キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

育った環境と…

2011年04月28日 | Weblog
最近、週二回くらいのペースでお昼休みに会社の体育館を走っている。走ったあとでは、いつものお弁当屋さんが売り切れなので、そんなときは会社の売店へ行く。
そんな感じでその日のお昼休みも終わりのころに売店へ行くと、残っていたのはパックの焼きそば目玉焼き付だけだった。

買って、席に戻って食べるとすごく懐かしい感じがした。
ぱっと、昔住んでいたアパートの近くにあったスーパースマイルのみたらし屋のおばちゃんの顔が浮かんだ。

毎週土曜日、給食の前に下校するこの日だけは、自由にお昼ご飯を選ぶことができる。
選択肢としては、モンタボーというパン屋さん、サークルK、そしてスマイル。
一時期はコンビニで買い物をするのが今風でかっこいいように思った時もあったけど、結局はスマイルで焼きそばを買って食べたことが一番多いような気がする。
みたらしのおばちゃんと呼んでいた小太りのおばちゃんは、僕の中で一番おいしく焼きそばを作れる人だった。
そして、パックのやきそばを片手に家に向かう、あの昼下がりの無限に広がっているような感覚。
子供心に、これこそ自由だと思った。

あのとき住んでいたアパートにはもう何年も行っていないけど、あれがやっぱり「家」と言った時の僕の原風景だ。
きっと、あの「家」のせいで一軒家に興味がないんだと思う。

よくよく思うけれど、人間って育った環境が自分にとっての標準だと思うらしい。
家もそうだし、兄弟もそう。

僕は一人っ子だったから、兄弟が欲しいなんて全然思わなかった。
今でこそ、夕夏の妹弟に囲まれてその良さを知ったけど、それまでは一人っ子が敬遠される理由すら分からなかった。

きっと、勉強方法やスポーツ、習い事、なんでもそう。
その人が生まれ育った環境が、実は一番いいと思ってしまいがち。
その凝り固まった考えを少しでも自由に解き放って、自分の子供には接したい(気が早い)。
でも、それはそれとして、子供のころの原風景、自由だと心から思ったあの気持ちは大切にしたい。

大英帝国衰亡史

2011年04月23日 | Weblog
「これからの日本人は、『坂の上の雲』のような、国というものがようやく成立し、さあこれから欧米に必死で追いついて行こうという昂揚感を表した本よりも、国や経済が成熟きって、人口もこれから減りつつあるなかでは、いわゆる国の衰亡史を読むべきだ」とアドバイスを受けた。

なるほど、それもそうだ。

大国の衰亡史と言えば真っ先に思い浮かぶのがローマ帝国。
それ以外にも、イタリアのフィレンツェやヴェネツィア、スペイン、イスラム帝国、モンゴル帝国、中国の王朝たち、果てはマヤ、アステカ、インカ帝国など、世界史は興隆と衰亡の歴史だ。
強大な力を持った都市や国、帝国は必ず衰亡する。
ならば、それら無数の衰亡史から何か学び取ることができて、それを正に今、衰亡の入口に立っている日本で活かすことはできないか。

考えてみれば当然今の日本にあってしかるべき発想だと思う。
NHKで何年もかけて『坂の上の雲』をドラマ化している時ではないのかも。

本当はローマ帝国の衰亡史を読みたかったが、塩野七生の『ローマ人の物語』はかなり気合がいるし、それ以外の有名な衰亡史もけっこう歯ごたえがあるものばかりらしい。
そこで、まずはとっかかりとして勧められたのが『大英帝国衰亡史』(中西輝政著)だった。

この本の特徴は、単に大英帝国の衰亡の歴史を追うことにとどまらず、大英帝国がどのようにしてあれだけの一大帝国となったのかという、世界大国としての本質を考え、そしてその衰亡の原因を探求しようとしていることにある。
そして、その衰亡の原因を産業や財政、社会制度、政治構造などの個々の要素にだけ求めるのではなく、それらを踏まえたうえでもっと大局的に、英国民の精神的な面や、文明的な観点から考察している点である。
また、日本人が著していることで、現代の日本の置かれている状況についても、大英帝国の衰亡と重ねるようにして、直接的でないにしても考察が入っている点が興味深い。

以下では、そのイギリスの衰亡の原因の主なところを自分なりにまとめてみる。
あくまで、個人的メモ。長いので、読む必要はありません。



エリザベス女王がスペインの無敵艦隊を破った16世紀から、イギリスの大国化が始まる。
そして、18世紀から19世紀のナポレオン戦争での勝利によってそれは絶頂に至ったかと思われる。
しかし、その直前のアメリカ独立戦争での敗北が、大英帝国の衰亡の兆としなる。

