゲンのボーラという車に変更した。
理由は、ガソリン車であるティーダでは現場へ入ることができなくなり、ディーゼル車が必要になったため。

日本では輸入車を運転したことがないし、乗車したのも殆どない。
初めての欧州車運転になり、わくわくした。

ちなみに、日本でのそれぞれの価格を調べてみるとこんな感じ(ボーラは既に絶版)

ティーダ150~200万円
ボーラ280万~340万円

さすが、輸入車のボーラはティーダより100万円以上高い。

が、まず乗ったときの第一印象は安っぽい。
このボーラはMT車だったのでAT車のティーダと走りは比較が難しいけど、全体的に安い。
ドアの動きやワイパーやハンドブレーキや。
先入観もあるのかもしれないけれど、一つ一つがすぐに壊れそうな気がする。
正確な値段はわからないけど、たぶんカタールではティーダの方がボーラよりも値段が高いんじゃないだろうか。
ティーダも遅くないし。

それでも、やはりフランス人やイタリア人は好んでフォルクスワーゲンやプジョーなどの欧州車を好んで乗る。
日本でも、100万円以上高くても輸入車は相変わらず人気だ。

なんとなく欧州車って車自身の高級感はないけど(ベンツやBMWは別)家族みたいにメンテして修理して長く使うイメージがある。
日本車は壊れにくい。

ひとそれぞれの車に対する考え方や思い入れで日本車にするか欧州車にするかが分かれるんだろうな。

ちなみに、世界の車大国日本ってほんとにすごいと思う。
TOYOTA、HONDA、NISSAN、MITSUBISHI、SUBARU、SUZUKI、MAZDA、DAIHATSU 全ての車を世界中で見る。
もちろんカタールでも全てよく見る。
こんな国、他にはない。
外国人から、「ああ、MAZDAも日本か。おお、DAIHATSUもか」って驚かれると何かうれしい。
でも、なぜこんなに日本の車産業はすごいのかと聞かれると、
「うーん、なぜだろう」
未だにはっきりした理由がわからない。

旅のかたち ~歩き、ランニング、自転車、バス~

2009年05月21日 | Weblog
『旅のかたち』っていい響きだなと思った。
『旅』っていう言葉は不思議な力を持っていて、この二文字を聞いただけで心の奥から突き動かされる興奮というか喜びがある。
その『旅のかたち』として、移動手段に着目してみた。

1) 歩き
2) ランニング
3) 自転車
4) バス
5) 車
6) バイク
7) 電車
8) 飛行機

まずは、1) ~ 4)まで。

1) に関しては小学校、中学校のときに散々やった。
当然、距離はかせげないけど、今思えば一回の旅で一番いろんなものをみれたのは、この歩いているときだったかもしれない。
道端にある一つ一つのもの、犬にも花にも家にも車にも話しかけるように興味をもって歩いた。
カメラを片手に持っていれば、それこそ心が満タンになるまで写真を撮り続けるだろう。
移動手段とは少し違うかもしれないけど、登山もある意味同じような意味があるのかもしれない。
昔は九州から東京まで一気に歩いて移動してたみたいだけど(篤姫ご一行とか)、少しでもそれと同じような体験ができたらなと思う。

2) はそんなにやったことはない。
荷物をあまり持てないのが理由か。
前回やったときは目的地に着いたときには足がぼろぼろで、観光もろくにできず、電車に乗って帰った。
でも、たまに思い立ってやるとかなりの冒険になるので、またやりたいな。
できれば一人でじゃなく。

3) は大学の前半によくやった。
この旅だけは今まで一人でしかやったことがない。
誰を誘っても来なかったから。
自転車で辛いのは山越えか。
あと、数日乗っているとお尻が痛くなる。
今のところ、それがクリティカル。
いつかまた、今度は誰かと少し長めの自転車旅行をしてみたい。
そのためにはクロスバイク買わないと。
クロスバイク欲しい。

4) バス!この響き!
なぜかバスって言うと旅を連想する。
不思議な言葉だ。
『サヨナラバス』、『天頂バス』、『水上バス』って歌のタイトルにもよくなる。
ブルーハーツの『青空』でも
「運転手さん、そのバスに、ぼくも乗っけてくれないか。行き先ならどこでもいい。」
って歌詞がある。
なぜか、その歌詞で心はすごく清々しくなる。
バスと青空とどこまでも続くカントリーロード。
これほど心が旅へ向く情景もない。
と言っても、国内ではスキーに行くか愛知から関東、関西にいく長距離バスくらいしか使ったことがない。
国外では、好んでバスを選んで上記の情景を堪能する。
最近ではトルコのどこまでも続く丘と青空の道が印象に残っている。

