味覚ほど、生まれ育った環境により、育まれるものはない。
食べてきたものが、そのひとの感覚を作っている。
同じように、人間関係もまた、その人間環境、社会の環境が
そのひとの反応を育てる。
豊かな食味を持つ人は、豊かな反応を示し、豊かな人間関係を
持つ。
これは、五感にも通じる。
豊かな人ほど、豊かな五感を持っている。育てている。
偏りのある感覚を持つ人ほど、志向もまた、偏りがある。
存在とは、そのようにできている。
この世界の在りようの凄さであり、時に凄まじい結果を
呼び寄せる。
偏重することで、傾いた物事を正しいものだという捉え方をし、
世界を歪んだものとして
正しく認識する。
それもまた、そのひとの在りよう。
そのことの学び、フィルターのレベル。
低ければ、低いなりの生き方を。
高ければ、高いなりの生き方を、めざす。
けれども、本質体という高位の魂をを宿す存在者は、やがて、
第二の目覚め、本質体の目覚めを迎える。
自分自身で在ることの本質は、高位のものとしての在るべき姿を
軽やかに認識できる。
そして、その存在もまた、軽やかなのだ。
高位は波動が高いために軽く暖かい。
低位は、波動が荒いために重く冷たい。
あるがままとは、それ自身の意義が、至極、当たり前なのだ。
人間が思う以上に、この世界は、宇宙の法則に沿って、
ひとの頭でも少し、ひの裳裾にふれられるようにできている。
わかろうと思えば、たやすく理解ができ、
わかりたくないものは、闇にまよう。
それもまた、宇宙の真理。