1月8日の、見つからないデスクトップのことで、いただいたメールにこう書かれていた。
「ネットワークも(マイ)コンピュータもすべてがそのサブフォルダとなるツリー構造になっていますので、ツリー構造の根幹が無いのにその下のフォルダ存在することが不思議です。」
あの現象は、根幹はあっても名前が変わってしまっているのだと思っていたが、根幹がないという見方もできるという頭の働きには平伏脱帽である。
ヒエラルキー構造にはトップの存在が欠かせない。
部長課長をグループマネージャーとか、グループリーダーと呼んでみたり、会長社長をCEOと呼んでみたり、いや会長は違うと言ってみたりするのと、存在の有無とはわけが違う。
根幹のないのにその下のフォルダの存在が不思議だという話から、某国の現実鏡像を見せられているような気がした。
背筋に寒さを覚えるほどではなくても、ネバネバに続く言葉は、実は安心ではなかったのかと、いまさらながら落ち着かない気分になった。
昨日成人の日を過ごした人たちは、いったいどんなことを考えているのだろうか。