マイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』を読んだ。
(またまた長文です)
同著者の『これからの正義の話をしよう』が、僕にとってとても興味深いものだった。
それは、様々な現代の問題を「正義にもとるか」という視点で論じ、これまで目をつむっていたこと、考えないように頭を麻痺させていたことが、いかに人間として生きる上で大切なことかを考えさせてくれた。
それに対して本書は、あるものが自由市場で売りに出されたとき、果たしてそれが「人間の道徳的腐敗につながらないか」、または「そのものの道徳的価値が貶められないか」という視点で論じている。
それは、家庭生活であり、友情であり、生殖、健康、教育、自然、芸術、スポーツ、そして命だったりする。
この本が今を生きる人間すべてに問いかけているのは(そして僕も聞いてみたいのは)、人間としての道徳と経済の発展とどちらが大切か?ということだ。
法律に違反しなければ、そして誰もが不利益を被らなければ、しかしそれが道徳的に人の心を腐敗させていくとしても、果たしてどんなものでも市場で売り買いしてもいいのかという問いかけだ。
逆に言えば、現代の市場ではこんなものまでもと驚くようなものまで、値段がついて売り買いされている。
例えば、バイアティカルという産業がある。
病気や寿命のために、近々亡くなるだろうという人の生命保険を買い取るというものだ。
売る方は、余命幾ばくかのために必要な資金を得ることができる。
買う方は、被保険者が死亡した際に大金を手に入れることができる。
双方がハッピーで、他の誰にも迷惑がかかっていないように思える。
しかし問題は、生命保険を買った方は、被保険者が早く死ねば死ぬほど利益を得ることにある。
保険料を払い続ける必要がなくなるし、保険金を得ることができるからだ。
また、ある病気の新薬が開発されると、その病気を患っていた患者の生命保険は市場で値が下がる。
バイアティカルの投資家たちは、新薬の開発はBad Newsなのだ。
人の一刻も早い死を望み、新薬の開発を望まないという人の心が、道徳的に腐敗しているとは思わないだろうか。
しかし、このバイアティカル、命の先物市場は、今やアメリカで巨大な産業になっている。
同じような例として、テロの先物市場というものがある。
ある国の大統領がいつ暗殺されるか、ある国で生物テロがいつ起こるのかを市場の参加者がかけるというものだ。
その主催者はアメリカ国防総省だ。
目的は、テロ犯罪の予測を市場に出すことによって、精度の高い情報が集められるとういもの。
確かに、これも誰が損するわけではなく、むしろテロ犯罪の予測精度が上がりることで国防につながり、いいことづくめのように思える。
しかし、これもバイアティカルと同じく、この市場に投資する人間は、ある国の人々が殺されることを願い、ある国が爆破されることを願うことになる。
それが、人間として道徳的に腐敗していることにはならないだろうか。
大切なのは、天秤にかけることだ。
残された僅かな時間を経済的に豊かに過ごすという利益と、誰かが自分の一刻も早い死を望むという道徳的な腐敗と、そのどちらを選択するか。
また、国の安全という利益と、人々の不幸を願う人間を作り出すという道徳的な腐敗と、そのどちらを選択するか。
難しい選択だと思う。
ただ、大切なのはその議論を行うこと。
それが市場で売り買いされることで、そのような道徳的な腐敗が起こるということを認識して、それでも市場に出すべきなのかを議論すること。
今の市場には、その議論を欠いて値をつけられ、道徳的な腐敗が起こっているものがたくさんある。
上記の例に比べれば笑い話だが、アメリカでは野球の解説までもが市場に出されているそうだ。
選手がベースに無事に滑り込むたびに、会社のロゴがテレビ画面に映り、実況放送のアナウンサーは
「セーフです。安心と安全。ニューヨークライフ」
と言わなくてはいけない。
東の空はチューインガム、北の空は歯ブラシと下着、西の空はウイスキー、南の空はペチコートで飾られて、天空全体がおそろしく尻軽な女たちでギラギラしている。
本書の中で現代のアメリカを言い表した言葉だが、日本にも当てはまりそうだ。
もう一つここで挙げておきたいのは、行列の倫理というもの。
いわゆる、早い者勝ちだ。
この早い者勝ちは、どこまで適用されるべきなのかという議論。
遊園地の人気アトラクションの行列に、今ではある額を支払えば割り込みをすることができる。
このような割り込み優先権を市場に出す。
それは市場としては推奨されることかもしれない。
でも、お金持ちの子も貧しい子もみんなが一緒になって行列を待っていた時代から、お金持ちの子は行列に並ばない時代へ。
それについて、心のどこかに嫌悪感があるのはどうしてだろうか。
それは、お金があろうがなかろうが、みんなが等しく体験すべきことがあるからではないのか。
もっと酷い例として、中国では割り込み優先権を医療に当てはめているところもあるそうだ。
多くの人が病で苦しんでいる中で、お金持ちはすぐに診察してもらえるのに対して、貧しい人々は整理券を得るために何日も行列に並ばないといけないという。
お金がある人は、ない人よりも、優先的に生きられる。
自由市場では、それが当たり前だし、総合的に見て人類の幸福最大化になるとされる。
そうやって割り切ってしまうのは簡単だ。
そこで思考を停止すれば、楽でもある。
お金のある人はない人よりも能力があるし、努力もしている。
だから、何に対しても優先的にできるべきだ。
果たしてそうだろうか?
お金のある人は、単にお金を稼ぐ努力をし、お金を稼ぐ能力があっただけではないのか。
お金を稼ぐこととは関係のないところで努力をする人間もいるのではないか。
むしろ、人間の道徳的な行為とは、そのようなものではないのか。
人間として、お金があろうがなかろうが関係なく、平等であるべき領域はあるはずだ。
その平等だった部分が、今市場に追いやられ、今どんどん小さくなっている。
と、そうは言っても、今の世界を生きていくうえで、僕だってお金で買いたくなるものがある。
お金で解決できるなら、してしまいたいと思うときがある。
お金がない人には申し訳ないけど、お金があるんだから自分たちだけでも…。
本当は、この世の中から直していかなければいけないんだけど、でもそれは先の話。
今は、とにかく、お金で解決しておこう。
胸は張れないけど。
そうやって妥協していくことがあるかもしれない。
でも、そうだとしても、そんな議論に目をつむって、頭を麻痺させて、お金で解決するのはやめにしたい。
議論をし、道徳的な腐敗と得られる利益と天秤にかけ、それでも利益をとるのかどうかを決めるべきだ。
この議論は、今を生きる全ての人間が必要なことだと思う。
それはつまり、ぼくたちはどんな種類の社会に生きたいか、という議論だ。
(またまた長文です)
同著者の『これからの正義の話をしよう』が、僕にとってとても興味深いものだった。
それは、様々な現代の問題を「正義にもとるか」という視点で論じ、これまで目をつむっていたこと、考えないように頭を麻痺させていたことが、いかに人間として生きる上で大切なことかを考えさせてくれた。
それに対して本書は、あるものが自由市場で売りに出されたとき、果たしてそれが「人間の道徳的腐敗につながらないか」、または「そのものの道徳的価値が貶められないか」という視点で論じている。
それは、家庭生活であり、友情であり、生殖、健康、教育、自然、芸術、スポーツ、そして命だったりする。
この本が今を生きる人間すべてに問いかけているのは(そして僕も聞いてみたいのは)、人間としての道徳と経済の発展とどちらが大切か?ということだ。
法律に違反しなければ、そして誰もが不利益を被らなければ、しかしそれが道徳的に人の心を腐敗させていくとしても、果たしてどんなものでも市場で売り買いしてもいいのかという問いかけだ。
逆に言えば、現代の市場ではこんなものまでもと驚くようなものまで、値段がついて売り買いされている。
例えば、バイアティカルという産業がある。
病気や寿命のために、近々亡くなるだろうという人の生命保険を買い取るというものだ。
売る方は、余命幾ばくかのために必要な資金を得ることができる。
買う方は、被保険者が死亡した際に大金を手に入れることができる。
双方がハッピーで、他の誰にも迷惑がかかっていないように思える。
しかし問題は、生命保険を買った方は、被保険者が早く死ねば死ぬほど利益を得ることにある。
保険料を払い続ける必要がなくなるし、保険金を得ることができるからだ。
また、ある病気の新薬が開発されると、その病気を患っていた患者の生命保険は市場で値が下がる。
バイアティカルの投資家たちは、新薬の開発はBad Newsなのだ。
人の一刻も早い死を望み、新薬の開発を望まないという人の心が、道徳的に腐敗しているとは思わないだろうか。
しかし、このバイアティカル、命の先物市場は、今やアメリカで巨大な産業になっている。
同じような例として、テロの先物市場というものがある。
ある国の大統領がいつ暗殺されるか、ある国で生物テロがいつ起こるのかを市場の参加者がかけるというものだ。
その主催者はアメリカ国防総省だ。
目的は、テロ犯罪の予測を市場に出すことによって、精度の高い情報が集められるとういもの。
確かに、これも誰が損するわけではなく、むしろテロ犯罪の予測精度が上がりることで国防につながり、いいことづくめのように思える。
しかし、これもバイアティカルと同じく、この市場に投資する人間は、ある国の人々が殺されることを願い、ある国が爆破されることを願うことになる。
