「走ることの楽しさを教えてください」
ある飲み会で、後輩からそんな質問が出た。
ランニングの練習会後の飲み会だったので、走り好きばかりが集まっていた。
仕事の話題は全く出ず、ひたすら練習方法やら大会やらシューズの話やらで盛り上がる、そんな飲み会だった。
その中で唯一、その後輩だけが走ることに理解を示していないのだった。
そのときに、「走ることの楽しさ」を明確に説明できる者はいなかった。
実を言うと、簡単にそれを説明する人が現れないことを僕は心の隅で祈っていた。
その疑問は、僕にとってもおよそ重要な問題であり、そしてこと「走ること」のみに限定したとき、僕はそれを好きだと思ったことも明言したこともないからだった。
4月20日から21日にかけて、フライデーナイトリレーマラソンという大会に出場した。
20日の午後7時から21日の午前7時まで、国立競技場の周回コースを複数人で襷をつないで走り続けるというレース。
夜中の競技場を、12時間もの間みんなでひたすら走るという、変わった大会。
この日の夜、国立競技にはテントや寝袋が所狭しと並び、ビールがないことを除けばまるで夜の花見状態に。
一度走ると、最低でも40分は休憩になるため、カードゲームやジグゾーパズルを用意しているチームもいた。
また、車座になって話し込んでいるチームもいる。
銘々が、春の夜長を楽しんでいるように見えた。
でも、それは走ることを楽しんでいるわけでは決してない(と思う)。
走ること自体はやはり辛いのだ。
夜も午前3時ごろになると、走っている人の顔は一様に苦しそうな表情になる。
もう、スタートから8時間にもなるのだ。
しかも、まだ4時間もあるのだ。
苦しい。
肉体的にも、精神的にも苦しい時だ。
そんなとき、きっと多くの人が改めて自問自答するだろう。
中には、チームメイトにぼそっと囁いた者もいたかもしれない。
「なんで僕らはこんな苦しい思いをしてまで、走っているんだ?」
一般的に言って、走ること自体を楽しいとか気持ちいいと思っている人はほとんどいないと思う。
ランニングハイで、走ることに快感を覚えているという人は、ほんのごく一部ではないだろうか。
特に、この大会について言えば、本当にクレイジーだ。
時間に比例して疲労が蓄積され、体のいろんなところが痛くなる(うちのチームでも1名が負傷棄権、1名が一時的に戦線離脱した)。
寒かったり、眠かったり。
得することは何一つない。
きれいな景色が見れるわけでもないし、うまいビールが飲めるわけでもない(大会終了時は午前7時でどこの飲み屋もやっていない)。
それなのに、これだけの人々がこの大会に参加するのはなぜか(締切前に定員オーバーになる程の人気がある)。
それは、好奇心だと思う。
そして、現実の生活とは違う世界に行ってみたいという願望。
こんな、何の見返りも期待できない、苦しいだけのクレイジーな大会。
そこには、きっと普通では味わうことのできない場があって、空気があって、そして人々がいる。
そんな中に自分も入っていき、ひとときだけれどもその世界に浸りたい。
そこで何かを見つけられるかもしれないけれど、それはきっとあまり期待してい。
何かを得たいという願望よりも、そこに行きたいという興味。
たぶん、走る理由というのもそれに近いんじゃないかと思う。
少なくとも僕について言えば。
走ること自体が楽しいわけではなく、あの日常と違う場や空気や人々のいる世界に、興味があるから。
それは、たぶん好奇心という言葉に関係している。
だから、好奇心が無くなったら、走ることはできないと思う。
そんな似通った傾向の好奇心を持ち合わせた、(一般的に言って)(でも、好意的な意味で)クレイジーな人たちが集まって、こうして一緒に走れることを幸せに思う。
ある飲み会で、後輩からそんな質問が出た。
ランニングの練習会後の飲み会だったので、走り好きばかりが集まっていた。
仕事の話題は全く出ず、ひたすら練習方法やら大会やらシューズの話やらで盛り上がる、そんな飲み会だった。
その中で唯一、その後輩だけが走ることに理解を示していないのだった。
そのときに、「走ることの楽しさ」を明確に説明できる者はいなかった。
実を言うと、簡単にそれを説明する人が現れないことを僕は心の隅で祈っていた。
その疑問は、僕にとってもおよそ重要な問題であり、そしてこと「走ること」のみに限定したとき、僕はそれを好きだと思ったことも明言したこともないからだった。
4月20日から21日にかけて、フライデーナイトリレーマラソンという大会に出場した。
20日の午後7時から21日の午前7時まで、国立競技場の周回コースを複数人で襷をつないで走り続けるというレース。
夜中の競技場を、12時間もの間みんなでひたすら走るという、変わった大会。
この日の夜、国立競技にはテントや寝袋が所狭しと並び、ビールがないことを除けばまるで夜の花見状態に。
一度走ると、最低でも40分は休憩になるため、カードゲームやジグゾーパズルを用意しているチームもいた。
また、車座になって話し込んでいるチームもいる。
銘々が、春の夜長を楽しんでいるように見えた。
でも、それは走ることを楽しんでいるわけでは決してない(と思う)。
走ること自体はやはり辛いのだ。
夜も午前3時ごろになると、走っている人の顔は一様に苦しそうな表情になる。
もう、スタートから8時間にもなるのだ。
しかも、まだ4時間もあるのだ。
苦しい。
肉体的にも、精神的にも苦しい時だ。
そんなとき、きっと多くの人が改めて自問自答するだろう。
中には、チームメイトにぼそっと囁いた者もいたかもしれない。
「なんで僕らはこんな苦しい思いをしてまで、走っているんだ?」
一般的に言って、走ること自体を楽しいとか気持ちいいと思っている人はほとんどいないと思う。
ランニングハイで、走ることに快感を覚えているという人は、ほんのごく一部ではないだろうか。
特に、この大会について言えば、本当にクレイジーだ。
時間に比例して疲労が蓄積され、体のいろんなところが痛くなる(うちのチームでも1名が負傷棄権、1名が一時的に戦線離脱した)。
寒かったり、眠かったり。
得することは何一つない。
きれいな景色が見れるわけでもないし、うまいビールが飲めるわけでもない(大会終了時は午前7時でどこの飲み屋もやっていない)。
それなのに、これだけの人々がこの大会に参加するのはなぜか(締切前に定員オーバーになる程の人気がある)。
それは、好奇心だと思う。
そして、現実の生活とは違う世界に行ってみたいという願望。
こんな、何の見返りも期待できない、苦しいだけのクレイジーな大会。
そこには、きっと普通では味わうことのできない場があって、空気があって、そして人々がいる。
そんな中に自分も入っていき、ひとときだけれどもその世界に浸りたい。
そこで何かを見つけられるかもしれないけれど、それはきっとあまり期待してい。
何かを得たいという願望よりも、そこに行きたいという興味。
たぶん、走る理由というのもそれに近いんじゃないかと思う。
少なくとも僕について言えば。
走ること自体が楽しいわけではなく、あの日常と違う場や空気や人々のいる世界に、興味があるから。
それは、たぶん好奇心という言葉に関係している。
だから、好奇心が無くなったら、走ることはできないと思う。
そんな似通った傾向の好奇心を持ち合わせた、(一般的に言って)(でも、好意的な意味で)クレイジーな人たちが集まって、こうして一緒に走れることを幸せに思う。