ポニョと山田君の歌

2009年05月19日 | Weblog
前回の一時帰国のときに『ジブリの歌』というCDを借りた。
2枚組みでナウシカから最新のポニョまでの主題歌や挿入歌が入っている。
『君をのせて』やトトロの『さんぽ』のように学校で教えている歌があるくらい、ジブリの歌にはなにかと名曲が多いと思う。
その曲を聴くだけで、その映画のシーンだけじゃなくその頃の自分まで思い出せてしまうのだからすごい。
耳をすませばの『カントリーロード』を聞いて小学校5~6年を思い出すとか。。

その中でも、最近いいと思っている曲が2曲。
隣の山田君の『ひとりぼっちはやめた』と『ポニョの歌』。

『ひとりぼっちはやめた』は、すごく前向きな歌だけど、人の弱さや寂しさを歌ったあとで大切な人と一緒に幸せになろうとするシンプルだけどストレートな歌詞がいい。
子供向けっぽい歌だけど、こういう絵本みたいな歌が好きだ。

ポニョは、日本でかなり流行ったよう。
「ぺーたぺた、ぴょんぴょん、足っていいな、駆けちゃお」
「にぎにぎ、ぶーんぶん、おててはいいな、つないじゃお」
「あの子とはねると、心もおどるよ」
ってところが特に好き。
体の一つ一つに感謝して、それを思い切り使ってやろうとする心意気、まさに子供の好奇心とわくわく。
あと、一人じゃなくて「つないじゃお」「あの子とはねると」って一緒にその体の部分を楽しむところも。
こうやって、当たり前のことに対して感謝して、幸せを感じるっていうのはすごく好きだ。

子供と一緒に歌いたいと思える曲は名曲だと思う。

結婚について

2009年05月16日 | Weblog
友人が一時帰国から戻ってきた。
なにかニヤニヤしているなと思ったら、
「帰ったときにガールフレンドのお腹にいる自分のあかちゃんにさわった」と。

彼はイギリス在住のルーマニア人。

日本ならできちゃった婚へと発展するところだけど、彼の考えは少し違う。
結婚するかどうか迷っているのだ。

ヨーロッパでは近年、結婚せずに恋人同士の関係で子供を産み育てるというケースが増えている。
最近は特にその傾向が強いようで、彼いわく半数近い若者が結婚をせずに家庭を築いている。

なぜ結婚をしないのかと聞くと、結婚をしてもしなくても特に違いがないからだそう。
日本では政府からの補助は結婚をした後で受けられるが、イギリスでは一緒に住んで家庭を持ってさえいれば結婚していなくても補助が受けられるそうだ。
確かに制度上大きな違いがなく、世間体が云々と言う縛りがないならば結婚をしないという選択肢も出てくるのかもしれない。

でも、なにかすっきりしない、もやもやが残るのは結婚の制度が染み付いた日本人だからだろうか。

そもそも結婚ってなぜするんだろう。
結婚前と結婚後は何が変わるんだろう。
結婚前だって恋人同士であれば浮気をしてはいけないわけだし。
結婚をしたら家庭を守るという責任が発生するというのも違うと思うし。
「神様の前で永遠の愛を誓う」というのも、別に神様に誓わなくても結婚前と結婚後で愛の深さが変わるわけじゃないし。

やっぱり、制度の問題なのかな。
う~む。

こうやって結婚について真剣に考えるようになってきた自分に驚き。

三年日記

2009年05月16日 | Weblog
このブログでは、いわゆる日記という日記を殆ど書いていない。
特に、その日にあったことを日記のように書くことはまずない。
それは、その日にあったことをそのまま書こうとすると、必然的にここには書けないことがでてきてしまうからで、それならばとここでは日記と言うよりふっと思ったことをためておく場所にしている。
考えたことをどこかに吐き出せるところがないと、なんだか心が硬くなっていくような気がして。

では、日々の記録はどうしているかというと、ある人の勧めで三年日記というものを去年の7月ごろからつけている。
一ページが三段に分かれており、各年の同じ日をその一ページに書き込む。
2009年5月15日と2010年5月15日、2011年5月15日は同じページの上から順に書き込まれていくというわけ。
そうすると、一年後、二年後にそのページへ再び戻ってきたとき、一年前、二年前にどんなことをして、どんな状況だったかを見直せるという仕組み。

