キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

ANZACの日

2015年04月25日 | Weblog

今日はオーストラリアのANZACの日。

第一次大戦中の1915年に連合国側が同盟国側のオスマントルコに上陸しようとしたガリポリの戦いを讃える日だそうだ。

ANZACとは、Australian and New Zealand Army Corpsの略で、オーストラリアとニュージーランド陸軍のこと。
この上陸作戦がオーストラリアにとって初めての海外遠征だった。


結果的にガリポリの戦いは連合国側の敗退に終わる。
それでも大規模な犠牲者を忘れないための日を休日にするのは、日本の終戦記念日に通ずるものがあるかもしれない。

でも、この日に軍隊が街を行進し、その軍隊に皆が拍手を送るというANZAC DAYの位置付けは、過去の過ちを反省し、二度と戦争をしないと誓う日本の終戦記念日とは大きく違う。
それが国民の意識にも影響しているのは間違いない。

また、オーストラリアの初めての海外遠征だったこのガリポリの戦いで想起させられるのは、自民党がやろうとしている自衛隊の海外の有志連合軍への参加。
僕は正直今は賛成とも反対ともまだ言えない。

日本だけが平和ならいいわけではない、世界の平和のために日本も貢献すべき、という大義は賛成。
でも、有志連合が組まれる背景に資源確保や軍事産業からの影響力は排除できないし、そのために翻弄され不幸な結果になった当事国はいくらでもある。

ANZACは志願兵だったというが、自分の国とは関係のない遠いトルコの地で若い多くの命が失われたとき、国民はどう思ったのだろう。

複葉機が飛び、子供たちも軍の後について行進する。
胸に勲章をつけた兵隊さんが家族とダーウィンの街を散歩している姿がよくみられる。

オーストラリアのトレーニングを受けて思うこと

2015年04月12日 | Weblog

オーストラリアに来て、なにかとトレーニングを受ける機会が多い。
オーストラリアは何をするにもトレーニングを受けたという証明が必要なようで、もともとは品質や安全の水準を上げることが目的だったのだろうけど、今ではそれがビジネスにつながって過剰になりすぎているという印象。

それはそれとして。


こちらでトレーニングを受けていて面食らうのは日本と講義の進め方が大きく違うということ。

日本では小学校から大学まで講義中に質問や意見があれば手を挙げる。
それに手を上げるタイミングも普通は先生が「これわかる人?」とか「質問がある人?」と聞いてきて初めて生徒は手を挙げる。
よく覚えていることがある。
小学校のとき最初に手の上げ方を教えてもらった。
「はいっ」とは言わずに手をまっすぐに上げること。

でも、オーストラリアでは手なんてあげずに勝手に教室のあちこちから声が上がる。
手を上げて講師に当ててもらうのを待つというプロセスがなく、とにかく言いたい時に発言する。

そんな中に、講師に当ててもらうことを期待している日本人がいるとどうなるか。
発言するタイミンをつかめず、何も言えずに講義が過ぎてしまう。

間違っているかもしれないが、手を上げて講師に当ててもらってから発言するのはアジア的、自分の言いたい時に発言するのは欧米的かなと思う。
もちろん、大きな会議などフォーマルな場ではその限りではないだろうが、少なくとも教室で行われるトレーニングや講義ではそうだと思う。

これは日本人にとって問題だと思った。
少なくとも、日本人が欧米のこのような場にいると、圧倒的に存在感がなくなってしまう。
答えがわかっていても、質問があっても発言の機会を逸していく。
その一方でこのような形態に子供の頃から慣れている欧米人は間違っていようがずれていようがどんどん発言をし、存在感を高めていく。

こういうのって、教室の外での姿勢にも繋がると思う。
自分の意見を会議の場で自然に発言できる力。
英語だというのもあるが、日本人はどうしてもぎこちなさがあるように思う。

こういうのって、子供の頃からの習慣が大切だ。
日本人が海外でも存在感を示すためのトレーニングとして、学校ではせめて英語と数学(算数)の時間は生徒の発言方法を欧米風にしてみてはどうだろうかと思う。