<自由貿易>
19世紀になると、これまでイギリスが積極的に進めていた自由貿易が重くのしかかってくる。
工業力が他の追随を許さないとき、自由貿易という制度はその国の経済の発展をさらに後押ししてくれる。
しかし、その工業力が他の国に追いつかれてきたとき、これまで自由貿易を世界で旗を振って推進し、自由貿易こそ経済の真理と信じていたイギリスとしては、もはや保護貿易に戻ることは精神的な面からも許されなかった。


<反帝国主義>
そして、さらにイギリスに追い打ちをかけるのが世界的な反帝国主義の流れ。
これまで、植民地を広げ、そこに自国の製品を売りつけることで経済を発展させてきたイギリスにとって、この反帝国主義、植民地独立という世界的な流れには機敏に対応することができず、保守的な政策をとったために、ボーア戦争という屈辱やアラビアのロレンスという英雄を生み、そしてインドやパレスチナからの撤退へとつながる。


<アメリカ>
最後に、大英帝国の衰亡の大きな原因となったものの一つがアメリカの台頭だ。
イギリス人と同じアングロサクソン系の多いアメリカは、イギリスにとっては独立戦争で戦いはしたが、その後はよき理解者であるはずだった。
そのよき理解者アメリカは、第二次世界大戦中に巨額の軍事支出を重ねて今にも破綻してしまいそうだったイギリスに巨額の経済支援をしていた。
しかし、大戦が終わるやそのアメリカからの支援は突然打ち切られ、これによってイギリスの経済はむしろ大戦中よりも悪化することになる。
このためイギリスはアメリカに対して何度も支援を要請するが、これに対するアメリカの態度は冷ややかで、次々とイギリスに対して困難な条件での支援を表明、その結果戦後のイギリスを骨抜きにしていった。


上記の「自由貿易」、「反帝国主義」そして「アメリカ」という3つのキーワードの重なりからイギリスは経済が悪化し、次々と植民地を手放すこととなり、そしてダメ押しとしてのスエズ運河からの撤兵をもって、この本では大英帝国の終わりの終わりとしている。


今の日本を、大英帝国の衰亡史と重ね合わせるとどうか。
一つは、後戻りできない「自由貿易」の中でもがいている姿が似ているように思う。
そして、韓国、中国など十数年前にはまだリードを保っていた国に対して最近では負けを重ねている。

本書は衰亡史であるからして、どうすれば衰亡を防げるのかという直接の言及はない。
ただし、確かに今の日本が衰亡のプロセスに入ろうとしていて、本書の言葉を借りれば「終わりの始まり」に立っているんだという認識はある。
さて、これから…


東北地方のボランティア -3- 石巻での写真

2011年04月19日 | Weblog
夕夏が写真を使って、ボランティアの様子を紹介していて、これはわかりやすいと思ったので、自分の写真を使って同じことをしてみる。


4月16日(土)早朝、仙台駅近くで石巻へ向かうシャトルバスを待つ人の列。



このシャトルバスは、東北福祉大学のまごのてくらぶという団体が石巻でのボランティアのために無料でアレンジしてくれているもの。
かっこよくて元気のいい大学生たちが対応してくれた。




石巻のボランティアの現場受付。
ボランティアの依頼情報はここに集められ、ここから5名くらいに分けられたボランティアの班が派遣されていく。




派遣前の準備中。
ヘルメットやマスク、長靴、レインコートなど、準備は人それぞれ。



小型トラックの荷台に乗って、いざ派遣先へ。




僕が所属した2班のリーダー(右)と大阪からきて同じランナーということで意気投合したYさん(左)。




派遣先のアパート。
一階部分が津波でやられた。
写真は一階にあったものをまずは全て外に出し終えたところ。




ものを出し終え、その次に泥をスコップでかき出したところ。
4つあった部屋と部屋の間の壁は津波で流され、一つの大きな部屋のようになっていた。




床が傷んでいて、歩くと踏み抜いてしまうことも。
長靴を履いていてよかった。
陽の届かない奥の方は、泥が真っ黒なヘドロ状になっていた。




赤ちゃんの写真と卒業証書が出てきた。




水たまりに落ちていたぺんぎん




本部への帰り道、街の至る所にまだ復興の手が入っていないことが分かった。




自衛隊の方々。
自衛隊にしかできない仕事、ボランティアがやった方がいい仕事、それぞれがまだまだたくさんある。




信号が復旧していないため、警察が常に手信号をしている。




本部にて。
まごのてくらぶの方々と、自衛隊員。




作業が終わったら、使ったスコップをみんなで掃除。




京都から復興支援のために来たサンタクロース号。





このころになると、ボランティア同士打ち解けてきて、作業も班を越えて協力し合った。




この本部は、自衛隊の車両の駐車スペースにもなっていた。




派遣先のアパートで作業をした2班と3班の方々。
作業中はマスクにヘルメットだったので、素顔を見ると意外な感じ!?