日記って、中学のときも高校、大学のときもそれなりにいろいろな形でつけていたけど、それを読み返した記憶もないしどこかにまとめているわけでもない。いつも、日記をつけたらつけっぱなし。過去を振り返らないという点ではそれでいいのかもしれないけど、せっかく記録をつけているんだからそのまま散乱して眠らしてしまうのはもったいないとも思う。

五年日記というのもあったけれど、さすがに五年間同じ形式の日記をつけたことがないため、びびって三年日記。

たぶん、将来このブログと三年日記を合わせて見ると、当時の自分がなにを考え、なにをしていたか少しわかるんじゃないかと思う。
でも、ブログに書くような「自分の考えている」ことってたぶんあんまり変わらないんだろうな。

スメハチ3 ~2年ぶり~

2009年05月14日 | Weblog
最近、トイカメラのスメハチをまた使い始めた。
3年くらい前に買った物だけど、1年半くらい使っていなかった。
それをこの前の一時帰国のときに部屋から持ってきてみると、新鮮だからかそれ以来一眼レフやコンパクトデジカメをそっちのけでスメハチばかり使っている。

ふっと思い出して、このブログの昔の投稿を見てみると、2006年1月25日にこのカメラについて熱い興奮の感想が書かれていた。
その後、メカニカルなことも書いているので、今回の題名は『スメハチ3』

ところで、スメハチの中に2年くらい前のフィルムが使いかけで入っていた。
こういうときって、すごくわくわくする。
現像するとどんな写真が出てくるんだろう。
古い引き出しから現像前のフィルムや使い捨てカメラが出てきたときと同じ高揚感。
タイムカプセルや宝箱と書かれた子供の頃のブリキの箱の様。

早速、ドーハのカメラ屋に出してみると、ほんとに昔に撮った、今ではどこか場所もわからないようなバス停や小さな路地が写っている。
意外と色合いは普通だ。
ん、でもよく見ると枚数が異常に少ない。

おかしいと思い、カメラ屋さんに聞いてみると、
「きみのフィルムは古すぎる。現像するに値したのはこれだけだったよ」
とかなんとかおっしゃる。

もし、そうだとしても、古いフィルムがどうなるのか、自分の撮った写真がどうなのかを知りたいから全部プリントしてくれとせがんだ。
出てきた写真を見てびっくり。

すごくきれい。

全体が青みがかって一部薄くなっていて。
スメハチは機密性が低いため、ずっとフィルムをカメラに入れておくと少しずつ光が入ってフィルムの色が変わってしまいやすいんだろうか。
とにかく、きれいな青っぽい写真が大好きな僕としては大満足。

ということは、さっき見た普通の色合いの写真は、写真屋のおじさんがデジタル補正してたってことか。
こんなきれいな、青い写真を却下したり、色を無理やり直そうとするなんて、もう!
写真屋のおじさんに、
「こんなカメラじゃなくて、今はこんなにいいデジカメがあるんだよ」
と勧められたので、このスメハチはトイカメラといって日本で徐々に人気が出てきているチープで単純なカメラなんだよと言っても理解してもらえなかった(僕の説明が悪いのが大きい)。

それらか2つフィルムを使い切り現像したが、もう涙が出そうないい写真が何枚も撮れた(あくまで自分評価)。

スメハチで撮った写真はピントがぴったり合わないことが殆どだ(目測であわせるため)。
露出も50%はあてずっぽ。
色合いも、繊細とは程遠い原色が濃く写りこむ一般的に言って安っぽい色になる。
結果として、使い捨てカメラでとったような写真になる。
それは、写真の評価という点では落第点なんだろうけど、「楽しむ」「きれいなもの」という点では僕なりにすごく価値のあるお気に入り写真が撮れる。

そう考えると、小学生のときに使い捨てカメラで撮っていた写真たちを見返すと、たくさんのお気に入りが見つかるんだろうなと思った。

集合写真の顔

2009年05月13日 | Weblog

子供が写っている記念写真を見ると、何故かみんなしかめっ面をしていたり、まぶしそうにしていたり、強張った無理やりの笑顔をつくったりしている。たまにきれいな笑顔を作っている子がいると(女の子の場合が多いと思うけど)、逆に逆にその子だけ浮いて目立っていたりする。

