外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

末吉俊信さん(続編)

2010-06-19 16:13:57 | 大学野球
リーグ通算43勝20敗という早大野球部史上で最多勝を記録された末吉俊信さんのことを書きました。
末吉さんの過去記事

今日は東伏見か平塚に出掛ける予定でしたか、明け方の大雨ですっかり出鼻をくじかれてしまいました。
そこで、名投手・末吉さんについて、もう少し補足したいと思います。

末吉さんは、第二次大戦中の昭和19年に旧制小倉中学を卒業し、海軍の予科練に。
終戦後に八幡製鉄(現在の新日本製鐵)に入社しました。

当時の八幡製鉄の野球部は強豪で、西本幸雄(立教)など六大学の花形選手が卒業後に就職してプレーしていまして、そこで末吉さんはすぐに主戦投手となりました。
末吉さんは、九州に遠征してきた早稲田や慶応をなで切りにし、「八幡に末吉という凄い投手がいる」と東京でも有名になり、それが早大進学のきっかけになったのだそうです。

昭和22年、末吉さんは早稲田に入学するのですが、その直前にヒジを傷めました。
そこで、鉄アレイで手首を強化し、相撲のテッポウで下半身を鍛練。
そしてヒジの負担を軽くしようと投法を工夫しているうちに、スライダーを発見しました。
そして投球に幅を持たせようとシュートも習得しようとするうちに投球を上手投げから下手投げに切り替えし、そして下手からのシンカーも会得。
ついに「ミラクル投手」と呼ばれる域に達しました。

末吉さんの入学した昭和22年には、名捕手となる宮原実さん(岡山二中。現在の岡山操山高校。写真の左)も同期で入学。
また、シベリアに抑留されていた天才打者・石井藤吉郎さん(昭和18年入学。水戸商業)が復員されました。

そして昭和23年に、小倉中学の後輩・宮崎康之(後に早大監督)、24年に荒川博(早実)、岩本尭(田辺)、沼沢康一郎(函館中部)らが続々と入学。
昭和25年には名手・蔭山和夫(昭和19年入学、市岡中学。)が卒業するも、入れ替わりで広岡達朗(呉三津田)、小森光生(松本市立)、福嶋一雄(小倉高校)といった俊英たちが入学してきて、早稲田の黄金時代が形成されました。

写真は当時の安部寮で憩う、左から広岡、小森、福嶋、宮崎の主力選手たち。
当たり前のことですが、皆さん、若い!


当時の早稲田は、強かった。
昭和23年春:優勝
同年秋:3位
昭和24年春:優勝
同年秋:3位
昭和25年春:優勝
同年秋:優勝
昭和26年春:優勝

昭和24年秋は、優勝の懸かった早慶三回戦で、四回まで5対2でリードするも雨天ノーゲーム。
翌日の再試合では負けてしまって3位でした。
もし早慶三回戦でそのまま勝っていたら、前人未到の5連覇になっていたはずでした。

末吉さんは、早大卒業後に毎日新聞社に就職。
出向の形でプロ野球の毎日オリオンズでプレーした後に、新聞記者として永らく勤務されました。

こういう方法で神宮のスター選手がプロでプレーするという選択肢が、もし現在も残っていたら楽しいだろうなと、個人的には思っています。
Comment (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする