10日ほど前、Tくんに『月刊大相撲』だったか『サラブレ』のどちらかを頼まれ、買い物のついでに本屋さんへ行った。あんまり行かない本屋さんなので、つい雑誌売り場を一巡してチェック。つまむように立ち読みをして、その内の1冊はさんざん迷ったあげく買ってしまった。
別冊宝島の「新装版『昭和の小学生』大百科」。昭和40年代を小学生として過ごした私には、どうしても見過ごせなかった。
例えば「昭和子どもグッズ大カタログ」。
その頃の小学生ならほとんどの方がご存知の「アーム筆入れ」(サンスター文具)。「象が踏んでもこわれない」のキャッチフレーズが流れるCMで有名な筆箱である。
こんなCMだったばかりに、気の毒な「アーム筆入れ」は購入直後よりとんだ受難に見舞われる。まず、みんなでよってたかって踏みつけられた。踏む方も最初はこわごわなのだが、壊れないとわかると飛び乗ってみたりする。それでも壊れないと見るや、3階の窓から投げ落とした子もいた。とにかくどうやったら象を越えられるのか(壊れるのか)、みんな興味津々だったのだ。
たぶんこのCMを見た小学生たちは、かなりの確率で即座に「アーム筆入れ」を何らかの形で破損したのではないかと推理する。そして親御さんたちは、二度と「アーム筆入れ」を買わなかっただろうと思われる。パワーと好奇心いっぱいの子ども心を突く、とんだヤブヘビCMだった訳である。
本来の使用目的である「筆箱」ではなく、「象を越える実験対象」として「アーム筆入れ」を求めた児童心理の次のステージは、いかに? 残念ながら記憶の彼方であるため、この続きは不明なままだ。
が、このようなことから、「昭和の小学生」たちは、実験の好きな科学的探求心の強いお子様たちだったことがわかる。大阪万博もあったし、月の石も話題になった。学研の「○年の学習」は多くの子どもたちが定期購読していたが、「○年の科学」はごく一部の男子が購入していた。
今朝、出勤前の夫にトイレのドア越しに「小学生のとき、『学研の科学』買うてたやんなー?」と確認したら「うん」という返事があったので、「『昭和の小学生』大百科」片手にインタビューを続行した。
「『鉱物実験標本セット』って付録、あった?」
「あった、あった! あれはうれしかった! うれしかったし、後でもっとでかいのを自分で作った」
さすが栴檀(せんだん)は双葉より芳し、子どもの頃から筋金入りのマニアだったのだ、と感心する。
「そしたら『酸素・二酸化炭素実験セット』は?」
「お~~、あったな~」と懐かしげな声で返事が返って来る。
私は高学年になってから、「科学」の講読を許された。もともと本を買う事については、ハードルが低かった。「科学」で憶えているのは「豆腐、コンニャクづくり実験セット」「名探偵セット」などの付録だ。
「豆腐作り」も「コンニャク作り」もなぜか失敗し、指紋の検出グッズや文字が消えたり出て来たりする不思議なペンが入った「名探偵セット」は、感激のあまりもったいなくて使えなかった。「科学」は付録のインパクトは大きいのに、本誌は薄くて私には意外につまらなかった。それでも成績はともかくとして「サイエンス」への興味は、女子としてはあった方なのかも(今も)。
一方「学習」はすみからすみまで読んだ上、お勉強のページもこなし、クオリティの高かった付録の文庫本も繰り返し読んだ。なかでも年間を通して一番の楽しみは秋の別冊「読み物特集号」。
とりわけ印象深かったのは、短編の「ふなむし裁判」だ。夏休みに一家で遊びに来た海辺の親戚の家で、「はたしてフナムシは無罪(無害)か有罪(害虫)か?」を家族で争うユーモラスな模擬法廷もの。被告席には捕まえられ壜に入れられたフナムシががさごそと動いている。有罪を叫ぶ証言席が圧涛Iに有利だが、果たして結末は・・・? 公平を装いながらも息子を援護射撃する裁判官のお父さんが、非常にかっこよかったという記憶がある。
あんなに心待ちに雑誌を定期購読していたんだなあと、そんなこともしみじみと思い出してしまった「『昭和の小学生』大百科」なのであった。
別冊宝島の「新装版『昭和の小学生』大百科」。昭和40年代を小学生として過ごした私には、どうしても見過ごせなかった。
例えば「昭和子どもグッズ大カタログ」。
その頃の小学生ならほとんどの方がご存知の「アーム筆入れ」(サンスター文具)。「象が踏んでもこわれない」のキャッチフレーズが流れるCMで有名な筆箱である。
こんなCMだったばかりに、気の毒な「アーム筆入れ」は購入直後よりとんだ受難に見舞われる。まず、みんなでよってたかって踏みつけられた。踏む方も最初はこわごわなのだが、壊れないとわかると飛び乗ってみたりする。それでも壊れないと見るや、3階の窓から投げ落とした子もいた。とにかくどうやったら象を越えられるのか(壊れるのか)、みんな興味津々だったのだ。
たぶんこのCMを見た小学生たちは、かなりの確率で即座に「アーム筆入れ」を何らかの形で破損したのではないかと推理する。そして親御さんたちは、二度と「アーム筆入れ」を買わなかっただろうと思われる。パワーと好奇心いっぱいの子ども心を突く、とんだヤブヘビCMだった訳である。
本来の使用目的である「筆箱」ではなく、「象を越える実験対象」として「アーム筆入れ」を求めた児童心理の次のステージは、いかに? 残念ながら記憶の彼方であるため、この続きは不明なままだ。
が、このようなことから、「昭和の小学生」たちは、実験の好きな科学的探求心の強いお子様たちだったことがわかる。大阪万博もあったし、月の石も話題になった。学研の「○年の学習」は多くの子どもたちが定期購読していたが、「○年の科学」はごく一部の男子が購入していた。
今朝、出勤前の夫にトイレのドア越しに「小学生のとき、『学研の科学』買うてたやんなー?」と確認したら「うん」という返事があったので、「『昭和の小学生』大百科」片手にインタビューを続行した。
「『鉱物実験標本セット』って付録、あった?」
「あった、あった! あれはうれしかった! うれしかったし、後でもっとでかいのを自分で作った」
さすが栴檀(せんだん)は双葉より芳し、子どもの頃から筋金入りのマニアだったのだ、と感心する。
「そしたら『酸素・二酸化炭素実験セット』は?」
「お~~、あったな~」と懐かしげな声で返事が返って来る。
私は高学年になってから、「科学」の講読を許された。もともと本を買う事については、ハードルが低かった。「科学」で憶えているのは「豆腐、コンニャクづくり実験セット」「名探偵セット」などの付録だ。
「豆腐作り」も「コンニャク作り」もなぜか失敗し、指紋の検出グッズや文字が消えたり出て来たりする不思議なペンが入った「名探偵セット」は、感激のあまりもったいなくて使えなかった。「科学」は付録のインパクトは大きいのに、本誌は薄くて私には意外につまらなかった。それでも成績はともかくとして「サイエンス」への興味は、女子としてはあった方なのかも(今も)。
一方「学習」はすみからすみまで読んだ上、お勉強のページもこなし、クオリティの高かった付録の文庫本も繰り返し読んだ。なかでも年間を通して一番の楽しみは秋の別冊「読み物特集号」。
とりわけ印象深かったのは、短編の「ふなむし裁判」だ。夏休みに一家で遊びに来た海辺の親戚の家で、「はたしてフナムシは無罪(無害)か有罪(害虫)か?」を家族で争うユーモラスな模擬法廷もの。被告席には捕まえられ壜に入れられたフナムシががさごそと動いている。有罪を叫ぶ証言席が圧涛Iに有利だが、果たして結末は・・・? 公平を装いながらも息子を援護射撃する裁判官のお父さんが、非常にかっこよかったという記憶がある。
あんなに心待ちに雑誌を定期購読していたんだなあと、そんなこともしみじみと思い出してしまった「『昭和の小学生』大百科」なのであった。