それが大人になると、記念撮影では満面の笑顔で写ったり、余裕の表情だったり。

かくいう僕もそう。
保育園や小学校のクラス写真をみると、つまらなそうだったり、しかめっ面だったり、不振そうな顔だったり。
でも今は笑おうと思えばカメラの前で多少強張ってはいるかもしれないけど、十分笑える。

大人になると、月日を重ねると、作り笑いがうまくなるんだろうか。

明治時代や昭和初期の集合写真って、みんななぜか気難しそうなしかめっつら。
集合写真って、本来、無理に笑顔を作って写るべきじゃないんだろうか。

お父さんになったら

2009年05月11日 | Weblog
お父さんになったら、こういう風になりたいなと思うことを書き出してみました。
あくまで「お父さんになったら」という仮定で、別に子供ができたとかそういう話じゃないです。

1) 子供と一緒にふざけられる

2) 子供と一緒に歌が歌える
(みんなの歌やアニメの歌など子供の聞いている歌を覚える)

3) 子供が大きくなったら一緒にお酒が飲める

4) 子供と一緒にいろんなことに挑戦ができる
(工作や山登りなど)

5) 子供と一緒にスポーツができる
(キャッチボールや鬼ごっこなど。いつか腕相撲も負ける日が来る…)

6) 子供と一緒に勉強や不思議なことを考えたり調べたりできる
(自分が知っていることでも、子供と一緒に調べることをしたい)

7) 子供と一緒に近所を散歩
(夕方の町を特に目的を作らずぶらぶらと公園や商店街へ散歩っていいなと思う)

8) 子供と一緒に夢を語れる

もちろん、それぞれの項目はお母さんと一緒にできればなおよしです。
でも、お母さんよりお父さんのほうが一般的にこういうことってだんだん難しくなるもんだと思います。
なぜでしょうかね。

たぶん1)と7)がずっとできれば、他のもうまくいくと思うんだけど。

今回は珍しく「ですます調」でした。

一若者の主張

2009年05月06日 | Weblog

先日、飲みの席であるおじさんがこう言っていた。
「最近の若いのは坊主にしとらん。気合が全く感じられん」
「お前の親父はどこの大学だ?」
いやいや、がっかり。

この前、さだまさしがテレビでこう言っていた。
「今、若者が国を語らない。」
「日本の若者はどんどん悪くなっている」
「昔はほんとうによかった。なんかこう、すごくよかった」
いやいや、がっかり。

旧体制、古い考えの時代の人から見れば新体制、新しい考えの人はいつだって悪く見える。
今の社会についていけないならば自己防衛をしないといけないからそれは当然だと思う。

でも、だからって「今の若者は昔よりもよくない」って発言を聞くたびにその人にがっかりする。

武士の時代から明治時代へ移行したとき、人々は若者がどんどんよくなっていると思っただろうか。
戦前、戦中を経て戦後になったときに、大人たちは若者がどんどんよくなっていると思っただろうか。

いつでもその時代の若者は大人たちにとって目の敵だ。
大人たちは若者たちに取って代わられることを恐れている。

でも、その「どんどん悪くなっている若者」の積み重ねで今の日本があるわけで、その日本が昔より少しでもいいものになっているんだとしたら、それは若者が少しずつでもよくなっている証拠なんじゃないかと思う。
確かに、今の若者にも日本にも問題はたくさんあるけれど、昔も問題はたくさんあって、多分生きるという点からみれば今より昔のほうが深刻だったんじゃないかと思う。

大人だって若者だって、今より世の中を悪くしようと思っている人なんていない。
だからもっと前向きに若者を見てほしい。

日本に帰ったらやりたいこと

2009年05月05日 | Weblog
こっちに赴任してから1年半以上が経ち、ようやく帰任のめどがたってきた。
そこで日本に帰ったらやりたいことを書き出してみた。
順不同。思いついたまま。


1) トレイルラン
友人が出たそうで、面白いらしい。
というか、山を走れるなんて面白いに決まってる!