と、写真で追っていくとこんな感じでした。
にしても、このブログを使って10年近くになるけど、こうやって写真をたくさん貼れるのは初めて知りました。


東北地方のボランティア -2- 石巻での活動

2011年04月17日 | Weblog
「大阪を出るときに、『素人が1人で行っても迷惑になるだけだよ』と友人に言われました。
そういった後ろめたさもありましたが、それも含めてまずはここへ来たいと思いました。」

作業のお昼休憩のときに、同じ2班のYさんがそう話した。
この作業場には3つの班が配置され、合計で15人くらいが従事していたが、その多くが今回が初めての参加者だった。
そして、このYさんの話に皆がうなずき、共感した。



金曜の夜行バスに乗って、土曜の早朝に仙台に到着。
そこからは、東北福祉大学の「まごのてくらぶ」という団体のアレンジにより石巻市までバスで移動。
バスの中でその日の班分けが発表され、石巻専修大学で着替えなどの準備をした後に、石巻市の被害が大きい地区までバスで移動した。

僕は2班に配置された。
メンバーは、昨日から参加している50代の女性をリーダーとして、先に登場した大阪から来た50代の男性、東京から来た40代の男性、20代の中国人の男性、そして僕を合わせた5人。
リーダーの女性を除いては皆が初参加だった。

2班に派遣指示があったのは、1階が津波で大きく破壊された木造アパートの片づけ。
アパートという大きな現場なので、2班のほかにもう2つの班も派遣され、合計3つの班での作業となった。

現場に行く間の光景は、まるで戦争映画に出てくる市街戦中の街のようだ。
車がぐちゃぐちゃになり、木造家屋の1階が吹き飛んでいて、室内は泥まみれ。
テレビでは何度となく見ていたはずの光景なのに、初めて見るような感覚。
テレビからの映像は、文字通り、画面から流れ出ていただけなのかも。

現場の木造アパートは2階建てで、1階に4つの部屋があった。
でも、今は部屋の仕切りが津波に流され、一つの大きな部屋となっている。
あの日から、そこは手つかずで、家財道具が何から何まで泥をかぶって散乱していた。
もとあった場所に残っているものは何もないくらい、全てが散乱していた。
その一つ一つを皆で外に運び出し、スコップで泥をかき出した。
日の当たらない、部屋の奥の方の泥は、真っ黒になっていて、においも強くなり、へどろになっていた。

床はあちこちに穴が開いていて、梁のない場所を踏むと床を踏み抜いてしまうこともあった。
それくらいに、家は傷んでいた。

これがあの日から一か月間手つかずだったのだ。
今日、ようやくボランティアの手が入ることができた。

11時くらいから作業を始め、30分のお昼休みを挟んで、15時まで続けた。
重たい一つ一つの電化製品を運び出すのも大変だったし、水をすって重くなった畳を持ち上げるのも大変だった。
そして、薄暗く足場の悪い中での泥のかき出しも大変だった。
それでも、メンバーのみんなが明るく、声を掛け合って作業を続けた。
誰もネガティブなことを言わないのは、こういう災害復興のボランティアという性格上のものかもしれない。
部活や仕事だったら、僕も含めて、きっと不平不満が出るもんだ。

と、そんな考えに対するうちの班の女性リーダーの示唆。
「短い時間だからできるんです。
これが朝の9時から夜の17時までだったらできません。
11時から15時までと決まっているからできるんです。
期間も同じで、これを毎日やると思ったら、こんなに元気にはできませんよ」

確かに。
だから、このパワーというか、瞬発力はこういった短期ボランティア特有のものなんだ。
短い期間だけ来て、その期間だけはぐっと大きなパワーを発揮して、そして地元に帰っていく。
そんな短期のボランティアが各地からかわるがわる来ては帰っていく。
それって、すごく大きなエネルギーで、短期のボランティアにしかできないことだと思う。
短期のボランティアって、別の言い方をすれば、誰でもできるボランティアということだ。

作業をしたアパートの隣の民家の一階はやっぱり泥だらけで、家具が散乱していて、でもまだ手つかずのようだった。
たぶん、ボランティを要請しているのだけど、まだ順番が回ってこない家。
そんな家が、本部に戻る道でもたくさん目にした。
まだまだ人が足りていない。

復興資金でボランティアは買えないし、ボランティアがいくらがんばっても復興資金は作れない。
どちらも大切で必要なものだってことに気付いた。



道々で見る、半壊、全壊状態の家屋。
ここまで破壊されていると、危険すぎてもう短期のボランティアでは手が付けれらない。
こうなると、自衛隊や業者が重機を使って作業をするしかない。
ボランティアにはボランティアの、自衛隊には自衛隊の、それぞれが必要とされている場所がある。

でも、考えてみたら、今回作業したアパートの一階をみんなできれいにして、でもそのあとは結局被災した人たち自身による復興しかないんだ。
僕たちができるのは、復興のほんとに最初のところだけで、そのあとの長い長い復興は、あの大家のあばあちゃんがやるんだ。
気の遠くなるような、そんな状況で、心折れずに僕らに感謝の言葉を笑顔で言ってくれる、あのおばあちゃんはすごい。

アパートの、太陽の光の届かない台所の方の薄暗い場所に行くと、急に心細くなって、怖くなった。
日が沈んで、ここが真っ暗になったら、大家さんはどれだけ寂しくて、くじけそうになって、泣きたくなるか。
考えただけでも、気持ちがどうかなってしまいそうだ。

大阪から来たYさんが、作業が終わった後に、大家のおばあちゃんに
「これ、大阪からのお土産です」
といって、おまんじゅうを渡していた。
そのときの、大家さんの恐縮そうだけど、うれしそうな顔。



長々と、とめどなく、思ったことを書いたけれど、まとめとしては、

1) 人はまだまだ足りていないし、一日でも力作業でも単純作業でも仕事はいっぱいある(もちろん、住んでいる地域でできることもある)。
2) 被災者の方々は、これから想像を絶する大変な復興への道を進もうとしている。少しずつでも、日本中のみんながそれを長いスパンで助けられたらと思う。


東北地方のボランティア

2011年04月13日 | Weblog
3月11日の震災以来、ブログが書けなくなっていた。
何か書こうと思っても、こんなときにそんなことを書いてもいいのか、なんて思って、全然手につかなかった。

毎日報道されている映像は、もう僕が想像できる範囲を遥かに超えていて、でも人間の適応能力のすごさというか、だんだんそれに慣れていくような、麻痺していくような自分や、周りのみんな、そして世の中の空気がおそろしい。

先週末、東京の砧公園というところでお花見をした。
日本で桜を見るというのは実に四年ぶりで、それだけで胸がいっぱいなのだけど、それにも増して、砧公園の平和で溢れそうなその雰囲気に感じ入った。
遊びまわる子供たち、赤ちゃんを連れた親、気の合う友達同士、そんな多くの人が満開の桜の下で本当に幸せな風景を作っている。
被災地の人たちに後ろめたさはあっても、正直、日本ってほんとにいい国だなと、その風景をみてつい思ってしまった。

そんなときに、知り合いがゴールデンウィークを利用して東北地方にボランティアに行く計画を進めていることを知った。
そして、周りに同じように考えている人が大勢いることを知った。
正直、みんなの意識の高さに驚いて、尊敬した。
そして、自分も行きたいと思った。

被災地には一日に千人を越えるボランティアが集まっているという。
その中に自分が行っても、被災地の復興のためにできることはほんとにわずかなことだと思う。
それよりは、義援金という形の支援の方がより実行力があるとも思う。

でも、やっぱり現地に行って、直接被災地を見て、その復興に直接手を出したい。
それは、もう被災者のためだけではなく、自分のためという気持ちが大きい。
日本史上、最大規模の天災が、今自分の生きているこの時に起きた。
そのことを、ただ流されてくる情報だけで過ぎ去らせるのではなく、自分の中にできる限りの何かを残したい。
そのために、まずはボランティアとして、被災地に行こうと思った。

そう思っていろいろ調べていると、意外と被災地への移動手段が回復していることがわかった。
仙台まで東京からの夜行バスで行き、そこから石巻まではローカルのバスを使う。
そうすれば、金曜の夜に出て、土曜にボランティアをして、日曜の早朝には戻ってこれる。

そうとわかれば、居ても立ってもいられず、とりあえず今週末に行こうと決めた。
ゴールデンウィークに数日間泊りがけで行くには、テントや食料など、それなりの計画と準備が必要だ。
でも、そうやって被災地に行く前にたくさんのエネルギーを使って、ボランティ自身がとっても大変で、遠いことだと感じてしまう前に、一度ぱっと行ってみたいと思った。
そして、ボランティアという活動が身近で、言い方が悪いかもしれないけれど、気軽に参加できるものであることを知りたい。
参加した結果、やっぱりそんなことはないんだって知るのかもしれないけど。

幸い、夕夏も賛同して一緒に行ってくれる。
とにかく、今は動きたい。