要左衛門の調査から判明しました。
寺野地区の二つの墓石銘は赤松地区の2ヶ寺のうち龍法寺の過去帳に記載されていたことを調査員の方から知らされた。
今度は流矢地区にも住んでいたという記録をたよりに詳しい情報を探してみます。
もうひとつ判明したことは、寛政九年に処刑されたらしく45歳前後の人物らしいとのことです。
まだまだ逸話があるので今後も投稿していきたいと思います。
寺野地区の二つの墓石銘は赤松地区の2ヶ寺のうち龍法寺の過去帳に記載されていたことを調査員の方から知らされた。
今度は流矢地区にも住んでいたという記録をたよりに詳しい情報を探してみます。
もうひとつ判明したことは、寛政九年に処刑されたらしく45歳前後の人物らしいとのことです。
まだまだ逸話があるので今後も投稿していきたいと思います。
要左衛門の調査から寺野地区にある墓石群を調べているが、今回また違う墓石群を発見した。
明和と刻印されているので約240年前のものである。そして、先祖墓と書かれたものが4墓見つかった。
要左衛門の時代に近く、我が家のご先祖の宝暦に次ぐ時代のもである。
赤松地区にはお寺が2ヶ寺あるがどちらも焼失後の建立であり、前回の発見した墓石の戒名は判らなかった。
要左衛門が寺野に一時住んでおり、娘も住んでいたらしいので、今回のものがそれらしかったが、俗名が一字違っていた。
何らかの因果関係もあるかもしれないが、寺野地区が要左衛門家族と米倉があったことが記されているので、もう少し調査してみます。
明和と刻印されているので約240年前のものである。そして、先祖墓と書かれたものが4墓見つかった。
要左衛門の時代に近く、我が家のご先祖の宝暦に次ぐ時代のもである。
赤松地区にはお寺が2ヶ寺あるがどちらも焼失後の建立であり、前回の発見した墓石の戒名は判らなかった。
要左衛門が寺野に一時住んでおり、娘も住んでいたらしいので、今回のものがそれらしかったが、俗名が一字違っていた。
何らかの因果関係もあるかもしれないが、寺野地区が要左衛門家族と米倉があったことが記されているので、もう少し調査してみます。