2) バレー
こっちに来てバレーをほとんどやっていない。

3) 神戸に引っ越した友人を訪問
それ以外にも、いろんな友人と久しぶりに会いたい。

4) 陸上の試合に出る&応援
まずは東京の七大かな。短距離を今どれくらいで走れるのか知りたい。

5) のんびりぶらぶら写真散歩

6) (好きな人と)知らない街を散策

7) 映画巡り
贅沢に見たい映画を映画館でたくさん観たい。

8) (好きな人と)電車旅行
カタールには電車がない。

9) (好きな人と)自転車旅行
クロスバイク欲しい。

10) (好きな人と)登山

11) (好きな人と)日本のお祭り
盆踊りとかもしたい。



これまで4ヶ月に一度は一時帰国しているので、日本食で特にこれが食べたいっていうのはない。
これが欲しい!っていうのも少ない。
ただ、好きな人といろんなことをしたいっていうのはたくさんある。
まあ、それは日本にいてもいなくてもたぶん同じような項目になるんだろうけど。

あと、2ヶ月くらいで帰れたらいいな。

「走る」考察~たまりっぱね~

2009年05月04日 | Weblog
「たまりっぱね」
という言葉がある。

体にたまっているバネという意味だ。
よく、陸上の試合前に「バネをためるために練習を軽くする」とか
しばらく練習を休んでしまったときに「バネがたまってるから体が軽い」とか言う。
また、練習中や試合中に「バネが切れた」なんて言葉もよく聞く。

バネってなんだろう?
そんなものってあるんだろうか?
体のバネってぜんまいのように巻けば(時間がたてば)たまるもの?
ただ単に速筋が疲れているかどうかの違いなんじゃないの?

学生のとき、バネについてはそんな感じで懐疑的だった。
バネなんて抽象的な言葉を使わずに、もっと具体的に表現すべきだと思っていた。
どこどこの筋肉が疲れているから、とか。

ただ、最近少しだけ考えが変わってきた。
その経緯は;

こっちに来てバスケを始めた頃、驚くほど走れた。
僕はバスケ自体はうまくないから、ただただ走って貢献するしかない。
だから走りまくった。
疲れるけれど、それとは関係なく走れた。
息が切れて、肺が苦しくても、走ろうと思えば、少し踏ん張ればぽんっと前に出られた。

でも、バスケをする日が続くと次第にその感覚が変わってきた。
疲れていなくても、足がついていかない。
また、試合開始直後は走れるのに、すぐに足ががくがくになる。
しかも、3~4日休んでも最初の頃のようなぽんぽん走れるところまでは戻らない。
普通の疲れなら4日も休めば戻るはずなのに。

単なる疲れとは少し違ったもの。
これをバネと表現していいのかはわからないけど。

体の現象を一つ一つ、具体的に表現して頭で理解していくのは大切だと思う。
その方が、他の場合にも応用できるし、説明にも説得力がある。
なにより、抽象的な表現を使って曖昧にして逃げることができない。

ただ、例えば「体にたまるバネ」のような、体の感覚的な部分を他のものに例えて全体的に捉えることも面白いと思った。
そのバネが何なのかはさておといとくとして、現実に体に起こっていることを手っ取り早く説明し、受け入れていく、スポーツというよりはいわゆる生活の知恵というレベルでは、これでもいいんじゃないかと思う。

それはそれ。
スポーツ的に具体的に表現することの探求は続けるとして。

核兵器

2009年05月03日 | Weblog
「日本は核兵器を持っているんだろう?」

ある話の流れから、こんなことを聞かれた。
彼はインド人で、某有名メーカーに勤めているエンジニアだから国際情勢に疎いわけではない。
事実、プロジェクトからプロジェクトへ渡り鳥のように生きている彼は、僕なんかよりもよっぽど世界経済の動きに敏感だ。
彼は、広島、長崎も知っているし、日本に旅行をしたらまず最初に広島に行きたいといっている。
そんな彼が、日本は核兵器を持っていると思っていた。
それならば、どれだけ多くの人が日本は核兵器を保有していると思っているんだろう。

彼の考えの根拠はこうだ。

1) 隣国のロシア、中国が核を保有し、さらに北朝鮮が保有しようとしている。それに対して、日本が持たなければ外交上立場が弱くなってしまう。

2) 日本の技術力があれば、当然核兵器を作っていると思った。

3) 北朝鮮が核兵器を使った場合、日本は自国の核兵器なしでどう対抗する?

これに対して、日本は唯一の被爆国で、核兵器の怖ろしさ、虚しさ、無意味さをよく知っているからとか、
非核三原則を説明しても、到底納得してもらえない。

特に、3) に関しては
「その場合は、条約に基づいてアメリカが日本を守ってくれることになっている」
なんて、とても言えなかった。

非核三原則が正しいと思っている僕と同じように、核兵器を持って自国を守ることが絶対に正しいと彼は思っているんだろう。
とにかく、核兵器は人類に地球に不幸ばかりを生んでなんの利益ももたらさない、そのことしか言えなかった。