それが、人間として道徳的に腐敗していることにはならないだろうか。
大切なのは、天秤にかけることだ。
残された僅かな時間を経済的に豊かに過ごすという利益と、誰かが自分の一刻も早い死を望むという道徳的な腐敗と、そのどちらを選択するか。
また、国の安全という利益と、人々の不幸を願う人間を作り出すという道徳的な腐敗と、そのどちらを選択するか。
難しい選択だと思う。
ただ、大切なのはその議論を行うこと。
それが市場で売り買いされることで、そのような道徳的な腐敗が起こるということを認識して、それでも市場に出すべきなのかを議論すること。
今の市場には、その議論を欠いて値をつけられ、道徳的な腐敗が起こっているものがたくさんある。
上記の例に比べれば笑い話だが、アメリカでは野球の解説までもが市場に出されているそうだ。
選手がベースに無事に滑り込むたびに、会社のロゴがテレビ画面に映り、実況放送のアナウンサーは
「セーフです。安心と安全。ニューヨークライフ」
と言わなくてはいけない。
東の空はチューインガム、北の空は歯ブラシと下着、西の空はウイスキー、南の空はペチコートで飾られて、天空全体がおそろしく尻軽な女たちでギラギラしている。
本書の中で現代のアメリカを言い表した言葉だが、日本にも当てはまりそうだ。
もう一つここで挙げておきたいのは、行列の倫理というもの。
いわゆる、早い者勝ちだ。
この早い者勝ちは、どこまで適用されるべきなのかという議論。
遊園地の人気アトラクションの行列に、今ではある額を支払えば割り込みをすることができる。
このような割り込み優先権を市場に出す。
それは市場としては推奨されることかもしれない。
でも、お金持ちの子も貧しい子もみんなが一緒になって行列を待っていた時代から、お金持ちの子は行列に並ばない時代へ。
それについて、心のどこかに嫌悪感があるのはどうしてだろうか。
それは、お金があろうがなかろうが、みんなが等しく体験すべきことがあるからではないのか。
もっと酷い例として、中国では割り込み優先権を医療に当てはめているところもあるそうだ。
多くの人が病で苦しんでいる中で、お金持ちはすぐに診察してもらえるのに対して、貧しい人々は整理券を得るために何日も行列に並ばないといけないという。
お金がある人は、ない人よりも、優先的に生きられる。
自由市場では、それが当たり前だし、総合的に見て人類の幸福最大化になるとされる。
そうやって割り切ってしまうのは簡単だ。
そこで思考を停止すれば、楽でもある。
お金のある人はない人よりも能力があるし、努力もしている。
だから、何に対しても優先的にできるべきだ。
果たしてそうだろうか?
お金のある人は、単にお金を稼ぐ努力をし、お金を稼ぐ能力があっただけではないのか。
お金を稼ぐこととは関係のないところで努力をする人間もいるのではないか。
むしろ、人間の道徳的な行為とは、そのようなものではないのか。
人間として、お金があろうがなかろうが関係なく、平等であるべき領域はあるはずだ。
その平等だった部分が、今市場に追いやられ、今どんどん小さくなっている。
と、そうは言っても、今の世界を生きていくうえで、僕だってお金で買いたくなるものがある。
お金で解決できるなら、してしまいたいと思うときがある。
お金がない人には申し訳ないけど、お金があるんだから自分たちだけでも…。
本当は、この世の中から直していかなければいけないんだけど、でもそれは先の話。
今は、とにかく、お金で解決しておこう。
胸は張れないけど。
そうやって妥協していくことがあるかもしれない。
でも、そうだとしても、そんな議論に目をつむって、頭を麻痺させて、お金で解決するのはやめにしたい。
議論をし、道徳的な腐敗と得られる利益と天秤にかけ、それでも利益をとるのかどうかを決めるべきだ。
この議論は、今を生きる全ての人間が必要なことだと思う。
それはつまり、ぼくたちはどんな種類の社会に生きたいか、という議論だ。